筆頭魔術師様が海の底まで追いかけてきました。 1
一目散に帰り着いた、安心できる我が家。
とりあえず、宮殿の中に逃げ込んで、いつもの二枚貝のベッドにもぐりこむ。
あまりに、勢い良く帰って来たものだから、お姉様が唖然としていたけれど、今の私には、そんな余裕もない。
私は、フリルで彩られたキャミソール風の部屋着をそっとつまんでみる。
人魚も最近は、ドレスや服をきちんと着こなす。
部屋着のスカートの裾はフリフリと短くて、ほとんど隠さず覗くのが、二本の足ではなく尾ひれなのはご愛嬌だ。
(うん、大丈夫。恋になんて落ちていない)
ちょっと、行きずりの人魚が、人命救助をした。それだけのことだ。
今ならまだ、そう結論付けてしまえば、それで済む。
「レイラ……。そんなに勢いよく泳ぎ帰ってきて。どうしたの?」
「……お姉様」
水色の髪を水中に漂わせながら、ナティアお姉様が心配げに聞いてくる。
だからって、溺れかけていた王子様みたいな人を助けましたなんて、心配させること、言えるはずがない。
「青い鳥に追いかけられて……」
それは、ウソではない。
「あら、それは怖かったでしょう? ……もう、海面になんて行かないほうがいいわ」
「そうだね……」
確率論から言えば、あり得ないことが起こった。
一方、物語的に言えば、それは必然だったのかもしれない。
「目まぐるしいよ」
ため息をつく。そして、私は疲れ切った体を横たえた。
その日は、あの深紅の瞳が脳裏にちらちらと浮かんでしまうたび、「恋じゃない」とつぶやくのに忙しくて、私は眠ることが出来なかった。
* * *
そして、あの瞳が何度も浮かぶものの、恋焦がれることほどはないことに安心しながら、私は数日間、いつも通りの生活をしていた。
お肉は食べたいけれど、海上に顔を出すのは、もうやめようと心に決めて過ごす。
夢の中に、時々あの青い鳥ラックが『褒美、褒美』と言いながら出てくるけれど、気にしない。
しゃべる鳥のインパクトが強かったから夢に出てくる。それだけのはずだ。
それだけの……はずだと思っていた。
私の目の前に、あの深紅の瞳の青年が現れるまでは。
「久しぶり。レイラ姫? あの時の礼をしに来たよ」
「ちょ、なんで人間が海の底にいるんですか?!」
勢いよく扉を閉めようとしたけれど、すでにドアの隙間に足が挟まれている。
(これではまるで、感謝の押し売り)
「……っ、本当に、あなた様をお助けしたのは、ただの善意なので! 善意の第三者なので!」
「――――レイラ姫を探して、ここに来るために、この命を懸けたのに?」
両肩が、びくっと小さく震える。
命を懸けるなんて、ものすごく不穏な言葉が、聞こえてしまった気がしたから。
美男美女が多い、人魚の世界ですら見かけることのない、氷のように冷たくて透明な美貌。
海の中に溶け込んでしまいそうな、海の泡みたいな銀色の髪。
きっと、海の上の世界にあふれているに違いない深紅の薔薇みたいな色の瞳。
「レイラ姫に、一目会いたくて」
当たり前のように、恋愛経験のない私に、さらりと告げられた言葉は、破壊力があまりにも高い。
固まってしまった私に、笑いかけるのは、先日、お助けしてしまった、人の国のお方。
それにしても、普通は逆だよね……。
人魚姫は恋焦がれた王子様に会いに行く。それが、定説だ。
なぜ、助けた、人の国の高貴なお方が、人魚姫を海の底まで追いかけてきているのだろう。
「俺は、願い事は、すべて自分の力で叶えると決めている」
「うえぇ……。海の泡になるのイヤですぅ。声もなくしたくないですぅ」
「俺から逃げなければ、そんなことにはならない」
「ーーーーひぇ?」
そのまま、恭しくひざまずいた、筆頭魔術師様が、私の尾ひれに口づけを落とす。
まるで、永遠の誓いを捧げるかのように。
「――――命を懸けたって言いました?」
「やっと、話を聞いてくれる気になった?」
仕方がないので、観念した私は、私室の扉を開けることにした。
当たり前のように入り込んでくる男性のことが、ひどく憎らしいと同時に、心配になってしまう。
「……あの、この世界には、恩を受けたら、命を懸けて返さなくてはいけない決まりでもあるのですか?」
「レイラ姫は、面白いことを言う。そんなはずないだろう? 裏切りがこの世界の常だ。まあ、俺は恩を返したいとは、思っているが」
「……物語のシナリオ上、一目見て恋に落ちる仕様ですか?」
「……物語のシナリオというのはわからないが、一目見て恋に落ちたのは事実だな」
(信じられない)
今度は、白い手の甲に口づけが落ちるのを、私は見つめるしかない。
伏せられた瞳、長いまつ毛がその頬に影を落とす。
心臓が高鳴ってしまうのは、予想外にも、王子様っぽい人が、海の底まで人魚姫を追いかけてきてしまったからに違いない。
結論から言うと、クラウスと名乗った青年は、王子様ではなかった。
その事だけは、安心できる情報だった。どちらにしても、人間と恋に落ちるなんて、縁起が悪いにもほどがある。
「そばにいたいんだ」
「地上に帰ったほうがいいですよ。私、あなたと恋には落ちませんからね?」
「辛らつだな。傷つく」
傷つくと言いながらも、その笑顔には余裕がある。
この容姿だ。きっと、地上ではさぞモテるに違いない。
どんな方法で、海の底まで人間が来ることが出来たのか、それはわからないけれど、戻って幸せに暮らしたほうが、お互いのために違いない。
「あの、どうやって、ここに来たのですか?」
「こう見えて、王国の筆頭魔術師だ」
「――――想定外に、人魚姫をそそのかす、悪い魔法使い?!」
「……そうだな。俺にそそのかされて欲しいな」
本当は、この時に、クラウス様が筆頭魔術師ほどの腕利きなのに、なぜ海でおぼれかけていたのかを、私は問い詰めるべきだったのだ。
あとになって、そのことを後悔しても、もう手遅れというのは、よくある話だ。
けれど、現時点での私は、クラウスから距離を置こうと必死だったからその事に、思い至ることは出来なかった。
しばらくの間、海の底で二人の攻防は続く。
それが、恋と呼べるものになるには、あと少し時間がかかるようだった。
最後まで、お付き合いいただきありがとうございます。下の☆を押しての評価やブクマいただけるとうれしいです。