息を吹き込む(ガラテイア)
むかし、神様がまだ地上の人間に目をかけてくださっていた頃の話でございます。
キプロス島には偏屈な王さまがおりました。
名前をピュグマリオンといいました。
誰にでも厳しく口うるさい王さまでしたので、妻と子は愛想をつかして出て行ってしまいました。
それからというもの、彼は大きなお城にひとりで暮らしていました。
家来たちも王さまには寄り付きませんでしたが、しかしながら彼は聡明な王さまでありました。
厳格な彼のもとで国は繁栄し、誰もが幸福を享受していました。
「王さまの決めたことを、その通りにしていればいい」
誰もがそう考えていました。
畏怖と尊敬と、面倒くささを伴った王さまの治める、そんな国のお話でございます。
いつのころからでしょう。
今となっては誰も入ることの許されなくなった王さまの寝室からは、毎晩のように話し声が聞こえてきます。
その日起きた楽しい出来事、悲しい出来事、その日の食事、とりとめもないことなどを王さまが独り言のように語っています。
けれど彼はひとりではありません。
喋りかけている相手はガラテイア。雪花石膏で作られた彫像でありました。
それは花のように可憐で、
それは鳥のように美しく、
それは生娘のように愛らしい彫像でありました。
誰よりも厳格で、誰にも弱みを見せることのできなかった王さまは寂しさのあまり、彼女を彫ったのでした。
以来、彼はこうして夜な夜なガラテイアに話しかけているのです。
裸体の彼女が恥ずかしがらないように洋服を着せ、
冬になれば彼女のために薪をくべ、
夏になれば扇で煽いでやる。
まるで本当の恋人がそうするように彼女のために気を割いておりました。
王さまにとって、ガラテイアは救いでありました。
誰もが自分を畏怖して敬遠する世界で、彼女だけが彼の傍に居てくれます。
自分も、彼女にはなんでも語ることができました。
雪花石膏の妖精は自分に尽くしてくれる王さまに恋をしました。
恋人のように、父親のようにふるまう彼を、心底愛していました。
けれど彼女は彫像。王さまを愛する術を持ちません。
ガラテイアはなんとかして彼の愛に報いようと神々に語り掛けます。
神々は彫像が動くなんてことがあってはならないと、彼女の願いを取り下げます。
けれどガラテイアは諦めませんでした。
必死に嘆願して、王さまへの愛を訴えかけます。
可愛そうなガラテイアの願いが、ついにアプロディーテの耳に届きます。
女神はガラテイアをたいそう憐れに思い、彼女に力を貸すことにします。
けれど、女神の力をもってしても、彫像が動けるようにできるのは一日だけでした。
ガラテイアは奇跡に感謝して女神を讃えました。
朝、王さまが目を覚ますと、ガラテイアはいつもの場所には居ませんでした。
ガラテイアは彼の傍に腰かけて、微笑んでいたのです。
彼はたいそう喜んで、ガラテイアの両手を取ります。
泣いて喜ぶ王さまに、ガラテイアは告げました。
「アプロディーテさまが、私たちを取りなしてくださいました。
私は明日の朝まで、動いてあなたと一緒にいることができます」
恥じらう乙女の表情を見せるガラテイアに、王さまはよりいっそうの愛情を感じます。
王さまはすぐに国民たちに呼びかけて、その日を祝祭の日としました。
あの気難しい王さまが、満面の笑みでハメを外せと告知を出したのです。
収穫祭の日のように人々は働くことをやめて、昼間から酒を浴びるように飲みます。
島では至る所で楽器が鳴らされ、飲めや食えやの宴会が始まりました。
王さまはガラテイアを連れて、そんな人々の輪の中に入っていきます。
恐ろしい王さまの登場に人々は息を飲みましたが、王さまはお構いなしにガラテイアと祭りを楽しんでいます。
こんなに明るく嬉しそうな王さまの表情は誰も見たことがありませんでした。
すぐに人々も活気を取り戻して、やんややんやと騒ぎ始めます。
ガラテイアが彫像であることなんて、誰も気にかけません。
その日は夜が更けるまで、誰もがお祭りを楽しみました。
たらふく食べて飲んで、脚がふらふらになるまで踊りあかすと、王さまはガラテイアに連れられて寝室へと戻ってきました。
ふたりともお祭りの余韻に浸っています。
東の方が明るくなってきて、鳥の鳴く声が聞こえてきます。
ガラテイアがはっとした顔で空を眺めると、王さまの腕にしがみつきます。
「私はもうすぐ動かない石に戻ってしまうでしょう。
けれど、忘れないでください。私はずっと王さま、あなたのことを愛してると」
震える声でそう告げるガラテイアを抱き返して、王さまもまた言います。
「私はお前と笑い合う幸せを知ってしまった。もう元の生活には戻れない」
ガラテイアも涙ながらに言います。
「私も同じ気持ちです。動けない彫像に戻ったら、きっとあなたへの想いで死んでしまうことでしょう」
王さまはガラテイアの手を取って、城の一番高いところに上ります。
水平線からは今にも太陽が昇ってきそうです。
「アポロンはきっと待ってはくれぬ。アプロディーテの加護も、もうなくなってしまうことだろう」
ガラテイアが小さく悲鳴を上げます。
彼女の体が徐々に石へと戻ってしまっているのです。
王さまはガラテイアを抱きしめて言います。
「ずっと一緒だよ」
太陽に向かって、ふたりは身を投じました。
翌日、粉々になった石像と王さまの遺体を人々は見つけました。
一切合切王さまに任せきりだった国は、彼がいなくなってしまっては成り立ちません。
その後のキプロス島は衰退の一途を辿ってしまったと言われています。