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第3話:獅子と蠍、魔性の調停者


夜のテルアビブ。

地中海に面したこの街は、中東のシリコンバレーと呼ばれ、自由と活気に満ちている。ビーチ沿いのカフェでは若者たちが笑い声を上げ、高層ビルの窓には未来を照らす光が灯る。しかし、その華やかな日常のすぐ隣には、常に「死」の匂いが付きまとっていた。


この国の名は、イスラエル。

周囲を敵性国家に囲まれ、建国以来、一日たりとも平和を享受したことのない、鋼鉄の国家。その心臓部であり、世界最強と謳われる諜報機関が、モサド(イスラエル諜報特務庁)だ。


そのモサド長官、アヴィ・コーヘンの執務室は、街の喧騒とは隔絶された静寂に包まれていた。分厚い防音壁に囲まれ、外部からの盗聴や侵入は物理的に不可能。コーヘンは、この混迷の時代に、歴代最強の長官と評される男だ。その鋭い眼光は、数多の敵を葬り、国家の危機を未然に防いできた。


今、その彼の眉間には、深い皺が刻まれていた。

目の前のモニターに映し出されているのは、一人の少女のプロフィール。


「アドレット・フォン・シュライヒャー。16歳……。そして、テュートネス騎士団の影の支配者……」


コーヘンは唸った。

紅海での一件以来、モサドはこの謎のPMCの内偵を進めていた。表向きのCEOであるザイードはただの傀儡だ。金の流れ、情報の流れ、その全てが、東京に住むというこの一人の少女に繋がっていることを突き止めるまでに、それほど時間はかからなかった。まるで、最初から誘導されているかのように。


だが、問題はそこからだった。

彼女の経歴は完璧すぎるほどに清廉で、何一つ不審な点はない。至って普通の学生だ。しかし、彼女のPCから発信されるデータパケットは、神業のような暗号化と偽装が施され、世界中の諜報機関が束になっても追跡できなかった。


「これは……まるで、幽霊だ……」


その時、執務室のインターホンが鳴った。許可なくここを訪れる者はいない。コーヘンが訝しげに応答すると、部下の切羽詰まった声が聞こえた。

「ちょ、長官! 緊急事態です! 外部ネットワークから完全に遮断されました! 我々のシステムが……何者かに侵入されています!」


「何だと!?」


コーヘンは愕然とした。モサドの誇る世界最高のサイバーセキュリティが破られた? 馬鹿な、絶対にあり得ない。

次の瞬間、彼の目の前のモニターが、砂嵐のようになって乱れた。そして、ゆっくりと一つの映像が映し出される。


そこにいたのは、プロフィールで見たばかりの銀髪の美少女だった。

彼女は、まるで自分の部屋にいるかのようにくつろいだ様子でソファに座り、こちらに向かって優雅に微笑んでいた。


『初めまして、モサド長官アヴィ・コーヘン。回線が混み合っているようでしたので、少しだけ整理させていただきましたわ』


その声は、鈴が鳴るように可憐でありながら、絶対的な支配者の響きを持っていた。


「……何者だ、貴様は」

コーヘンは、長年の経験で培った冷静さを必死に保ちながら問いかけた。内心では、冷たい汗が背中を伝っていた。

「自己紹介がまだでしたか。私の名はアドレット・フォン・シュライヒャー。既にご存知かと思いましたが。ご覧の通り、しがない日本の女子高生です」


少女はくすくすと笑う。その姿は、悪魔が天使の仮面を被っているかのようだった。


『本題に入りましょう。長官、貴国は今、大きな問題を抱えている。ハマスとの終わらない消耗戦、ヒズボラとの睨み合い、そして何より……』


アドレットは言葉を切ると、その蒼い瞳でコーヘンの心を射抜くように見つめた。

『……イランの核開発。そうでしょう?』


コーヘンの心臓が跳ねた。イランの核問題は、イスラエルにとって国家存亡に関わる最大の脅威だ。


『貴方方は、イランの核施設への空爆作戦、『オペレーション・バビロン2.0』を極秘裏に計画している。だが、実行できずにいる。アメリカの許可が得られず、失敗した際のリスクが大きすぎるから』


それは、イスラエル政府と軍の最高機密。それを、なぜこの少女が。


『もし……私が、イランの核開発を、一滴の血も流さずに、完全に停止させることができると申し出たら?』

「……何が目的だ。お前を信じろと?」

『ええ、信じなさい。そして見返りも求めますわ。私が提示する、新たな中東の秩序を受け入れていただきたいのです』


アドレットは、一枚の機密文書のデータをモニターに映し出した。それは、数年前にイスラエル軍がシリアで行った、非人道的な兵器の使用に関する極秘報告書だった。もしこれが公になれば、イスラエルは国際社会から激しい非難を浴び、孤立は免れない。


「……脅迫か」

コーヘンの声には、怒りと屈辱が滲んでいた。

『いいえ、交渉ですわ。長官。貴方には選ぶ権利がある。旧態依然とした憎しみの連鎖の中で緩やかに滅びるか。それとも、私という新たなルールを受け入れ、真の繁栄を手に入れるか』


少女は立ち上がり、まるで目の前にいるかのように、コーヘンに手を差し伸べる幻影を見せた。真の繁栄だと? 正気か、この女は。

『一週間後、トルコのイスタンブールで、貴方にお会いしたい。私の計画の全貌をお聞かせします。イランの代表も、そこに呼びますので』


その言葉を最後に、映像はぷつりと途絶えた。

執務室には、再び静寂が戻った。だが、それは先ほどまでの静寂とは全く異質のものだった。コーヘンは、自らの額に浮かんだ汗に気づいた。

モサド最強の男が、たった一人の少女に、完全に手玉に取られてしまったのだ。


「信じられん……化け物め」


その呟きは、恐怖か、あるいは畏怖か。

コーヘンは、この会談に応じる以外に道がないことを悟っていた。



同時刻、イラン・イスラム共和国、テヘラン。

イランの最高指導者に次ぐ権力を持つとされる、イスラム革命防衛隊の司令官、ホセイン・サラミ将軍は、自らの執務室で重い沈黙の中にいた。

彼の前には、テュートネス騎士団のCEOを名乗る男、ザイード・アル=ハマディが座っていた。かつては同じ革命防衛隊に籍を置いた男だ。


「……それで、ザイード。お前は一体、我々に何を求めているのだ。我々の敵であるシオニストの手先となって、紅海を支配し、今度は何の用だ」

サラミ将軍の声は、砂漠の砂嵐のように乾いて荒々しかった。


ザイードは、落ち着き払った様子で答えた。

「将軍、今の私は誰の手先でもありません。私は、新たな時代の流れにお仕えしているだけです。そして、その『流れ』は、貴国にとっても有益なものとなるでしょう」


ザイードは、懐から一枚のマイクロSDカードを取り出し、テーブルの上に置いた。

「これは、我々の主からの『贈り物』です」

「主だと?」

「ええ。私などを遥かに凌駕する、偉大なる指導者です」


サラミは胡散臭げに眉をひそめながら、部下にカードの内容を調べさせた。

数分後、部下が血相を変えて戻ってきた。

「しょ、将軍……! こ、これは……!」


モニターに映し出されたのは、イランが国内の山岳地帯の地下深くに建設している、未公開のウラン濃縮施設の、詳細な設計図とリアルタイムの内部映像だった。アメリカの偵察衛星さえ欺いてきた、国家最高の機密。


「……どこでこれを」

サラミの声が震えていた。

「申し上げたはずです。我々の主は、全てをご存知なのです。そして、主はこうも仰せでした。『この情報がCIAや、親愛なるモサドの手に渡れば、どうなるかはお分かりですね?』と」


執務室の空気が凍りついた。これが外部に漏れれば、イスラエルによる空爆は避けられない。それは、全面戦争を意味する。


「主は、貴国と事を構えるつもりはありません。むしろ、手を携えたいと願っておられる」

「ぐっ……条件は何だ」

「一週間後、イスタンブールへお越しいただきたい。そこで、主が直接、貴国を真の勝利へと導く計画をお話しなさるでしょう。……イスラエルの代表も、同じテーブルに着きます」


イスラエルの代表と? 有り得ない、馬鹿げている。

だが、サラミに拒否権はなかった。喉元に、見えないナイフを突きつけられているのだ。


「……分かった。その主に伝えろ。会ってやろう、と」


ザイードは静かに一礼すると、部屋を後にした。

残されたサラミは、己の拳を強く握りしめた。何十年もイスラエルと戦ってきた誇りが、この屈辱的な会談を拒絶していた。しかし、国家の存亡が天秤にかけられている。


謎に包まれた「主」。一体、何者なのか。

サラミは、これから始まる嵐の予感に、身を強張らせていた。



一週間後。トルコ、イスタンブール。

ボスポラス海峡を見下ろす、壮麗な宮殿ホテル。その最上階にあるロイヤルスイートは、歴史的な会談の舞台となるべく、テュートネス騎士団によって完全に貸し切られていた。


スイートルームの中央には、円卓が一つ。

そのテーブルには、信じられないことに二人の男が険しい表情で向かい合っていた。

モサド長官、アヴィ・コーヘン。

革命防衛隊司令官、ホセイン・サラミ。


数十年間、互いの組織の人間を何人も殺し合ってきた、不倶戴天の敵同士。同じ部屋にいること自体が奇跡であり、異常事態だった。室内の空気は、憎悪と緊張で爆発寸前だった。


「……シオニストめ。何の面下げてここに来た」

サラミが、吐き捨てるように言った。

「それはこちらの台詞だ、テロリスト支援国家が。お前たちの主とやらは、まだ来ないのか」

コーヘンも、冷たく応酬する。


その時、スイートルームの扉が静かに開いた。

二人の視線が、一斉にそちらへ向かう。

そこに立っていたのは、彼らが想像していたどんな人物ともかけ離れた存在だった。


銀色の髪を風になびかせ、純白のドレスに身を包んだ、まるで人形のように美しい少女。

アドレット・フォン・シュライヒャーが、そこにいた。


「ようこそ、獅子と蠍。私の舞台へ」


アドレットは、悪戯っぽく微笑みながら部屋に入ってきた。彼女の後ろには、黒子のように控える雨宮雫の姿がある。


「……ガキが。こんな場所に、情婦を呼んだ覚えは無い」

サラミは、侮蔑を隠そうともせずに呟いた。我々を呼びつけた「主」が、こんな小娘だったとは。

「待て、サラミ。様子を見よう」

コーヘンは、相手の異常性を既に理解しているため、冷静に制した。


アドレットは、二人の間に設けられた席に優雅に腰を下ろした。

「さて、茶番は終わりにしましょう。お二人がなぜこの場にいるのか。それは、互いが互いを滅ぼす力を持っていながら、それを行使できずにいるからです。違いますか?」


彼女の「神声ヴォイス・オブ・フューラー」が、室内の空気を支配し始める。それは、聞く者の心を直接揺さぶり、思考を麻痺させる魔性の響き。


「貴方は、イランの核を脅威に感じている。貴方は、イスラエルの軍事力と米国の後ろ盾を恐れている。故に、互いに決定打を打てず、代理戦争という、大変不毛な消耗戦を繰り返している。その結果、何が生まれましたか? 憎しみの連鎖、貧困、そして、あなた方の土地を利用して肥え太る、欧米の軍産複合体だけです」


アドレットの言葉は、二人の痛い所を的確に突いていた。


「私が、その連鎖を断ち切って差し上げます」

彼女はそう言うと、雫に合図した。雫がタブレットを操作すると、テーブルの中央から、中東全域の立体的なホログラム地図が浮かび上がった。


「私が提案するのは、『新・生存圏ネオ・レーベンスラウム構想』」

「馬鹿な、生存圏だと……?」


コーヘンは、その言葉に眉をひそめた。それは、かつて自分たちの民族を絶滅させようとした独裁者が掲げた、禁断の言葉だったからだ。


「ええ。ですが、前世紀の野蛮なそれとは違います。これは、血ではなく、富によって築かれる新たな生存圏」


アドレットは、自信に満ちた声で語り始めた。

「国境や宗教といった、前時代的な壁を取り払い、この中東全域を一つの巨大な経済共同体特区とするのです」


彼女はホログラムを操作し、具体的な計画を示していく。

「石油、天然ガス、水資源。これらはもはや一国のものではありません。全て、私が開発したAI『メテオール』によって一元管理し、加盟国の需要に応じて最適に配分します。それによって得られる利益は、全ての加盟国民に均等に分配される」


「パレスチナには、我々の技術で世界最大の垂直農法プラントとIT産業特区を建設し、大量の食糧と雇用を創出します。イスラエルには、その卓越した技術力をもって、この共同体全体の安全保障と技術開発を担っていただきます。そして、サウジアラビアなどの産油国には、脱石油時代を見据えた新エネルギー開発のハブとなってもらう」


「馬鹿なことを!」

サラミが、思わず叫んだ。

「我々が、シオニストと手を組むなどあり得ん!」


「では、他に道があると?」

アドレットは、冷たい視線をサラミに向けた。

「このまま憎しみ合って、未来永劫戦い続けますか? その間に、あなた方の子供や孫たちは、貧困と暴力の中で死んでいく。その一方で、アメリカやロシアの武器商人は、あなた方の流す血でワイングラスを満たす。それが、貴方の望む未来ですかな?」


ぐっ、とサラミが言葉に詰まる。

アドレットは、今度はコーヘンに視線を移した。


「コーヘン長官。貴方たちも同じです。常に戦争の恐怖に怯え、若者たちを兵役にとられ、莫大な国防費を払い続ける。それが、神に約束された土地の、あるべき姿ですかな?」


二人の指導者は、返す言葉もなかった。少女の言葉は、彼らが心の奥底で感じていながら、目を背けてきた真実だったからだ。


「憎しみ合うことで、あなた方はこの1000年、一体何を得ましたか? 誇り? 大義? いいえ、何も得てはいない。得たのは貧困と死だけです」


アドレットは、ゆっくりと立ち上がった。

「ですが、私に服従すれば、全てが変わる。私は、あなた方全てに、かつて誰も成し遂げられなかった『平和』と『繁栄』を約束しましょう!」


彼女の声が、部屋中に響き渡る。それはもはや、ただの演説ではなかった。魂を鷲掴みにし、新たな世界への信仰を植え付ける、預言者の言葉だった。

長年の憎悪に凝り固まっていた二人の男の心に、ほんのわずかな亀裂が入る。夢物語だ。だがもし、もしも本当にこの少女の言う通りになれば……。


「……我々が、お前を信じる根拠は何だ」

コーヘンが、絞り出すように言った。


「根拠ですか? では、お見せしましょう」


アドレットは妖しく微笑むと、再び雫に合図した。

スイートルームの巨大な窓のブラインドが、一斉に上がる。窓の外、ボスポラス海峡の上空に、信じられない光景が広がっていた。


数十機の漆黒の戦闘ドローン『ファルケ』が、完璧な編隊を組み、静止している。ドローンには誰もが知るあの核のマーク。それはまるで、空に描かれた黒鉄の城壁のよう。


「あれは、私のほんの僅かな力の一端です。その気になれば、今この瞬間に、テヘランとテルアビブを同時に火の海にすることも可能。ですが、私はそれを望まない」


彼女は、恐怖と魅了で凍りついている二人を見下ろし、最後の言葉を告げた。


「さあ、お選びなさい。獅子と蠍よ。私という新たな時代の神を受け入れ、楽園の民となるか。あるいは、旧時代の愚かな神々のために、共に地獄の業火で焼かれ滅びるか」


それは、選択のようでいて、選択の余地のない、絶対的な最後通牒だった。

二人の指導者は、ただ黙って、眼前の神々しくも恐ろしい少女を見つめることしかできなかった。

中東の歴史が、そして世界の歴史が、この密室で、一人の美少女の手によって大きく捻じ曲げられようとしていた。


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