第5話:黒い大陸の掃除、甘い果実の褒美
アドレット・フォン・シュライヒャーが『中東連合暫定統治機構』の初代議長に就任してから、半年が過ぎた。
世界は、彼女が成し遂げた奇跡を目の当たりにしていた。
かつて憎しみ合っていたイスラエルとアラブ諸国が、共通の経済的利益の下で手を取り合い始めていた。テュートネス騎士団の完璧な管理体制により、資源は公平に分配され、パレスチナには巨大な植物工場が稼働し、食料問題は劇的な改善を見せた。アドレットの名は、中東において、もはや預言者や救世主の同義語となりつつあった。
だが、彼女の視線は、すでに新たな戦場に向けられていた。
アフリカ。
神が見捨てたかのような、混沌と貧困が渦巻く、広大な黒い大陸。
「――雫。データは揃ったか」
東京、六本木ヒルズの天空の城塞。
アドレットは、自らがデザインした漆黒の執務椅子に深く腰掛け、窓の外に広がる摩天楼を眺めながら言った。その声は、半年前よりもさらに深く、威厳を増している。
「……うん、だいたいね。でも、アドレット、これは……中東より遥かに根が深いよ」
アドレットの傍らで、雨宮雫は数枚のホログラムスクリーンを同時に操っていた。その指先から生み出されるデータは、アフリカ大陸が抱える絶望的な現実を映し出していた。
部族対立、終わらない内戦、クーデター、汚職、貧困、飢餓、テロ。
あらゆる問題が複雑に絡み合い、巨大な癌のように大陸全体を蝕んでいる。
「まさに、害虫の巣窟だな」
アドレットは、心底うんざりしたように、しかしどこか楽しげに言った。
「腐敗した政治家、私腹を肥やす軍閥、無知な民衆を扇動するカルト教団、そして、その混乱に乗じて資源をかすめ取る欧米や中国のハイエナども。……ああ、掃除のし甲斐がありそうだ」
「そんな簡単なものじゃないよ!」
雫は思わず声を上げた。
「見て、このサヘル地域の惨状を。ボコ・ハラムやIS系の過激派が、村々を襲って子供たちを兵士にしてる。政府は機能不全で、国連のPKO部隊は手も足も出せない。毎日、何百人もの人が死んでるんだよ」
雫の黒縁メガネの奥の瞳には、哀れみと無力感が浮かんでいた。ダークウェブを通じて、彼女はあまりにも多くの悲劇を見てきた。
「だから掃除をするのだろう? 雫。それに、人は必ず死ぬものだ。多少早いか遅いかの差でしかない」
アドレットは椅子を回転させ、雫と向き合った。
「腐った膿は、一度全て絞り出さねばならん。感傷に浸っている暇はない。お前は私の『目』だ。淡々と、事実だけを私に伝えろ」
「……分かってるよ。でも……」
私はアドレットみたいに強くない。そう言おうとした雫が俯いたその時、アドレットはすっと立ち上がり、彼女の隣に膝をついた。そして、その細い指で、雫の顎をくいっと持ち上げた。
「……アドレット?」
間近に迫った完璧な美貌に、雫の心臓が跳ねる。
アドレットの蒼い瞳が、じっと雫の目を見つめていた。その瞳には、いつもの冷徹さではなく、不思議なほど穏やかな色が宿っていた。
「よくやったな、雫。この半年の働き、見事だった。お前がいなければ、中東の平定も、ここまで早くは進まなかっただろう」
「え……」
「故に、たまには『褒美』をやろう」
アドレットはそう言うと、雫の黒縁メガネをそっと外した。露わになった雫の大きな瞳が、戸惑うように揺れる。
次の瞬間、アドレットの顔が近づき、柔らかい唇が、雫の唇にそっと重ねられた。
「ん……!?」
甘い、花の蜜のような香りがした。雫の頭の中が、真っ白に染まる。
それは、ほんの数秒の、羽が触れるようなキスだった。しかし、雫にとっては、永遠のように感じられた。
唇が離れると、アドレットは悪戯っぽく微笑んだ。
「……甘いな、雫。お前の味は。これが最初の褒美だ。もっと欲しくば、私の期待に応え続けることだ」
「あ……あ……」
雫は、顔を真っ赤にして固まっていた。言葉が出ない。PCの処理能力は世界トップクラスでも、恋愛偏差値はゼロに等しい。今の出来事が何を意味するのか、彼女の脳は処理しきれずにショートしていた。もっと? どういうことなの。やっぱり、この人は変だ。どこかおかしい。芸術家みたいな絵を描くし、変態かもしれない。でもすごくドキドキする。
アドレットは、そんな雫の様子を面白そうに眺めていたが、やがて真顔に戻り、冷徹な支配者の顔になった。
「さて、イチャつくのはここまでだ。仕事に戻るぞ」
「い、イチャ……!?」
「まずは、アフリカの『害虫』の中でも、特に目障りな一匹を駆除する。フランスだ」
アドレットの瞳に、再び闘争の炎が灯った。
「旧宗主国として、未だにアフリカに巨大な利権を持ち、フラン圏という名の金融植民地支配を続ける、卑劣なハイエナ。彼らの牙を抜き、アフリカから完全に叩き出す。それが、我々の『アフリカ解放戦争』の第一幕だ」
彼女の宣言は、新たな時代の混沌を告げる鐘の音のように、静かなオフィスに響き渡った。
*
フランス。
その美しい花の都パリの裏側では、国家の威信を揺るがすスキャンダルが静かに進行していた。
サヘル地域の小国、ニジェール。世界有数のウラン産出国であり、フランスの原子力発電を支える生命線だ。フランスは、この国に軍を駐留させ、親仏政権を支援することで、ウランの利権を独占してきた。
だが、アドレットと雫は、その裏で行われている醜悪な取引の証拠を掴んでいた。
フランス政府高官と、現地のウラン採掘企業の幹部が結託し、ニジェール政府に渡るはずの利益を不正に還流させ、莫大な裏金を作り出していたのだ。それは、アフリカの貧困の上に成り立つ、腐敗の極致だった。
「この金の流れを、完全に可視化しろ。誰が、いつ、いくら受け取ったか、金の動きをグラフでわかりやすく」
アドレットの指示を受け、雫はその天才的なハッキング能力を駆使し、フランスの銀行や政府機関の極秘サーバーへと侵入していく。
「見つけた……。エリゼ宮(大統領府)の官僚の名前もある。これは……とんでもないスキャンダルになるよ。フランスって、意外とあくどいことしてるんだね」
「いいぞ、もっと暴け。奴らが隠し持つ、全ての汚物を白日の下に晒すのだ」
アドレットの目は、まるで狩りを楽しむ猛禽類のようだった。
数日後、フランスの主要メディアと、国際的なニュースネットワーク各社に、匿名の送信者から一本のデータファイルが送られた。
『フランスは、アフリカの血を啜る吸血鬼である』
そんな過激なタイトルで始まるそのレポートには、アドレットたちが掴んだ汚職の、動かぬ証拠が全て含まれていた。金の流れ、秘密口座の番号、高官たちの密会の音声記録まで。
フランス社会は、大混乱に陥った。
「アフリカの友」を自称してきた政府の偽善が暴かれ、国民の怒りは爆発。大規模なデモが連日発生し、マクロン政権の支持率は急落した。
国際社会もフランスを激しく非難し、アフリカのフラン圏諸国からは、フランスからの経済的自立を求める声が一斉に上がった。
アドレットが放った「情報爆弾」は、フランスのアフリカにおける影響力を、内側から完璧に破壊したのだ。
「ふん、脆いものだな。ハリボテで固めた偽りの正義など」
アドレットは、パリで起きている暴動のニュースを冷ややかに眺めていた。
「これで、一番大きなハイエナは巣に引きこもった。しばらくすれば腹を空かせて出てくるだろうが、まあいい。次は、現地のゴロツキども……軍閥の掃除だ」
アドレットの次のターゲットは、中央アフリカ共和国。
ダイヤモンドや金などの豊富な資源に恵まれながら、数十年も内戦が続き、「世界で最も貧しい国」の一つに数えられる破綻国家だ。この国は、政府軍、ロシアのワグネル系PMCが支援する部隊、そして無数の反政府武装勢力が入り乱れ、殺戮を繰り広げる地獄と化していた。
「人の欲望とは果ての無いものだ。この国の混沌の中心にいるのは、この男だ」
アドレットは、一人の男の顔写真をホログラムに映し出した。
ジョゼフ・“エル・マタドール”・ンゴマ。
「殺戮屋」の異名を持つ、最強の軍閥リーダーだ。残虐非道な手口で敵対する村々を蹂躙し、ダイヤモンド鉱山をいくつも支配下においている。
「彼を、どうするの? テュートネス騎士団を送り込む?」
雫が尋ねた。
「いや、それでは芸がない。それに、無用な血は流さん」
アドレットは、不敵に微笑んだ。
「この現代においては、暴力には、より強大な暴力で対抗するのではない。暴力の『意味』そのものを、無に帰してやるのだ」
彼女の作戦は、奇想天外としか言いようがなかった。
まず、雫がンゴマの支配下にあるダイヤモンド鉱山の生産・流通データをハッキング。どの鉱山から、どれだけのダイヤが、どのルートで密輸されているかを完全に把握した。
次に、アドレットはテュートネス騎士団の資金力を使い、世界のダイヤモンド市場に介入した。
ンゴマが密輸したダイヤを、市場価格より僅かに高く買い占める。最初は、ンゴマの組織も「高く売れる」と喜んだ。
だが、アドレットは買い占めたダイヤを、市場には一切流さなかった。
さらに、アドレットは自ら設立したダミーの慈善団体を通じて、中央アフリカの政府と反政府勢力の穏健派に接触。
「我が団体は、平和への貢献の証として、今後10年間、貴国から産出される全てのダイヤモンドを、国際市場価格の2倍で買い取ることを約束します。ただし、条件は一つ。全ての武装勢力が武装解除し、和平プロセスに参加することです」
2倍の価格。それは、全ての勢力にとって破格の条件だった。
ダイヤを掘れば、血を流さなくても金が手に入る。ンゴマに従う兵士たちも、馬鹿ではない。危険な戦闘をするより、平和的にダイヤを売った方が、遥かに儲かるのだ。
「……裏切り者が、続出してる。ンゴマの部下たちが、次々と武器を捨てて、政府側に寝返ってるよ」
雫は、リアルタイムで入ってくる現地の情報に目を見張った。
ンゴマの力の源泉は、暴力による恐怖支配と、ダイヤがもたらす富だった。
だが、アドレットは、その「富」を、より巨大な富で上書きした。兵士たちは、もはやンゴマのために命を懸ける理由がなくなった。
暴力は、その意味を失ったのだ。
「な……これが、アドレットの言ってた……」
ンゴマは、急速に力を失い、孤立していった。
かつて最強を誇った軍閥は、たった数週間で、銃声一つ鳴らすことなく内部から崩壊した。
追い詰められたンゴマは、隠し持っていた最後の巨大なダイヤを持って国外逃亡を図った。
だが、その逃走ルートも、アドレットの改良を重ねられた超AI『メテオール』によって完璧に予測されていた。
逃亡先の隣国の空港で、彼を待っていたのは、国際刑事裁判所(ICC)の逮捕チームと、テュートネス騎士団の精鋭だった。
「……戦争は、外交の一種である以上、金で買うこともできるのだ、雫。これは歴史が証明している」
アドレットは、ンゴマが連行されるニュース映像を見ながら、静かに呟いた。
「すごいよ、アドレット……。本当に、すごい……」
雫は、心からの賞賛の声を上げた。アドレットは、一人も殺さず、一発の銃弾も撃たずに、地獄のような内戦を終結へと導いてしまったのだ。
この人なら、本当に世界を変えられるかもしれない。
雫の胸に、アドレットへの尊敬と、それ以上の熱い感情が込み上げてきた。
アドレットは、そんな雫の視線に気づくと、満足げに微笑んだ。
「感心するのはまだ早いぞ、雫。これは、壮大な世界の掃除の、ほんの始まりに過ぎん」
彼女は立ち上がり、雫の元へと歩み寄った。
「だが……まあ、今回も見事な働きだった。よく私の『目』となってくれたな」
「う、うん……」
「約束通り、『褒美』の続きをやろう」
「え!? 続きって……あの……」
アドレットは、雫の戸惑いなど気にもせず、その華奢な体をぐいと引き寄せ、自らの膝の上に座らせた。
「ひゃっ!?」
雫は、小さな悲鳴を上げた。背中越しに伝わるアドレットの柔らかな体温と、首筋にかかる甘い吐息に、全身の血が沸騰しそうだった。
「私が欲しくないとは、言わせんぞ」
アドレットは、雫の耳元で囁くと、その小さな耳たぶを、軽く歯で食んだ。
「んんっ……!」
ぞくり、と背筋に甘い痺れが走る。雫は身をよじったが、アドレットの腕に力強く抱きしめられ、逃れることはできない。
「いい子だ、雫。お前は極めて優秀だ。もっと私に尽くせ。そうすれば、お前が想像もできないような、もっと素晴らしい快楽をくれてやる。いずれはこの世界全てを、お前と私の二人だけのものにしてやるのだからな」
その言葉は、悪魔の囁きか、あるいは神の福音か。
雫の理性は、甘美な毒によって完全に溶かされていった。もはや、この少女に逆らうことなど考えられない。ただ、彼女の望むままに、彼女の野望の道具となること。それが、今の雫にとって、最高の悦びとなりつつあった。
天空の城塞で、二人の少女は静かにじゃれ合う。
その窓の外では、アドレットが仕掛けた「掃除」によって、黒い大陸の運命が、静かに、しかし劇的に変わろうとしていた。
銀髪の魔王が次に打つ一手は、果たして何か。今や世界が、固唾をのんで彼女の動向を見守っていた。
すまんなマクロン