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運命の職業  作者: 飛鳥 京子
1/3

1 鴨の寒さ

二〇二三年  パリ



1 鴨の寒さ


幸葉(ゆきは)殿」

という呼び声に、竜導(りゅうどう)幸葉は足を止めた。すぐに振り返れなかったのは、日本語で名前を呼ばれたのがあまりに意外だったからだ。だが、同時に、声の主が誰かもわかっていた。

 この世で自分をそんな風に呼ぶ人間は一人しかいない。

(じゅん)くん」



(マンタのいる海の青だ)

 初めて竜導隼に会った時、幸葉はそう思った。

 一度だけ、沖縄の海でマンタを見たことがある。沖合で、トビウオのように跳躍するマンタを見て、

−−すごい。マンタが飛んだよ!

と叫ぶと、

−−そんなはずないでしょ。

と、家族に一蹴された。

 マンタの泳ぐ海は、深いが明るいブルーだった。隼の右目はその海の色をしていた。



 竜導隼は懐かしい笑顔で手を振っていた。

 ヨーロッパの湿度の少ない空気の中で、右だけが青いオッドアイが一層冴えて見える。幸葉が近づくと、隼はその目を軽く瞠って、

「パリジェンヌっぽくなられたでござるな」 

と言った。

「それはどう解釈すればいいの?」

「もちろん、褒め言葉でござるよ」

「いいかげん、あたしの前でだけ、その変なしゃべり方するのやめなよ」

 ネタはもう割れてるのに、と幸葉は思った。

 隼はウィーン生まれのウィーン育ちだ。幸葉とは親同士が従姉妹という関係で、帰国した彼に初めて会った時、

−−日本語は、『ヒカルケンシ』という漫画で覚えたでござる。

と、時代がかった言葉遣いで言った。

−−えーっ? うちに、コミックス全部あるよ。

『ヒカルケンシ』は、幕末の日本を舞台にした時代劇で、主人公のヒカルがそういうしゃべり方をするのだ。

 ところが、夕食の席で、妹の明日葉(あすは)が、

−−あんた、本当はちゃんとした日本語、しゃべれるんでしょう。

と、すっぱぬいた。

−−え? そうなの?

 幸葉が驚くと、明日葉は、

−−そんなの真に受けるの、お姉ちゃんだけだよ。

と、あきれたように笑った。実際、隼は、敬語謙譲語も正確に使って親戚中を感心させ、知らないのは最近の流行り言葉ぐらいだった。

 それでも隼は幸葉に対してだけは、その後も「ヒカルしゃべり」をやめなかった。『ヒカルケンシ』の新刊が発売されると、「幸葉殿、拙者にも読ませて下され」と、幸葉の家に駆け込んで来る。中学、高校と、そんな具合に結構幸葉の部屋に入りびたっていたような気がする。

「何でこんなとこにいるの? フライト?」

「パリ営業所に転勤になったでござるよ」

 隼はレインボー航空のパイロットだ。長らく国内線のみだったレインボー航空は数年前、ヨーロッパの空に進出すべく、パリに拠点をつくった。いよいよ、本格的に始動という矢先に、折り悪しくコロナ禍が起きてしまったのだ。

「それじゃ、大変だったんじゃない?」

「そうでござるよ。拙者は、離島同士や離島と本土を結ぶオンデマンドラインに出向になって、イギリスにいたでござるよ」

「それって、世界で初めて民間でVTOL(垂直離着陸機)を使ってるってとこ?」

 イギリスに拠点をおくオンデマンドライン、ブリティッシュコミューターは、日本の企業と共同開発した垂直離着陸機フェニックスを導入したことで有名だ。

「そうでござるよ。幸葉殿はよく知っておられるなあ」

 幸葉は苦笑した。隼は昔から、幸葉の言動にいちいち感心する癖がある。

 コロナ禍が一応の収束を見、ようやくヨーロッパ線が運航を始めたので、隼は本来の職場に戻った。

「久しぶりに737に乗ったら、妙な気分でござったよ」

 隼は頭をかいて笑った。

「どんな風に?」 

 幸葉が訊くと、

「機体感覚がまるで違うでござるよ。初めてフェニックスに乗った時は、コックピットが、こう、地べたについているように感じたでござるが、今度は二階にあるようでござる」

「なるほど」

 旅客機のコックピットは、たしかに、地面からかなり高いところにある。

「てことは、しばらくこっちにいるの?」

「多分、ニ、三年はいるでござるよ」

「こういうの、奇遇って言うんだろうね」

「そうでござるな」

 隼はなぜか、いたずらっぽい笑みを浮かべた。

「幸葉殿は、何でパリへ? 明日葉殿に、お姉ちゃんはフランスで弁護士やってるって聞いた時はたまげたでござる」

「別に。たまたま、雇ってくれたのがフランス人だったっていうだけで」

「でも、大変だったでござろう。こっちでも勉強したのでござろう?」

「したけど、外国人でも母国で資格持ってたら、丸々全部勉強しなくていいのよ」

「それでも……あ、幸葉殿、もし時間があるなら、カフェにでも行かないでござるか?」

 幸葉は腕時計に目を落とした。昔持っていたブランドものの時計は売り払い、今はソーラー充電のこの時計一つを愛用している。次のアポイントメントまで、四五分ほどあった。フランス人は、三〇分程度の遅れなら誤差のうちという感覚なので、もう少しゆっくりできるかもしれない。

 二人は最寄りのカフェに入った。

「ボンジュール」

とドアを開けた瞬間、店中の視線が隼に注がれるのを、幸葉は感じた。通り道の女性がいっせいに、「ボンジュール」と挨拶してくる。隼はどこまで気づいているのか、にこやかに挨拶を振りまいている。

(やっぱり、こいつは、ヒカルケンシじゃなくて、ヒカルゲンジだ)

 日本でもこうだった。どこへ行っても注目され、もてはやされ、そつなくそれを捌いていた。

「こっちへ来る前、明日葉に会ったの?」

 テーブル席に座って注文をすませると、幸葉は訊いた。

「お二人に挨拶するつもりで寄ったでござるよ。そうしたら」

 隼は幸葉の方へ身を乗り出した。

「お姉ちゃんも、今、フランスにいるよって言われて、びっくりしたでござる。明日葉殿も、もう警察は辞められたそうでござるな」

「うん。母親が要介護になった時に、介護と両立できる仕事じゃないからって、潔く」

 明日葉は高校を卒業するとすぐ警察官になった。仕事ぶりが認められて刑事になり、取調べの上手さには定評があったらしい。

「介護してる間は内勤になればとか言われたらしいけど、それも断わっちゃって」

 明日葉に言わせると、母親に何かあった時に自宅から遠い場所にいるのは嫌なのだそうだ。

 それで、家から徒歩五分の距離に営業所がある生命保険会社の外交員になった。そこなら仕事の合間に様子を見に帰ることも可能だからだ。

「大変でござったろう。最後まで看取るのは」

「明日葉がすごく献身的にやってくれたから、あたしは何もかもお任せだったよ」

「明日葉殿もそういう口ぶりでござった」

 幸葉は小さく笑った。隼を前に滔々と語っている情景がありありと目に浮かぶ。

「で、また、明日葉殿のご機嫌を損ねるようなことを言ってしまったでござるよ」

「またぁ? 今度は何言ったの」

 幸葉は目を剥いた。隼は昔から、折に触れて、明日葉の神経を逆撫でするようなことを言う。

「明日葉殿にかかると何でも武勇伝になるでござるな、と」

「あきれた」

 幸葉はため息をついた。

「そういうことは、思ってても言わなきゃいいのに」

「ハハハ」

 隼は乾いた笑い声をあげた。

「ところで、幸葉殿は一三区にお住まいなのでござるな」

 明日葉に住所を聞いたのであろう、隼は言った。

「うん。わりと日本人が多いって聞いたから。近所にお米売ってる店とかあって助かってるよ」

 それに、と今度は幸葉がテーブルに乗り出した。

「うちのアパルトマン、何と、お風呂が日本式なの」

 幸葉の言う日本式とは、風呂場とトイレが別の場所にあって、追い焚きができるという意味だ。

「本当でござるか?」

 隼が目を瞠った。

「うん。そこを建てた建築家が、日本に行ったことがあって、日本のお風呂に感動したんだって」

「それは羨ましいでござる。拙者も入りたいでござる」

「入りにきてもいいけど、銭湯みたいにはあったまらないから、帰る時寒いんじゃない?」

「それでもいいでござるよ」

 こんな会話ができるのは、親戚ならではの気安さだと、幸葉は思う。他の異性になら、間違ってもこんなことは言えない。

 カフェを出ると、風が強くなっていた。今年は一一月になっても比較的暖かかったパリだが、ここ数日来、寒さが増してきていた。

「うわっ、寒」

 ひときわ強い風が吹きつけてきて、コートの前を合わせた時、

――Il fait un froid de Canard.(鴨の寒さだね)

という言い回しが頭をよぎった。肌を刺すようなひどい寒さのことを、フランス人はそういうのだ。

 別れ際に、隼は彼女を振り返ると、、

「幸葉殿、ますます素敵になられましたな」

と、叫んだ。

「はァ?」

 何なんだ、今のは。もう、フランスに染まったのか? ジュテーム、モナムールってやつか?

 寒風の中で、幸葉はぽかんと口を開けていた。

          *


「うわっ、鴨の寒さだ」

 コートをかき合せながら、ミレーイは思わず声を上げた。風は薄いコートを透かして、容赦なく吹きつけてくる。早く家に帰りたいのに、信号が永遠に変わらないような気がした。

 少し前方に、一目でカシミアとわかるキャメルのロングコートを着た女性が、自分と同じく信号待ちをしている。コートの裾からのぞく紺のフレアスカート、カチッとした小振のバッグは、どう見ても仕事帰りの身なりではない。

(いいなあ)

 ミレーイは、膝が擦り切れかけたワークパンツ、よれよれのトレーナーといった自分の服装に目をやった。スーパーの品出しやバックヤード業務をしていると、自然とこんな格好になってしまう。夕ごはんがすむと、今度はネット通販会社の夜勤のバイトに行かなければならない。そこでのミレーイの担当は検品や梱包、ピッキングだった。

 あのキャメルのコートの女性のような有閑マダムになるのが夢なのに、まだこんな生活をしている。でも、ジャン=ピエールの絵が次の画展で入賞すれば……



 ミレーイとジャン=ピエールの住居は、インナーガレージにダイニングキッチンと寝室がくっついたような建造物だ。もともと人が住むことを想定した建物ではないことは、一目でわかった。それでも二人がとびついたのは、家賃が安いことと、何より、インナーガレージをジャン=ピエールのアトリエにできるからだ。

 しかし、アトリエに人の気配はなく、ダイニングキッチンに入ると、ムワッとする熱気に押し包まれた。ジャン=ピエールが、タンクトップにジーンズという格好で、暖房をガンガンきかせているのだ。ロシア・ウクライナ危機以来、光熱費がどれほど高騰しているか、わかっているのだろうか。政府は次々と省エネ政策を打ち出し、セントラルヒーティングのアパルトマンなど、最高温度が一九度に制限されたこともあるのに。

「もう少し厚着をして、暖房をゆるめたら?」

「肩が凝るんだよ」

 ジャン=ピエールは振り返りもせずに返した。

「絵の方はどう? 少しは進んでるの?」

「あんな寒いアトリエじゃ、手がかじかんで描けねえよ」

「夏は、暑すぎて描けないって言ってたわ」

「おかしいんだよ。最近の気候は。アトリエ専用のエアコンがありゃいいのになあ」

 無理言わないでよ、という言葉を、ミレーイはのみこんだ。

「でも、少しずつでも描いていかないと、締切に間に合わないよ」

「うるせぇな」

 ジャン=ピエールは肩をいからせて振り向いた。

「おまえ、芸術ってもんがまるでわかってねえんだな。おまえの仕事みたいな単純作業じゃねえんだ。クリエイティブな作業なんだよ。時間に比例してはかどるもんじゃないんだ」

 肩のあたりに、ジャン=ピエールが食べていたスナック菓子の袋がぶつかって、床に落ちた。散らばった中身を拾うと、埃と髪の毛がついている。ダブルワークをしていると、どうしても家事が行き届かなくなる。もう何日掃除機をかけていないのかと思うと、情けなくなってきた。経済力のある男性と結婚して専業主婦になり、家の中をいつも完璧に整える。それがミレーイの夢だった。自分の祖母や母がそうだったように。

 子供のようにテレビゲームをしているジャン=ピエールを横目に、そそくさと夕飯をかきこみ、ミレーイは次の仕事に向かう。テーブルに残ったジャン=ピエールの分が、ラップの内側に露を結び始めていた。



 緑がかった光に照らされた倉庫のレーンは、いつかジャン=ピエールとみたSF映画に出てくる宇宙船のようだ。ミレーイは空の台車を押してレーンに入って行った。渡された伝票に書かれた品物を、台車に載せて、梱包作業をする部屋まで運ぶのだ。

 こういうと簡単そうだが、商品が重い物だったり、棚の一番上にのっていたり、数が多かったりと、なかなかの重労働だ。全部が同じレーンの同じ棚にあるわけではないので、効率も考えなければならない。似たような商品や色違いがある場合も要注意だ。

 レーンの少し先にサミアがいて、テキパキと商品を積み上げている。忙しい時ほど頼りにされる、ピッキング部署のエースだ。

 ジャン=ピエールは、単純作業と馬鹿にするが、単純作業には単純作業の厳しさがある。時間に比例してはかどる仕事だけに、時間単価をシビアに要求されるのだ。誰それは一時間でこれだけこなすのに、誰それは……と比べられ、場合によってはシフトを減らされたり、クビを切られることさえある。

「ボンソワ」

 サミアがミレーイに気づいて挨拶した。

「ボンソワ」

 サミアはマリ人だ。先にフランスに住んでいる夫と一緒に暮らせるよう、家族の再統合を申請したと言っていた。お金をためて、今住んでいる低家賃住宅を出、自分達の家を持つのが夢だという。

――そうなったら、専業主婦になるの?

と、ミレーイは訊いたことがある。サミアは黒曜石のような目を一瞬見張って、すぐにクスクス笑った。

――まさか。無理でしょ?

――どうして?

――お金がいるもの。

 あまりにも明快な答に、黙りこんでしまったのを思い出す。

 お金がないのは悲しいことだ。サミアのように長い間家族と一緒に暮らせなかったり、今の自分のように、昼も夜も働き詰めに働いたり。

(でも、あたしたちは違う)

 ミレーイは自分に言い聞かせた。ジャン=ピエールの絵が名のある賞を取ったら、そして、高値で売れるようになったら……


         *


 パソコンを起動すると、カメラの横で赤と青のライトが点滅する。顔認証がすむと、

――ボンジュール、クロエ。

の文字が表示された。

 今の自分に、こんな風に名前を呼びかけてくれるのは、このパソコンぐらいかもしれない。

 メールの受信トレイを開き、メッセージをかたはしから削除した。もう何年も、ダイレクトメールのようなものしか来ない。時々混じっている求人情報だけは、憂鬱な思いで開ける。

(どれも……イヤ)

と、結局はすぐに削除するのだが。

――食わず嫌いしていないで、とにかく応募してみなきゃ始まらないですよ。嫌なら断ればいいんですから。

 ソーシャルワーカーのカミーユの声が頭の中に響く。

 違うのに。食わず嫌いなんかじゃないのに。

 クロエは頭を振った。

 バカロレアで好成績を取り、一流といわれる大学に進学した。就職も、比較的すんなりアメリカ系の大手IT企業に決まったが、そこからが悪夢だった。分秒単位のスケジュール。人あたりはいいが、どこか血の通った温かさが感じられない同僚達。終電車に間に合わず、タクシーで帰宅するのがあたりまえの仕事量。

 クロエは左手を裏返した。もう大分薄らいだが、リストカットの跡が白い条になって残っている。

 傷跡をカミーユに見せ、

――この頃の自分に戻りたくないの。

と訴えたこともある。カミーユは困ったように眉を寄せ、カウンセラーの予約を取ってくれた。クロエは一度だけ相談に行って、失望した。手垢のついた決まり文句と一般論ばかり。そんなもので救われるなら、誰も苦労しない。次に紹介された精神科医はもっとひどかった。甘えるな、大人になれ。傷ついている人間に、こんな言葉を吐ける人が心の専門家とは。その晩、眠れないと言って処方してもらった睡眠導入剤を全て飲もうとした。タブレットを一つずつ破っては口に放り込みながら、これで自分はこの世からいなくなるのかと思うと、やはり恐怖を感じた。ドラマのように、ちょうどいいタイミングで駆けつけてくれる人もいない。そんなことを考えているうちに、喉が詰まって飲み込めなくなった。結局、半分も飲まないうちに眠り込んでしまい、翌日目が覚めた時はさすがに夢うつつだった。二、三日は何もかもが現実に起きたことなのか夢の中のことなのか、区別がつかなかった。次の面談でその話をすると、カミーユももう精神科へ行けとは言わなくなった。

 カレンダーを見上げて、クロエはため息をついた。また福祉事務所にいかなければならない。ここ数日来、突然気温が下がって寒風吹きすさぶ中を。

(鴨の寒さだ)

 クロエは立てた両膝に額をつけた。


          *


 ワインのボトルを一本ずつ拭いては棚に戻しているところへ電話が鳴った。

「はい。『75016』です」

 郵便番号をそのまま店の名前にしているので、さすがに長い。かけてくる方も、

――郵便番号のお店ですか?

ときいたり、

――『セッサンク』?

と、勝手に省略する者もいる。

 75016はパリ一六区南部の郵便番号だ。北部は昔ながらの富裕層が住むクラシックな地区だが、南にはもう少し肩の力の抜けた、ネオブルジョワと呼ばれる人達が多い。ドミニクがアルバイトをしているこの店も、ネオブルジョワ御用達であることを、店名で示しているのだろう。

 だが、脱ブルジョワを唱えていても、そこそこ裕福な人々であることはドミニクにも感じとれる。今の電話も、

−−二時頃おうかがいするんで、いつものワイン二本冷やしておいて」

というものだった。ドミニクは受話器を置くと、メーカーから派遣されているソムリエのソニアに声をかけた。

「マダム・アルマンが、いつものワイン二本冷やしておいてほしいそうです。二時頃取りに来られます」

「あなたって、向上心が全然ない人ね」

 ソニアは露骨に顔をしかめた。

「前にいたアジア系の子は、すぐにお客様のお名前とお好みの銘柄を覚えて、自分でさっさと冷蔵庫に持っていったものよ」

 ワインのボトルをドミニクの眼前に突き出し、

「これが、マダム・アルマンの『いつもの』。冷蔵庫の下から二段目に入れてきて」

「何、それ。自分が楽したいだけじゃん」

 ドミニクはせせら笑った。

「そんなことまでボクにやらせてたら、あんた、一日中ただお店に突っ立ってるだけじゃないよ。そんなの、かえってしんどいでしょ」

 ソニアが掲げたボトルを、ドミニクは引ったくるように受け取って、店の奥の冷蔵庫に向かった。ソニアの聞えよがしなぼやきが追いかけてくる。

「だから、店長に言ったのよ。白人の子はやめとけって。能力のある人なら、こんなとこのバイトに応募してこないからって」

 それはさぞかし店長も気が悪かっただろう。冷蔵庫にボトルを入れると、ドミニクはそのまま裏口から外へ出た。寒風に震え上がる。

「鴨の寒さ、鴨の寒さ、鴨の寒さよ〜」

 でたらめな節をつけて口ずさんだ。我ながらいい声だと思う。

 ソニアは、ソムリエという資格に誇りを持っているのだろうが、こんな、ワイン以外の物も一緒に売っている小さな店でふんぞり返っているだけではないか。ボクは、もっと大きなステージで活躍してみせる。大舞台の真ん中でスポットライトを浴びて、ボクの歌を世界中の人に聴いて貰うんだ。

 自分のように、魂の性別と肉体の性別が違う人間は、普通の企業に勤めても生きづらいだけだろう。でも、音楽は自由だ。

 だから、早く誰か、ボクを見つけてよ。


        ***


 機外点検は未明の闇の中だった。午前七時を過ぎてもまだ日が昇らない。欧州の緯度の高さを感じる時間帯だ。

 コックピットに戻ると、副操縦士が計器の点検を終えたところだった。

「外、寒かったですか?」

「凍えた」

「鴨の寒さって言うらしいですね」

「へえ」

 隼はコートを脱いだ。

「凍った池で鴨を捕まえる時みたいな寒さとか、聞きました」

 ロワシー(シャルル=ド=ゴール空港の別名)は晴天だが、目的空港の視程は良くない。数値予報では、到着時間にはさらに悪くなりそうだ。おそらく雪が降り出すだろう。

 離陸した頃には太陽が昇っていた。が、気温は地上でも氷点下だ。

 目的空港の天候は予断を許さない。


          *


 メトロに揺られながら、幸葉は今朝方見た夢を反芻していた。

 夢の中の幸葉はまだ子供で、祖母の家にいた。祖母は由緒ある神社の宮司で、矍鑠として一族を仕切っていた。

 幸葉は柱も壁も朱赤の回廊にいた。あ、あそこだな、と現在の幸葉がどこかで思っている。

「開かずの間」と呼ばれている、あの部屋の扉が目に入った。もとより、幸葉に開けるつもりなどない。だが、大きな扉は音もなく動き出した。

(ダメ、開いちゃ)

 幸葉は心の中で叫んだ。開いてゆく扉を押さえようと手を伸ばしたが、触れることができない。こんなところに間が悪く祖母が現れたりしたらどうするのだ。もう、扉の隙間から中を覗けるまでになっている。

(イヤ、イヤ、閉まって。中を見たら怒られる)

 幸葉は目を閉じようとした。それよりも一瞬早く、眼前の風景が飛び込んできた。

(いやーっ)

 声にならない悲鳴を上げたところで夢は終わった。目が覚めても、胸が波立っている。

(隼くんに会ったからだ。あんな夢見たのは)

 同じ体験をしたはずなのに、隼は平然としていた。ひっくり返って泣きわめいた幸葉と違い、

――ふーん、そうなんだ。

と呟いただけだった。彼は感じなかったのだろうか。怖い、とも違う、あの何とも言えない畏怖。荘厳、厳格、絢爛……どれもあてはまるようであてはまらない、言葉では言い表せない光景。

 二人はここで見たものを誰にも話さないと、祖母にかたく約束させられた。どんなに親しい相手にも決してしゃべってはならない。親兄弟にも、一族の他の人間にも。

 言われなくても、口にしてはいけないという楔はとうに心に打ち込まれていた。扉が開いた刹那、一瞬だけ目にしたあれを。

 メトロがセーヌ川中洲の一つ、サン=ルイ島に入った。幸葉が働くヴァレリー法律事務所は、その島にある。


          *


 雲の下に出ると、滑走路が半分隠れていた。

降雪はやんでいるが、風が雪を吹き寄せている。

 救いなのは、滑走路のセンターラインが視認できることだ。

 隼はシートの背もたれに、背中をぴったりとつけた。これだけで上体が起き、視野が広くとれる。足を踏ん張り、自分の体が機体と一体になるのを感じる。

「さあ、行くよ」

 接地点をできるだけ手前にとり、いつもより強めにつける。

 メインギアが地面の上で転がるのを感じた。シャリシャリと雪と氷がその下で砕けるのも。

 同じ雪氷滑走路でも、日本のそれとは大分感触が違う。

 ノーズギアを降ろし、タイヤが全て地面をつかんだことを感じながら、タクシースピードまで減速していった。


         * 


 カミーユは大きな目でじっとミレーイを見つ返し、心持ち身を乗り出した。さあ、あなたの話を聴きますよ、というポーズだ。

 前髪を眉の上で切りそろえたショートヘア、ミレーイより小柄で童顔のカミーユは、学生といっても通りそうだ。紺のスーツが制服のように見える。その、いかにもひたむきそうな雰囲気が、ミレーイには好もしい。

「え? バイト、クビになっちゃったんですか?」

 カミーユの大きな瞳がなお大きく見開かれる。

「違います」

 ミレーイは気色ばんだ。クビになったのではない。昨夜、主任から、先月入ったアジア系の女性にシフトを譲ってくれと頼まれた。だが、自分も週五日入らないと生活できないので、それならやめて他を探すしかないと答えたのだ。

「そんなの、おかしいんじゃない? あなたの方が先に勤めてるのに」

 そう言いながら、カミーユはもう電話をかけ始めた。ミレーイのバイト先にかけあってくれているようだ。

 初めて会った時から、カミーユはいつもこうだった。まるで自分のことのように一生懸命に動いてくれる。

 カミーユはしばらくやりあっていたが、やがて、あきらめたように受話器を置いた。ミレーイに向き直り、

「やっぱり、あなたが退職の意思表示をしてしまったのがまずかったみたい。それから、これはちょっと言いにくいんだけど……」

 雇い主の話では、ミレーイとメイリンでは時間単価がまるで違うのだそうだ。フランスが資本主義社会である以上、同じ給料を払うなら、生産性が高い方を選ぶのは当然だと言われたらしい。

 ミレーイは唇を噛んだ。なぜ、こんな侮辱を受けなければならないのだろう。たしかに、メイリンは、ミレーイより小柄なのに、一番上の棚にのっている商品もひょいひょい降ろしてくるし、商品間違いもほとんどない。今だに色や型番違いを指摘されるミレーイに比べると、格段にのみこみが早かった。

(だけど、重い商品が多い伝票は取らないし、バイト同士でシフト交換する時も、「都合が合わない」とか言って、自分のシフトは譲らないし)

 こすっからい、とミレーイは何度も感じた。あんな人が、仕事ができると評価されるのか。

「雇用センターにはもう行ったんですか?」

「はい。求職登録はしてきました」

「前にも言ったけど、職業訓練を受けて、何か資格を取ったらどうかしら。そうすれば、もっとお給料のいい仕事にもつけるし、何より、こんな理不尽な扱いを受けなくてもすむと思うの」

「でも、そんなの受けてたら昼の仕事ができなくなるし」

「なら、その間、生活保護を受給するなりして」

 ミレーイとしては、仕事のためにそこまでするつもりはない。仕事はしょせん、結婚するまでのつなぎだ。一体、いつから女はこんなに仕事をしろと求められるようになったのだろう。ついこの間まで、「女は家にいろ」といわれていたのではなかったか。

「夜間の仕事がすぐ見つからなかったら、また相談に来ます」

 ミレーイはそう言って、つと目をそらした。



「クロエさん、眠れてますか? 食事とれてますか?」

 カミーユの問に、クロエは曖昧に首を振った。早く生活保護の更新手続をすませて帰りたい。そのためには、余計なことを言わないことだ。

「あの、クロエさん」

 カミーユはクロエの顔をのぞき込むようにして言った。

「実は、実際に通院されている方の口コミで、とても評判のいいクリニックがあるんですよ」

「いやです」

 クロエは反射的に言った。おそらく、今、自分は思い切りカミーユを睨みつけているのだろう。行ってみていやならやめればいいと簡単に言うが、医者に心ないことを言われて傷つくのはクロエなのだ。そして、傷つくということは、あたりまえだが、とても痛いのだ。

「あの、違うんです。そのクリニックはとても画期的で、従来の問診だけの診断じゃなくて、まず、機械を使って客観的に検査するんです。もちろん、苦痛は伴いません。わたしも一度見学に行ったんですが、ドクターも日本から来たとてもやさしい先生で……」

「日本人のドクターってことですか? フランス語で診察受けられるの?」

「もちろんですよ。興味がおありでしたら、予約をとりますが」

「今はいいです」

「わかりました。じゃあ、パンフレットだけお渡ししておきますね」

 すぐに笑顔を浮かべるカミーユの茶色いおかっぱ頭を、クロエはつくづく眺めた。まるで栗みたいな人だ。元気に爆ぜて転がって。良い評判を聞いたら、自分でわざわざ確かめに行く。

(きっと他の人にも親切なんだろうな)

 おそらく、ソーシャルワーカーはカミーユの天職なのだろう。天職。自分もそれにつけたと錯覚したこともあった。けれど、結局、どれほどの喜びもあの仕事から汲み出すことはできなかった。

 クロエは手元のパンフレットに目を落とした。写真の中で、クリニックの院長がレンズの大きな眼鏡越しに柔らかい笑みを浮かべていた。



 建物を出、刺すような風を感じながら歩いているうちに、クロエは何とも言えない浮遊感を感じた。目の前が黄色くなる。ここ何日も昼夜逆転の生活をしてきたのに、久々で真っ当な時間帯に外出したので貧血を起こしかけているようだ。道端にしゃがみ込み、荷物の中身を確認する体でバッグをまさぐっていると、

「キミ、どうしたの? 大丈夫?」

と声をかけられた。そっと顔を上げると、目鼻立ちの大きな、黒髪の女性が覗き込んでいる。

「あ、大丈夫です」

 クロエが立ち上がろうとすると、

「もう少しじっとしてた方がいいですよ」

と柔らかい声が続いた。淡い金髪の、華奢な女性だ。大きなショルダーバッグから紙コップを取り出し、

「温かいもの、飲む?」

 訊きながら、もう、持参のボトルからコーヒーを注いだ。エスプレッソの香りが心地いい。一口飲むと、いかに体が冷えていたかを感じた。

「キミ、カミーユのおばさんに担当されてる人でしょ。ボク達もそうなんだ」

 少年のような口調で黒髪の女性が言った。

「ボクはドミニク。ドミでいいよ」

「わたしはミレーイ・ジュアン」

 淡い金髪の女性も名乗った。

「クロエ・ヴィスエールです」

「クロエか。カッコいい名前だな」

「ありがとう」

 力なくではあったが、クロエは微笑みかえした。

「ボク達も今日面談だったんだ。終わってから、あのオバはん、暑苦しくてうざったいよねって盛り上がってたんだよ」

「ドミったら、あたしはそんなこと言ってないわよ」

 ミレーイがドミニクを肘でついた。

「レルミットさん、親切ないい人じゃない。それに、オバはんなんていうほどじゃ……」

「オバはんだよ。小柄で童顔だから若そうに見えるだけさ」

 レルミットはカミーユの名字だ。ドミニクは彼女とファーストネームで呼び合っているのだろうか。

「ボクとミレーイは面談の時間が近いことが多くて、自然と顔見知りになったんだ」

 ドミニクはそう言って、ミレーイの肩を引き寄せた。

「キミのことも、見かけたことあるよ」

 クロエもドミニクを見た記憶はあった。どこにいてもパッと人目を引く存在。大きな金色の瞳。漆黒の長い髪。きれいな黒猫のようだ。

「ねえ、クロエ……が歩けるようなら、あそこのベンチへ行かない? 日があたっててあったかそうだよ」

 ミレーイの提案に、クロエはゆっくり立ち上がった。ベンチに座る頃には、三人の使う二人称は他人行儀なあなた(vous)から、親称のtuに変わっていた。

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