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運命の職業  作者: 飛鳥 京子
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2 守護神ルシファー

ナレーションが始まるタイミングで、マグカップが差し出された。風呂上がりの湯気をまとった隼が隣に座る。

(まさか、本当に風呂に入りに来るとは)

 幸葉は半ば呆れて隼の顔を見た。北欧フライトの土産だというカップにいれられたハーブティーは、すっきりしているがまろやかな、柔らかい味わいだった。

「『守護神(ガーディアン)ルシファー』って、何やら矛盾した名前でござるな」

「シッ、黙ってて。世界観がわかんなくなるから」

 二人して、日本のアニメをフランス語の字幕付きで見るのは、妙な気分だ。

 ナレーションによると、初めて地球外生命体とのコンタクトを果たした人類だが、その結果は惨憺たるものだった。相手は、星から星へと移動して遊牧する星間種族『渡り鳥』。彼らの牧畜は、地中、海中、大気中、あらゆるものから金属成分を抽出して糧にするメタルビーストだった。人体も例外ではなく、兵器は彼らのご馳走でしかなかった。人類は、特殊なプラスティックシェルターに隠れ、息をひそめているしかなかった。

 やがて、メタルビーストが地球を食い荒らすと、『渡り鳥』は、いずこへともなく去って行った。恐る恐るシェルターから出た人類が見たのは、蹂躙され、荒廃した世界だった。

 呆然と立ちすくむ人々の頭上から、一筋の光が雷のように堕ちてきて地を打った――


 画面が切り替わり、すぐに「第一話 我が名はルシファー」のテロップが出たところを見ると、最近のアニメに多い、初回はオープニングテーマが最後に流れる構成なのだろう。

 荒れ果てた大地に突き刺さった金色の物体を、多数のドローンが走査している。少し離れたシェルターの中では、ドローンが送ってくるデータを研究チームが解析している。

「あのドローンのデザインは秀逸でござるな」

「何か、オリジナリティがあるよね」

「何より、機能について合理的でござるよ」

 金色の物体の表面は滑らかで継ぎ目がない。吸盤のついたドローンが、区画ごとにスキャンしていく。エックス線や放射線を照射しているものもある。どうやら、地球上の物体ではないらしく、画面をモニターしている研究員たちが一様に首をひねっている。

 その時、研究室の扉が開いて、車椅子に乗った少年が入ってきた。

――あら、神井くん、来たの?」

――やあ、久志。どうしたんだ?」

――わたしが誘ったんです。せっかく外に出られるようになったんで、雰囲気だけでも感じられたらって」

 少年に付き添っていた女性が代わって答えた。女性は車椅子をモニターに近づけた。少年の顔が、ディスプレイの光に彩られる。黒い瞳は全く反応しない。装着しているヘッドセットは補聴器のようだ。

 突然、警報が鳴り、赤いライトが明滅した。

 皆、咄嗟にモニターに目をやるが、画面に変化はない。

――ビースト警報? まさか」

――まだ地球に残っているやつがいたのか」

 ビーストと思われる物体の位置情報が報告され、その付近を哨戒中のドローンから画像が送られてくる。メタリックカラーの筍状のものが三本、地表から突き出ていた。

――ビーストの卵が残っていたんだ」

――あいつら、ちゃんと回収してけっつうんだ」

 筍の中から、炎のようなビーストの幼生が揺らめき出、卵の殻を食い破ってゆく。それにつれて、金属製の装甲が幼体を覆っていった。

「こういう生態だったでござるか」

 軍の基地からスクランブル発進した戦闘機と爆撃機が、幼生に襲いかかる。強酸性の液体を詰めた爆弾が投下される。

――まず、卵を溶かせ。装甲を完装させるな」

 しかし、一体の幼生が既に装甲を纏い終わろうとしていた。爆撃機のパイロットが決死のダイブで爆弾を投下する。離脱より一瞬早く、炎の舌が機体を舐め、爆発させた。強酸性の液体が降り注ぎ、幼生の装甲に穴を開ける。幼生は爆撃機の殘骸に食らいつき、装甲を修復しようとした。

 研究所の職員は食い入るようにモニターに見入っている。彼らの背後で自動扉が開き、神井少年の車椅子が滑り出てゆくのに、誰も気づかなかった。少年を乗せた車椅子は、シェルターを出ると、糸で引かれるように、大地に突き刺さった金色の物体に向かって疾走した。

――あ、神井くん」

――久志!」

 モニターの画面に少年を見出した父親が、白衣を翻して飛び出そうとする。その腕を、やはり白衣を着た女性職員が掴んで引き止めた。

――いけません、ドクター。負傷者の搬送に備えないと」

 ドクター神井の顔が苦渋に歪んだところで画面が切り替わり、カメラは再び神井少年を捉えた。車椅子は、金色の物体の周囲にできたカルデラの縁に辿り着くと、ためらいもなく斜面を滑り降りていった。

 と、それまで何のとっかかりもないように見えた金色の物体に開口部ができ、少年の体がその中にに吸い込まれた。神井少年は闇の中を落下してゆき、何かにバウンドして、椅子に座るような体勢になった。

――手を伸ばせ。

 何かが語りかけてくる。補聴器は吹っ飛んでいたが、声は直接脳に響いてくる。少年が両手を伸ばすと、リング状のものが、左右の手のひらに触れた。

――それを掴んで引け。

 少年がそうすると、眼前に光が走り、巨大な両眼が開いたような窓ができた。義足の左足が自然に動いて、足元のなにかを踏む。物体はゆっくりと地面から抜け出し、上昇を始めた。

 いつの間にか光の点った瞳で、少年は窓の外を見た。

――これが……世界?」

 物体は翼を広げ、飛翔する。風切音が少年の耳に届く。

−−聞こえる……これが、世界の音?」

 少年は突然自由になった体を動かし、物体を操っていく。物体は荒地の上空を疾駆し、三体のビーストが生まれた場所に到着した。片翼を失った戦闘機が眼前を落下してゆく。

 少年が両手に握ったリングを一つに合わせると、飛行物体は空中でブレーキをかけたように停止し、巨大ロボットとしかいえない姿に変形した。右手で戦闘機を掬い取り、両足で大地に降り立つ。

 三体のビーストは最初威嚇のポーズを取っていたが、少しずつ項垂れて、ついには地に伏した。

 ロボットは、彼らに、少年に、周囲の世界に、ゆっくりと思念を放った。

――我が名はルシファー。



「ええー、これ一話ずつしか配信しないの?」

「それぐらいでいいでござるよ。幸葉殿は夜更かしすると、すく体調が悪くなるし」

 隼は両手にカップを持って、キッチンに向かった。幸葉は昔から早起きが苦手だ。

 手早くカップを洗い、帰り仕度をする隼に、

「あったかくして帰ってね。銭湯みたいに芯まで温もってるわけじゃないから」

と声をかけると、隼はにっこり笑った。

「あれは不思議だったでござるな。真冬でも帰り道は寒さがまるで気にならなかったでござるよ」

「ここは極寒だけどね」

 ヨーロッパは、日本より高緯度にある。幸葉がそれを実感したのは、パリへ来てからだ。六月頃は白夜かと思うほど日が長く、逆に、冬は午前九時頃まで日が昇らなかった。

(西岸海洋性気候で冬は温暖って習ったのに、北極じゃん)

「幸葉殿、それは、緯度の割にはってことでござるよ」

「もう知ってる」

 隼はまた目を細めると、

「幸葉殿も風邪をひかれぬよう」

と言って帰っていった。


          *


 鏡の前で、カミーユはイーッと口角を引いた。隙間のあいた前歯が並ぶ。

 フランスでは、すきっ歯は幸せになるといわれている。歯と歯の間から幸せが入ってくるのだそうだ。

 憧れのジェーン・バーキンもすきっ歯だった。素晴らしい歌手であり、俳優であり、何より偉大な人道支援家だった。

(わたしもあんな女性になりたい)

 ずっと思ってきた。今の仕事を選んだのも、ジェーン・バーキンの影響があったかもしれない。

――カミーユは明るくてやさしいし、いつも一生懸命だから、きっといいソーシャルワーカーになるよ。

 すきっ歯は幸せになると教えてくれた祖母は言った。自分でも、

(これって、天職かも)

と、思う瞬間が何度かあった。

 だが、今は打ちひしがれた気分だ。

 今朝、ドミニクが突然事務所にやってきた。

――ねえ、芸術家支援プログラムってのがあるって聞いたんだけど、ボクもそれ、受けられないかな。

 そういう名前のプログラムがあるとは聞いていない。よく話を聞いて見ると、十年以上生活保護を受けながら、画家を目指しているケースがいるということだった。

 人生の正解をケースに押しつけてはいけない、とカミーユ達ソーシャルワーカーは教わってきた。ケースが画家になりたいなら、あくまでそれを尊重する。無理に就労を勧めない。支援を受けることは後ろめたいことではないと諭す。ドミニクが歌手志望であることは、カミーユも知っていた。その夢を応援したいとも思っていた。

 話す声を聞いただけで、歌も上手いだろうなと想像できる人間がいる。ドミニクはそんな声の持ち主だ。一つ一つの造作が大きい、くっきりとした顔立ちにも、人目を引く華がある。ドミニクが追っているのが馬鹿げた夢だとは思わなかった。

――今のお仕事やめるつもりなの?

――やめられるもんならやめたいよ。あんな、エセブルジョワのおっさん、おばはんの相手、やってらんない。

 ネオブルジョワをうたってはいても、一六区の住民はやはり富裕層だ。価値観も保守的なのだろう。

――わたし、ドミのために考えていたプランがあるの。

 カミーユは手帳の間からメモを取り出した。

――一度、正社員で働いてみたらどうかしら。収入が安定すれば、ボイストレーニングにも、もっとお金をつぎ込めるでしょう。業界にコネを持ってるような先生に習えるかもしれないじゃない。

 ドミニクの手に、メモを滑り込ませる。

――そこにリストアップしたのは、どれもLGBTQが働きやすい企業よ。

 ドミニクは長い指でメモをつまむと、はらりと床に落とした。大きな金色の瞳が、猫のようにきらめく。

――カミーユって、人の話聞いてるようで全然聞いてないんだね。がっかりだな。

(は?)

 その言葉に殴られたような衝撃を覚えた。この仕事は聞くのが九割。ケースが本当に必要としている支援は何か、じっくり耳を傾けて聴き取ること。それを心がけてやってきた。そんな自分が、人の話を聞いていない? がっかり?

 ドミニクは小さく息をつくと、部屋を出ていった。カミーユはしばらく、呆然と立ち尽くしていた。

 ドミニクの言葉が、ぐるぐると頭の中を巡り続ける。他の仕事をしていても、気づくと思考があの会話に戻っている。ドミの面影に何度も反論している。離れられないのは傷ついたからだ。そう思うと本当に泣きたくなった。

 トイレから戻ると、アンヌ=マリーが電話口で怒鳴っていた。

「ハァ? 何、それ。わかった。今から行くわ」

「どうしたの?」

 アンヌ=マリーは壁に立てかけたキックボードを抱えながら、答えた。

「マダム・クロードよ。家賃が払えなくて、アパルトマンを追い出されそうだって」

 カミーユは総合的に支援をコーディネートするSSPだが、アンヌ=マリーは家計面を支援する家庭経済ソーシャルワーカーだ。マダム・クロードのお金のやりくりについて相談にのり、「住宅に関するソーシャルサポート」という専門サービスを依頼した。

「でも、別れた旦那がお金をせびりにくるらしいの。とにかく、行って大家にかけあってくるわ」

 そう言って飛び出してゆくアンヌ=マリーの仕事ぶりに、カミーユはいつも頭が下がる思いだ。

(でも、アンヌ=マリーは、わたしみたいに、裏切られたような気持ちになることはないのかしら。好意を踏みにじられて、悲しくなることは)

 アンヌ=マリーが戻ってきたのは、カミーユがルイ青年と話している最中だった。

「……ここへ来る前、ぼくは本気で自殺を考えていました。何もかも八方ふさがりで、自分みたいな役立たずは、いなくなった方がいいんだって。でも、こんなぼくでも助けて貰えるシステムがあって、支援を受けるのは恥ずかしいことじゃないって言って貰えて、本当に感謝してます」

 ルイは人一倍素直な青年だ。それだけに理不尽な目に遭うことも多かったのだろう。彼の感謝の言葉が、心を潤してゆく。こんな風に思ってくれる人もいるのだ。

(ドミも、もう少しこだわりを捨ててくれたら、生きやすくなるかもしれないのに)

 そう思うことでようやく、カミーユは胸がなだめられる思いがした。


          *


「我が名はルシファー、使命はガーディアン、それともー君に呼ばれしー者ー」

「また、ユキアが一人オペラやってるわ」

 ベアトリーチェの声に、幸葉はハッと我に返った。イタリア人のベアトリーチェも、hを発音しないので、幸葉のことをユキアと呼ぶ。

「あたし、歌ってた?」

「廊下にも響きわたってたわよ」

「それは大げさだ」

 ベアトリーチェは、エコバッグをおろすと、中身を給湯室の冷蔵庫に入れていった。

「随分買ったね」

「新しくできたスーパー、夕方になると生鮮食料品が一割引になるの、知ってた?」

「六時過ぎると、二割だよ」

「え? 本当?」

「そのかわり、自分が欲しいものが売り切れてるリスクはあるけど」

「そっか。上手くいかないわね」

 食材を入れ終わると、ベアトリーチェは波打つ金髪をかき上げながら立ち上がった。

「ねえ、あのスーパーって日系でしょ? 日本のスーパーってみんなああなの?」

「『ああ』とは?」

「すっごい効率的。どこに何があるかわかりやすいし、レジでもほとんど待たされないし」

「ああ、うん、そうかもね」

「だからかしら。現地スタッフのおばさんがすっごくドンくさく見えたわ。割引シール一つ貼るのにグズグズ手間取って」

 こういう話を聞くと、幸葉は自分のことを言われているようで、身につまされてしまう。なぜ世の中は、かくもスピードを要求するのだろう。

 ベアトリーチェは髪を一つにまとめると、さばさばと給湯室を出ていった。おそらくもう、お腹に何も残っていない。そこが彼女の憎めないところだ。

「瞳を開けー、風の声を聴けー、自由に天翔ろー」

 一人になると、幸葉はまた口ずさんでいた。


         *


 ミレーイはボロ雑巾になったような気分で帰宅した。生理痛で骨盤が割れるように痛い。休めるものなら休みたかったが、パートは文字通りタイム・イズ・マネーだ。こんな日に限って品出しを手伝わされ、商品をバックヤードから運んでは棚に並べた。契約ではレジ業務だけのはずなのになぜ、と最初は驚いたが、アジア系のスタッフがあたりまえのように従うので文句を言いにくい。

 それにしても、日用品や食料品は、なぜこんなに重くてかさばるものが多いのだろう。飲料コーナーの品出しには毎回うんざりする。

 しかも、夕方の割引サービスで、女性客に、さっさとシールを貼れと権高に言われた。ミレーイは慌ててしまい、シールを上手く切れなかったり、商品を落としそうになった。

(きれいな人だったけど、つんけんしてヤな感じ。いいスーツを着てたから、きっとお給料もいいんだろうけど、本当に生活に必要なエッセンシャルワーカーは、わたし達の方なんだから)

 コロナの流行期に聞きかじった言葉を、記憶の中の女に投げつける。

「ただいま」

 ジャン=ピエールに声をかけ、またげんなりした。今朝より一層散らかった部屋。スナック菓子の袋や、ケータリングのピザの箱が増えている。

「また、先にこんなの食べちゃったの? 今日はおいしいお肉があるのに」

 ジャン=ピエールは返事もせずにゲームに熱中している。母のように、家の中をいつも清潔できちんと整頓された空間にしておきたいのに、現実は仕事に追われてこのありさまだ。

「ちゃんと栄養取らないと、インスピレーションも降りてこないよ。今度の画展も、結局間に合わなかったんでしょう? 妥協しない姿勢も大事だと思うけど、出品しなきゃ入賞もできないんだから……」

 言い終わらないうちに、目の前で火花が散った。


          *


「ジュアンさん、どうしたんですか? その顔」

 ミレーイと顔を合わせるなり、カミーユは叫んだ。

「何でもありません。転んだんです。わたし、ドンくさいから、顔から床に倒れちゃって」

 それは違う、とカミーユにはすぐわかった。床に倒れたのならこんなアザにはならない。これは殴られた跡だ。

「とにかく、ちゃんと手当して貰いましょう。DV事案の時にいつも診てくれる救急センターに連絡しますから、そこで診断書も書いて貰って」

「そんな、DVだなんて」

 ミレーイはパッと身を引いた。

「ジャン=ピエールはそんなんじゃありません。悪いのはあたしなんです。画展の締め切りに間に合わなくて、一番悔しい思いをしているのは彼なのに、無神経なこと言って。仕事で嫌なことがあったんで、きっと口調にも刺があったんです。彼は、善いもの美しいものだけを見ていたい人なので、そういう言葉を聞くのが耐えられなかったんです」

「でも……」

というカミーユにおっかぶせるように、ミレーイはまくしたてた。

「今日、ここに来たのは、そんなんじゃないんです。アザが消えるまでスーパーの仕事を休むように言われたんで、何か、休業補償のようなものを貰えないかと」

「スーパーの人ににそんなこと言われたの?」

「はい。そんな顔でお客様の前に出られたら困るって」

「まあ、あきれた」

 ミレーイの勤めるスーパーは、良質な物が豊富に取り揃えられている上に、スピーディかつ親切な対応が好評を博している。一方で、地元のスタッフとはトラブルが絶えなかった。賃金が安い、契約外の仕事をやらされる、残業が多く休みが取りにくい等々。開店当初に比べると改善されてはいるものの、仕事に対する考え方が、根本的にフランスとは違うようだ。

「ちょっと電話番号教えて。抗議するわ」

「いえ、そんなのはいいんです。あの、すみません。面接日でもないのに。やっぱり帰りま……」

 ミレーイの声が震えたかと思うと、彼女はワッと泣き出した。



 突然溢れ出た涙に、ミレーイ自身も驚いていた。どうしたんだろう。泣くつもりなんかなかったのに。同時に、自分がどれほど疲れていたかにも気づいた。ぎりぎりのやりくりでやっと生活していける賃金のために、クタクタになって働く毎日。帰ってくる家は、理想とは程遠い、物が乱雑に散らかった手入れの行き届かない住まい。

 小さなタオルハンカチを目に押し当てながら、子供の頃、泣き出すとすぐ母が差し出してくれたタオルを思い出した。お日様の匂いがする清潔でふかふかしたタオル。顔を埋めると、それだけで心が癒された。母なら、アイロンをかけなくてもいいという理由で、タオルハンカチを買ったりはしないだろう。

「前から思っていたんですけど、外で働くのがそんなに偉いんですか?」

 ミレーイはしゃくりあげた。

「そりゃあ、そういうのが向いてる人はバリバリやったらいいと思いますよ。でも、そういう人達だって、やっぱり居心地のいい家に帰って来たいでしょう? 自分の家がきちんと整ってるからこそ、仕事も頑張れるんじゃないんですか?」

 そうだ。シールを貼るのが遅いと文句を言ってきたあの女も、身なりには金をかけているようだったが、家の中は荒れ放題に違いない。だから、心がすさんで、人に八つ当たりをするのだ。

「ええ、ええ、ジュアンさん」

 カミーユの手がそっと肩にかかる。

「わたしの家は、母がいつもきれいに心地よくしてくれてました。友達とケンカしても、家に帰ると気持ちが落ち着いて、台所からいい匂いがしてくると、それだけで気分が良くなって、だから、わたしもそんな風にしたいのに、片付けすらままならなくて」

「それは、ジュアンさんは生活を支えるために働いていらっしゃるのに、その上、家事も完璧になんて、難しいに決まってますよ」

 泣きじゃくるミレーイの肩を、カミーユがポンポンと叩いた。

「一度、パートナーの男性も一緒に面接させて頂けませんか? 家事の分担とか、話し合ってみてはどうでしょう」

「家事の分担なんて、ジャン=ピエールは芸術家なんですよ」

 ミレーイは思わず叫んだ。

「芸術家が家事をしてはいけないという決まりはありませんよ」

 カミーユはやや口角を上げて、口調を和らげた。

「むしろ、それがいい気分転換になって、思いがけない発想が浮かぶこともあるとは思いませんか? 日々の生活には小さな気づきがたくさんあるでしょう?」

 確かにそうだ。肉や野菜に火が通っただけで、どれほど旨そうな匂いが鍋から立ち上るか。調味料など入れず、そのまま食べてしまいたいと思うほどだ。階段のホコリを丁寧に掃除機で吸い取り、その後さっと水拭きした時の爽快感。見た目はたいして変わっていないのに、階段が喜んでいるようだった。

「でも、だからって、ジャン=ピエールから創作の時間を奪うわけにはいきません。彼は妥協を嫌う人なんで、人一倍時間がかかるんです。締め切りが迫っていても、適当に仕上げるとかできないんです」

「ジュアンさん」

「もういいです。面談の日でもないのに、訪ねてきて、申しわけありませんでした」

 ミレーイはパッと身を翻した。



 建物を出てもなおしばらく、ミレーイは走り続けた。

 カミーユはいつも親身に相談にのってくれていたのに、なぜいきなりあんなことを言い出すのだろう。ジャン=ピエールに家事を分担させろだなんて。キッチンに立つジャン=ピエール、掃除機をかけるジャン=ピエール、ゴミ出しをするジャン=ピエール。ミレーイにはどれも想像できない。というより、想像したくない。

 ようやく、急ぐ必要などないことに気づいて、ミレーイは足を緩めた。

(そうだ。せっかく仕事がなくなったんだから、家を片付けよう)

 捨てるべきものは捨て、散らかったものを整理整頓して、一から手をかけた食事を作ろう。花を飾るのもいいかもしれない。

 そう思っただけで胸がはずんだ。再び早足になりかけた時、携帯が震えた。



 店の奥の小部屋に、ジャン=ピエールは哀れなほどしおたれて座っていた。

 初老の店主は、木の机の上に絵の具を三本置いた。

「時々買って下さるお客様なんで、こちらも全然疑わなかったんですよ。絵の具を手に外へ行こうとされるのを見ても、表の商品を見に行かれるのかなあと。それが、まさか、ねえ。まあ、警察沙汰にする前に、一応、ご家族に連絡しようと思いまして」

 ねちっこい口調で言われて、ミレーイは、謝るべきなのか、彼の寛大さに感謝すべきなのかわからず、「はぁ」とだけ呟いた。信じられない。ジャン=ピエールが絵の具を万引きするなんて。

 ひとしきり、くどくどしい店主の話を聞かされた後、絵の具の代金を支払った。思いがけない出費に、ミレーイは胸が潰れそうだった。

 子供を迎えに来た母親のように、ジャン=ピエールに寄り添って歩きながら、今日はとにかく、ジャン=ピエールの好きなものを作ろうと決めた。何が食べたいか訊こうとすると、

「おまえ、スーパーやめたのか?」

 ジャン=ピエールがぼそりと訊ねた。

「え?」

「今日、スーパーに行ったら、おまえ、いなかった」

 ジャン=ピエールがミレーイの職場に金をせびりにくるのは、よくあることだ。ミレーイが顔のアザのせいでシフトを外されたのを知らないジャン=ピエールは、足りなくなった絵の具を買う金を貰いにきたようだった。

 いつも通り仕事に出たはずのミレーイが休みだと聞いて、ジャン=ピエールはパニックになり、万引きをしたのだろうか。そう思うと、愛しさが込み上げてきて、ミレーイは彼の首すじに腕を回した。なんて可愛い、馬鹿な人。

「ごめんなさい。心配かけて。違うのよ。もう絵の具が買えないかもしれないなんて、そんな心配する必要はないのよ」



 カミーユは誰もいない事務所で頭を抱えていた。ドミニクに加えて、ミレーイにも裏切られた気分だった。頑なにカミーユのアドバイスを拒んだ細い肩。カミーユの手を振り切るように駆け出した後姿。

 ジャン=ピエールとかいう彼女のパートナーは、明らかにロクでなしだ。もちろん、そんな言い方をして素直に聞いて貰えるはずがない。だから、彼をけなすようなことは言わなかったし、DVという言葉も使わなかった。それでもミレーイは敏感にそのニュアンスを感じ取って、拒絶した。

 ドミニクのように棘のある言葉を放ってはこなかったが、それだけに心の内を見透かされたような、あなたなんて、本当はちっとも人に寄り添っていないと突き放されたような衝撃が胸の奥に残った。

 キックボードを抱えて戻ってきたアンヌ=マリーが、

「どうかしたの?」

と訊いてきた。

 カミーユは胸のつかえを吐き出した。

「あたし、精一杯、ケースの人生を応援してきたつもりだったけど、本当はひとりよがりだったのかな? 全然、ケースに寄り添えてなんかいなかったのかな」

「そんなことないって。カミーユに担当されたケースは幸運だなって、あたし、いつも尊敬してるもん」

「そんな、あたしこそ、アンヌ=マリーみたいにならなきゃって、いつも」

 アンヌ=マリーは、人差し指でカミーユの額をツンとつついた。

「同じことしたって、受け手の感性によって親切にも、余計なお世話にもなるものよ。そこんとこは割り切るしかないんじゃない? そうだ。帰りに新しくできたカフェに行かない? すっごく評判いいみたいだよ」

 カミーユはその日初めて、心底からの笑みを浮かべた。












 




 








 













 


 























 








 


















  


























 


 





































  


























 


 
















































  


























 


 

































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