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喫茶タイムマシンの心残りご飯 ~ナポリタン~

作者: 内間飛来

 夕暮れ時、弘志(ひろし)は腹の虫の音に昼食を食べ損ねたことを思い出すと、何か食べてから帰ろうと考えた。何を食べようかと思案していると、ちょうど目の前に喫茶店があるではないか。しかも、十七時までランチを出しているときている。この辺はいつも通る道なのに、どうして今までこの店に気づかなかったのだろうか。

(今からそんなにガッツリと食べてしまったら、夕飯が食べられなくなって、母さんに怒られてしまうかなあ。しかし、食べるからには腹いっぱいになりたいんだよなあ)

 ほんの少しだけそのようなことを考えながら、弘志は喫茶店の看板に目をやった。

「喫茶、タイムマシンか……。純喫茶みたいなのに、随分とハイカラな名前だな」

 店の中はどうなっているんだろう、ということが気になって、弘志はドアノブに手をかけた。

 カラン、という鈴の音とともに広がった光景は、渋い茶色の板壁に深紅のビロード生地の椅子。カウンターにはサイフォンが並んでおり、空間には常連らしい客が吸うたばこの煙がたゆたっている。──なるほど、昭和の古き良き喫茶店の趣である。だから、店の名前がタイムマシンなのか。

「まだ、ランチを頼んでも大丈夫ですか?」

 ラストオーダーの時間が決まっているかもしれないから、と思い、弘志は店主に尋ねた。すると店主は時計をちらりと見ると「はい、十七時までですので」と答えた。釣られて弘志も時計に目をやった。そこには、店の雰囲気にそぐわない壁掛け時計がかかっていた。

(店主さんの趣味なのかしらん?)

 カチコチと音を立てながら時を刻む、月とロケットがあしらわれた時計から目を離すと、弘志は空いている席に腰を掛けた。


 何を食べようか、とメニューに目を通した弘志は、わずかながら顔をしかめた。

「ナポリタン……」

 ぽつりとそう呟くと、店主が声をかけてきた。

「うちのご飯ものの中でも特に人気のメニューですよ。鉄板皿で提供しているのが自慢でして」

「はあ、そうですか……」

 だからこそ、弘志は顔をしかめていたのだ。なにせ、喫茶店のナポリタンにはいい思い出がない。それも、鉄板皿提供のものは得に。

 しかし、おススメされておいて断るのも申し訳なく思い、弘志は結局ナポリタンのランチセットを頼んだ。サラダ、スープ、ドリンクつきで千二百円である。


()()()以来、喫茶店では食べないようにしていたんだよなあ……)

 心の中でひっそりとため息をつきながら、弘志は運ばれてくるナポリタンを目で追った。とうとうすぐ側までやってきて、ことり、と目前に置かれた途端、ケチャップの焦げた香ばしい香りが鼻をくすぐる。胃を刺激する〈絶対に美味しい香り〉に、弘志は思わず唾をのんだ。

「お熱いので、お気をつけて」

 店主にぺこりと会釈をして、いそいそとフォークを手に取る。

(いい思い出がないくせに、食欲は正直なもんだな)

 フッ、と自嘲気味に笑いながら、弘志はフォークをナポリタンに差し入れた。

 クルクルとフォークでパスタを絡めとり、口元まで持っていく。口に入れるまでもなく、熱気で「とても熱い」というのが伝わってくる。フウフウと息を吹きかけて冷ます間にも、香ばしい香りが「早く食べて」と訴えかけてくる。もう少し冷ましたいところだったが、耐えきれずにパクリと口に含んだ。

 フゥ……と鼻から息を吐けば、コクのあるトマトの香りが駆け抜けていく。美味しい。とても、美味しい。これは鉄板提供だからこその、香ばしさとコク深さだ。

 具材のピーマンはパリパリで、特有の青い香りがトマトのコクのアクセントになっている。マッシュルームは薄切りではあるものの、芳醇な香りと味がギュッと凝縮されているようだ。ウインナーも皮の張りが良くパリッとしていて、噛めば噛むほどジューシーだ。

 スープのコンソメも絶品だった。玉ねぎがベースの、野菜の旨味が詰まった逸品で、お代わりができるのであればしたいくらいに美味しい。

 ()()()のことなんかすっかりと忘れて、弘志はナポリタンに夢中になった。

(ああ、美味い。鉄板ナポリタンはパスタの中で一番に美味い。食べ終わるまでホカホカなのもいい。あとひと口で食べ終わるだなんて、実に寂しい)

 完食間近の鉄板を見下ろして、弘志は小さく息をついた。すると、耳の奥に響くように、何かがカチコチと音を立てていることに気が付いた。

 なんだこれは。この音は何だ。不審に思い、辺りを見回すと、ちょうど時計が十七時を指し示すところだった。

(時計からか? でも、俺以外の誰も、うるさそうにはしていないな。一体何なんだ?)

 十七時になった途端、月を追いかけるようにロケットが飛び立ちグルグルと回転した。同時に、弘志の視界もグルグルと回った。正時を告げるボーンボーンという音が、遠くかなたから聞こえるようだった。


 ハッ、と気を取り戻すと、完食寸前だったはずの鉄板ナポリタンがほぼ手つかずの状態で目の前に置かれていた。さすがにおかしい、と感じた弘志は慌てて辺りを見回すと、先ほどまで居たはずの喫茶店とは違う店にいるということに気がついた。

(いや、そんなはずは……。まさか……)

 空いた隣の席に置いてあるカバンは、ビジネスバッグではなくカジュアルなカバンで。エチケット用にと持ち歩いている姿見を取り出して見てみると、そこには若かりしころの自分が映り込んでいた。

 もう一度、店内に一通り目をやる。──間違いない。どういうわけかは分からないが、()()()のあのときに戻ってきたのだ。

 ()()()、弘志は当時の恋人である侑子(ゆきこ)と喫茶店で待ち合わせをしていた。まだ携帯電話どころかポケベルもない時代だったから「どこどこで待ち合わせ」などと事前に待ち合わせ場所を決めておかなければ、会いたい人にも会えないというのがこの時代の常だった。この日ももちろん、弘志は侑子と「この喫茶店の中で」と待ち合わせをしていた。しかし、何度店の中をくまなく探しても、侑子とは会えずじまいだった。しかたがないので、弘志はご飯を食べて帰り、また別の日に侑子と会おうと考えた。だが、まさか、この日を境に侑子と連絡がつかなくなるとは、このときの弘志は全く思ってはいなかった。

()()()は、侑子さんに駆け落ちの提案をしようと思っていたんだった。それなのに、また別の日に仕切り直しでなんて甘いことを考えて、飯なんか食って。……待てよ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 弘志は乱暴に荷物を引っ掴むと、もう一度店の中をくまなく見て回った。そして、二階の日当たりの良い席に侑子が座っているのを発見した。夕焼けに赤く照らされながら、侑子はのんびりとスケッチブックに街並みを書いていた。

 急いで弘志が侑子の側へと駆けつけると、侑子は顔をあげて驚いたように目を丸くした。

「あら、弘志さん。私、随分待ったのよ」

「俺……、俺も……。ずっと探していたんだ。けれど、どうしても見つけられなくて……!」

 弘志は泣きそうになるのをグッと堪えた。侑子は柔和に笑うと、紙ナプキンを手に取った。

「もしかして、今日はもう会うのを諦めて、ご飯を食べて帰ろうと思っていたでしょう? 口の端にケチャップがついているわ」


 今日はもうあまり時間がないから、と、二人はライトアップされた街並みを見て歩くことでデートの代わりにしようということにした。もうすぐクリスマスの時期で、あちこちがきらびやかに飾り立てられていた。

 弘志はカバンの中に忍ばせてあるリングケースにカバンの上から触れながら、「いつ言いだそう」と頭の中で何度も繰り返していた。笑顔を向けてくる侑子に不自然な笑みを返しながら、心臓が早鐘のようにバクバクとし、耳の奥がドクドクとするのを弘志は感じていた。

 もう少しで別れの時間というころに、侑子がふと悲し気な表情を浮かべて言った。

「あのね、弘志さん。実は私、縁談の話をいただいているの」

 弘志は「言うなら今だ」と強く思った。しかし、ふと、心に浮かんでしまったのだ。──妻の美嘉や子どもたち、孫たちの顔が。

(果たして、ここで〈やり直し〉をして本当にいいのだろうか? それは、美嘉たちとの幸せな日々を否定することになるのではないか? 侑子さんにとっても、俺との駆け落ちが正解とは限らない……)

 弘志はカバンから手を離すと、息を大きく吸って、吐いた。そして精一杯笑うと、侑子に向かって言った。

「侑子さんが本当に幸せになれる選択を、どうかしてください。侑子さんが幸せであれば、俺も幸せですから」

 侑子は一瞬驚いたようにきょとんとすると、優しく微笑んだ。それと同時に、弘志は耳の奥でボーンボーンという音が響くのを感じた。ぐにゃりと視界が曲がり、グルグルする。ボーンという音が止んでカチコチという音に切り替わるのと同時に、弘志は「ああ、自分はもう()()のだな」と悟った。


 ふと気を取り戻すと、目の前には完食寸前の鉄板が置いてあった。慌てて時計に目をやると、時刻は十七時一分となったところだった。

(疲れているのかな。夢でも見ていたんだろうか)

 ため息をついて、フォークに手を伸ばす。すると、カランと音が鳴って扉が開き、新しくお客が入って来た。

「弘志さん……?」

 呼ばれて、弘志が入って来たばかりのお客に目をやると、そこには懐かしい面影のあるご婦人が立っていた。

「侑子、さん……?」

 そう言い返すと、ご婦人はパアと笑顔を浮かべて弘志の座っている席までやって来た。

「ええ、そうよ。私、侑子よ。弘志さん、ものすごくお久しぶりね。よかったら、相席いいかしら? ……あら、もう食べ終わるのね。残念だわ」

「いやいや、相席どうぞ。まだ、食後のコーヒーが残っているから」

 慌てる弘志に、侑子は昔と変わらない柔和な笑みを浮かべて「それじゃあ」と返した。


 侑子は弘志の向かい側に座ると、コーヒーを一杯頼んだ。

「弘志さんは、早めのお夕食?」

「いいや、これはランチだよ。休日出勤をして早めに終わったのはいいんだが、うっかり昼食を食べ損ねていてね。……侑子さんは、この辺に住んでいるんですか?」

「ええ。もしかして、弘志さんも? だとしたら、今まで出会わなかったのがおかしいくらいよね。そんなこともあるものなのねえ」

 弘志は硬い笑顔を浮かべながら動悸がするのを感じた。──あれから、幸せになれましたか? なんて、簡単に聞けるわけがない。

 しかし、その答えはあっけなく、侑子のほうから提供された。

「中々出会わないと言えば、()()()の私たちもそうだったわね。……私ねえ、あのときの弘志さんの言葉のおかげで、今とても幸せなの」

 やってきたコーヒーに角砂糖をひとつ差し入れ、スプーンでくるくると混ぜながらそう言う侑子に、弘志は驚きと戸惑いで目を見開き固まった。んふ、と笑うと、侑子はカップに口をつけ、コーヒーをひと口飲むと、「弘志さん、覚えてる?」と話を続けた。

「私が、絵を描くのが大好きだってこと」

「あ、ああ。覚えているよ。君は、暇さえあればスケッチブックを広げて絵を描いていたね」

 侑子はそれにうなずくと、コーヒーに視線を落として少し申し訳なさそうに言った。

「私ね、()()()のあのとき、弘志さんは本当は『駆け落ちしよう』って言ってくれるつもりだったって、知っていたの」

「えぇ……!?」

「弘志さん、とても不器用だから。告白の準備をしているのがバレバレだったのよ。……でもね、弘志さんはあのとき結局、駆け落ちの話はせずに〈私の幸せ〉を願ってくれたじゃない? それで、私も腹が据わったのよ」

 侑子は、幸せを願ってくれた弘志に報いろうとした。だからこそ、自分からも駆け落ちの話はしなかった。それが自分の〈一番の幸せ〉ではないと感じたからだ。

「私は、大好きな絵を描き続けたかったから。何もかも振り切って海外に駆け込んだの。弘志さんのことは心残りだったけれど、でも、私の幸せを何よりも願ってくれたからきっと大丈夫だろうって信じてたわ。勝手に、ごめんなさいね」

「いや、いいんだ。君が幸せならそれで……。俺も、ちゃんと幸せだから安心して欲しい」

 ありがとう、と言って侑子は微笑んだ。

「ところで、嘉納侑弘(ゆきひろ)って画家、知っていらして?」

「そりゃあ、もう。デザインなんかもこなす超売れっ子じゃあないか。それが?」

 再び、んふ、と侑子は笑った。そして顔を近づけるようにと言わんばかりに〈おいでおいで〉をすると、侑子は小声で言った。

「それね、私なの」

 弘志は驚いて大声を出しそうになったのを、必死に飲み込んだ。目をぱちくりとさせる弘志に、侑子はうんうんとうなずいた。

「昔はね、女の名前じゃあ仕事がしづらい業界だったから。背中を押してくれた弘志さんから一字もらって、屋号にしたのよ。……だからね、私、今、本当に幸せなの。弘志さん、あのときは私の幸せを願ってくださって本当にありがとう」

 花開くように笑う侑子を前にして、弘志は「ああ……」と心の中で呟いた。

 彼女の幸せを一番に願っていると伝えることができて、本当に良かった。

 それで彼女が幸せになって、本当に良かった。

 今の自分の〈幸せ〉を否定するようなことをせずに済んでよかった。

 帰ったら、愛する妻と子どもたちが待っている。その事実をなかったことにしないで、本当に良かった……。

「君のますますの活躍を、心から願っているよ。お互い、これからも精一杯幸せな人生を送ろう」

 そう言って心からの笑みを浮かべると、弘志はお代を払って店をあとにした。そして、幸せが待っている家へと帰っていったのだった。

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