「奢り奢られ論争」に見る一部女性の主張の醜さ
■はじめに
一般に、「奢り奢られ論争」と呼称される論争がある。
端的に言えば、恋愛関係に発展する見込みのある男女が食事に行った際、その支払いを男性がすべきであるという慣習は現代でも有効なのか、という議論である。
賢い人はこのような愚かな論争にはあえて立ち入らない。そこに、俗的な男女二元論の臭いを嗅ぎ取るからである。
しかしだからこそ、あえてこの論争に立ち入ることで、賢くない人々の思考を辿ることができる可能性がある。
本稿ではこのような問題意識のもと、あえて「奢り奢られ論争」を観察してみる。
具体的には、この論争における「男性が奢るべきだ」という一部女性の主張を丹念に辿っていく。
(しかし、主張者の具体例を出すと失礼にあたる可能性が大いにあるので、あえて、誰が「男性が奢るべきだ」という主張していたのかについては明言しない。ゆえに、その主張への本稿の分析が藁人形論法である可能性は十分にある。
インターネットを見ていれば多かれ少なかれよく見る言説を取り扱っているつもりであるが、本稿がそれに失敗していたら、遠慮なくご指摘ご批判をお願いしたい)
■「男性が奢るべきだ」論の一典型
ここで取り上げるのは、「男性が奢るべきだ」論の一つの典型例である。それによれば、以下のような論理で、「男性が奢るべきだ」という結論が導出される。
「確かに、男女間の賃金格差が縮小し、また女性の社会進出が進んだ現代にあって、男女平等は一つの理想像として実現しつつある。男性の方が経済力が高いということは必ずしもないし、女性の方が美容にお金をかけているということもない。その意味では、確かに旧来の「男性が奢るべきだ」論が通用しないことは認め得る。
しかし、私と恋愛関係に発展したいと男性が望んでいるのであれば、彼は私に食事代を奢るべきである。少なくともそうすることが、彼にとって合理的な選択である。なぜなら、そうした方が私は彼に魅力を感じるし、(私のためにコストを払ってくれるという意味で)誠実さを感じるからである。逆に、そうしない男性に私は魅力を感じないし、誠実さも感じない。また、私の気持ちを推し量ってくれるほどの合理的推論能力も認められない。つまり、私が彼に魅力を感じる可能性は減少する。
したがって、男性が私と恋愛関係に発展したいと望んでいるのであれば、彼は私に食事代を奢るべきである。それが、私にとっても、従って彼にとっても合理的な選択である」
■「男性が奢るべきだ」論の瑕疵1.「論点の矮小化」
上のような「男性が奢るべきだ」論には、驚くほどに多くの論理的欠陥がある。しかしその中でも特筆に値するのは、論点の矮小化が観察される点である。
一般に「男性が奢るべきだ」論に反論する人(多くは男性)は、「初デートでは男性が奢るべきだ」というような漠然とした社会通念あるいは一般常識に対して批判しているのである。
すなわち、そのような通念があることによって、恋愛関係における男女の経済的コストはアンバランスになり得る。簡単に言えば、男性の方が頑張らないといけなくなる。
また、そのような通念があることによって、男性は女性を「手に入れる対象(攻略対象)」として認識しやすいかもしれない。それは、女性を人として尊重すべきだという理念に反する。
さらに、そのような通念があることによって、未来の男性たちが、不満を覚えるかもしれない。すなわち、現行の不公平を未来にそのまま継承することになるかもしれない。それは、社会的に望ましいとは言えない。
つまりこの問題は、(未完成で荒っぽくはあるが)社会問題として提出されているのである。これこれが常識になっている社会はおかしいのではないか、ということが問われているのである。
にもかかわらず先の「男性が奢るべきだ」論は、これを個人の選択の問題に還元し、その問題性を矮小化する。「そういう通念には問題があるかもしれないけど、それに従ってくれた方が私は嬉しいから、私と恋愛関係になりたければそれに従う方がよい」というわけである。
これは驚くべきロジックである。例えば人種差別の問題に対して「人種差別的な認識が蔓延しているのは良くないのでは」と黒人の方が問題提起したとする。これに対して、白人の方が「それは良くないかもしれないけど、でもその認識が少なくとも今は常識であり、常識的で穏当な黒人の方が私にとって魅力的なので、私と友人関係に発展したいと思うならば人種差別主義者であれ」と言うに等しい。
このような論理は、(私の知るかぎり)男性社会からは出てこない。あるいは、出てきにくいと思う。「こういう社会問題があるかもしれないけど、社会に逆らうのは私にとって魅力的じゃない」というのは、おおよそ社会問題を自ら引き受ける市民としての自覚が育っていないか、あるいはその責任を感じない子供の論理である。これこれが常識になっている社会はおかしいかもしれないが、そんなことより私と恋仲になりたいなら、その常識に従った方が良いよというわけだ。
もちろん私も、全市民があらゆる社会問題を引き受けるべきだとは思わない。しかし、それをあからさまに無視して社会問題を個人の選択の問題に還元する態度が蔓延するべきだとも思わない。
この論理的瑕疵によって、「社会としてどうか」という問題提起は「私にとって、私の気持ちにとってどうか」という論点にすぼんでいく。議論の価値を自ら貶めるのである。
このような、社会問題を個人の合理的選択の問題に不当に矮小化することからは、次の論理的瑕疵が導かれる。
すなわち、「私の肥大化」である。
■「男性が奢るべきだ」論の瑕疵.2「私の肥大化」
上記の「男性が奢るべきだ論」には、「私の肥大化」すなわち「私にとって心地よい状態を、そのままあなたにとっても心地よい状態であると錯覚する傾向」が生じる。
「男性に奢られる」ことは私にとって心地よい。そして私にとって心地よい状態を提供してくれれば、あなたにとっても心地よい状態を提供してあげなくもない。ゆえにあなたは、あなた自身のために、私にとって心地よい状態を提供するべきである、というロジックである。
(私の知る限り)このようなロジックは男性社会からは出てこない。仮に全世界の女性から求められるカッコいい男性がいたとしても、彼が「僕にとっての合理的選択をすることが、あなた自身のためになる」などと言うとは全く期待できない。
なぜなら、これは最初から「与えられる」側の論理だからである。「何かを与えれくれたら、私も与えてあげる」という交換条件の論理だからである。彼女たちにとって恋愛とは、このような物質と感情の高度な外交ゲームに他ならない。
この論理により、彼女らは「自分にとっての最適解」を「相手にとっての最適解」と同一視し始める。そして、「自分にとっての最適解」を提供してくれない相手に、能力不足や愛情不足を勝手に見出し始める。「私に奢ってくれないなら、この男性は常識がないか、私のことをなんとも思っていないに違いない」というわけだ。そしてこれは、ただの虚妄であり妄想である。
そして、このような「私の肥大化」という問題からは、次の論理的欠陥、すなわち「(奢ってくれない)男性への敵視」が生じる。
■「男性が奢るべきだ」論の瑕疵.3「(奢ってくれない)男性への敵視」
上述の「男性が奢るべきだ」論には、「(奢ってくれない)男性への敵視」という欠陥がある。
すでに示したように、彼女らは「与えられる」側を生きている。相手から何かをもらわなければ、相手には何もあげる必要がないという世界観で生きている。
ゆえに彼女らにとって、「男性が私に奢ってくれる」ということは、必要最低限の誠意の表明として観念され、私と仲良くなるための合理的選択として理解される。「男性に奢ってもらう」ことなしに「男性に何かを与える」ことなど、まったく考えられないからである。
したがって、「男性が奢るべきだ」論には、しばしば(奢ってくれない)男性への異常なほどの敵対視が付随する。
私のための行動をしてくれないのに、私を手に入れようだなんて非常識極まりない、頭も悪い、というわけだ。
しかし一般に、恋愛とは交換条件ではない。それゆえ、彼女らの主張はしばしば理解不能である。「相手に何かを与えよう」という感情が自然に備わっている人にとっては、「相手から何かを与えられなければ、相手には何も与えない」という動機は異質なものとしか映らないのである。
「男性が奢るべき」論者たちが、しばしば男性への攻撃性を発露させるのは、このためである。
「私と仲良くなりたいならば、私に何かを与えることが(つまり奢ることが)合理的選択だ。そしてそれが常識でさえある。それなのに、私に何かを与えることなく私と仲良くしようなど」という訳である。
この認識により、彼女らはしばしば「奢ってくれる男性」と「奢ってくれない男性」との間に太い境界線を引く。その線が「誠意があるかどうかの基準」だと彼女たちは信じている。むろん、実際にはそんなことはないのであるが。
■注意喚起
ずいぶん批判的に述べてきたが、私は決して、低俗な女性嫌悪を表明したいのではないし、男女二元論を容認するわけでもないし、男性社会を持ち上げようというのでもない。
上で辿ったような認識を表明しない女性も数多くいるし、あるいは上の認識を表明する男性がいる可能性も否定しない。むしろ、社会をルール変更不可能なゲームとして考え、ルールの不当性を批判することなくそのゲームでの最適解を目指して行くような傾向は、つまり「論点の矮小化」をする傾向は、ひょっとしたら男性の方が強いかもしれない。(し、そもそも性差などないかもしれない。もしあったとしても、それは生物学的なものではなく、文化的・社会的に生まれたものかもしれない。もし生物学的な性差があったとしても、男女二元論は不当かもしれない)
本稿は、「男性が」「女性が」を主語にはしていない。本稿は、「「奢り奢られ論争」において、現代的な「男性が奢るべきだ」論を主張している、ごく一部の限られた女性」を主語にしている。
だからこれをもって、女性一般について論じるつもりもない。
ゆえに、本稿を根拠にして「これだから最近の女性は甘えていてけしからん」などという低俗な結論は出さないようにお願いしておく。もちろん、正当な手続きを踏んでこの結論が導出できるというのであれば、それは傾聴に値するが。(経験的にはそういうものに出会ったことはない)
■結論
以上の分析よって、「奢り奢られ論争」で「男性が奢るべきだ」論を表明する主張の一部は、その醜さを露呈していることが分かった。
彼女らの主張は、「自分が常に与えられる側」であることを自明視し、「自分が与えなければ相手に与えない」という戦略を当然のものとみなしている。それゆえに、「自分が与えられなくとも相手に与えられる人」は彼女らにとって、「自分は与えないのに私からは与えられると思っている人」として理解される。「奢ってもらわなくても仲良くできますよ」という人が相手も同様だろうと考え奢らなかった時、それは彼女には「奢ってくれないのに仲良くしようとしている」人として映るのである。
しかも彼女たちは、現代の風潮が社会にとってどうかという市民的意識を全く持たない。その風潮が自分にとってどうかという意識があるだけである。
ゆえに彼女らは、風潮に批判的でなく、むしろその風潮に批判的なものに批判的である。だから彼女らは、結果として、体制迎合的であり、強いものには巻かれろ主義であり、社会の問題を自分で引き受けるなどという能力を持たない。「この社会おかしくない?」という理性的な意識は、「私が心地よければそれで良い」という感情に上書きされてしまう。
以上の議論により、彼女たちの辿る思考と、その世界観的諸前提を推測することができた。
彼女らの持つ世界観と、(例えば)私たちが持つ世界観とは、遠くへだっている。
(どちらが正しくてどちらが間違いだとは別に思わないが)
■自己批判
しかしこれはあくまでも、「こういう結論がこういう論理で出てくるということは、その前提にはこういう世界観があったに違いない」と事後的に解釈しているだけである。その方法論それ自体に対する批判は大いにあり得る。
(私も自分でやっていて違和感を覚えなくもないが、上手く言語化できないので、この方法を採用している現状がある)
一つ具体例を出して自己批判をしておくと、例えばここに「世界は滅ぶべきだ。なぜなら世界には苦しみしかないからだ」と言う少年がいたとする。そこから私が事後的に、「ということはこの少年は世界に絶望しているに違いない」と解釈することはできる。
しかし本当は、この少年は、世界に希望しか持っていないのかもしれない。「現代には希望しかない、しかし過去には絶望しかなかった。未来人が希望を持てて先人がそれを持てなかったのは不公平だ。そして不公平こそ苦しみの種だ。さあ世界を滅ぼそう」。ひょっとしたら、彼はこう考えているかもしれないのである。
ゆえにこの方法論それ自体に対する批判は大いにあり得ると言える。「こう解釈すれば整合的だ」というのは、その解釈が正当であることを必ずしも意味しない。
もしご指摘ご批判などがあれば、忌憚なくお願いしたい。