四十肩ピッチャー鈴木三郎(素人)
鈴木三郎四十四歳、未婚独身、派遣社員、彼女なし。
土曜日の午前中、ジャージ姿でスニーカーを履いた彼はマウンドに立っていた。
「…なんで、こんな事になったんだっけ…」
事の発端は昨日の晩の事だった。
上場二部のメーカーで働く鈴木は仕事でポカをして三百万円の損失を出した。
本当は鈴木の直属の上司の正社員今村の責任だったのだが、全てを押し付けられた鈴木は嫌味な係長に半日かけてさんざんどやしつけられ理不尽に損失の弁済を求められた。
弁済は免れたものの、結局派遣契約をその日のうちに解除された。
行き場のない怒りと失望のまま夜の街に繰り出した鈴木は、キャッチに捕まりぼったくられた。
その後鈴木はへべれけのまま安全そうな定食屋に入った。
そこで事件は起きた。
「ビールちょうだい。大瓶で」
そこは下町風の定食屋で、四人がけのテーブル席が3つ、カウンター席が三席あった。
鈴木が入った時にはテーブルがひとつ、カウンター2席が埋まっていた。
カウンターの客は二人とも仕事帰りのサラリーマン風の男で、スマホを片手にからあげを頬張っていた。
一方テーブルには大きな男が一人、きれいな女が二人座っていた。
その男は背広を着ていたが筋骨隆々でスーツはパンパンだった。
連れの女二人は夜の香りがするきれいなロングヘアの細身のいかにも水商売風の女たちだった。
鈴木の席から男の顔は見えない。
が、短髪に刈り込んだ後頭部と大きな背中といい女を二人も連れている事から察するに男はきっとやくざにちがいない、と鈴木は思った。
ついさっき奮戦虚しくコワモテの男たちに連れられてコンビニで全財産の20万円を引き出されて奪われた鈴木は、男の背中が腹立たしかった。
こっちは毎日一生懸命働いても理不尽にクビにされ、かたややくざなんてのはぼったくった金でいい女を侍らせている。
全く持って許せない、と飲めないアルコールに飲まれた鈴木の目がどんよりと座った。
男と女たちは定食屋の奥の隅の一番上に設置されたテレビを見ていた。
プロ野球の試合を放送していた。
3勝3敗の同点で迎えた中洲スネークスvs天神ナイナーズの日本一決定戦だった。
点差は3−0。
スネークスが優勝に王手をかけていた。
だが、9回裏ツーアウトにして満塁、ナイナーズの攻撃。
バッターは4番助っ人外国人ハリソン・モッズ。
ここでホームランが出れば一発逆転サヨナラ満塁ホームランだった。
今季のハリソンの成績は悪くなかった。
しかし、スネークスの守護神、抑えの大神元に全く合っていなかった。
ハリソンは2球でツーナッシングに追い込まれた。
「だめだな。完全にタイミングを読まれている」
大男がボソリと言った。
「えー、負けちゃうの?やっぱ十文字一馬選手じゃないとだめね」
「そうそう今から行ってやっつけちゃえー」
鈴木にはキャハハと笑う女たちが、さっきのぼったくりバーの女どものように見えた。
そして、テレビの中で一生懸命試合をしている選手を馬鹿にしたやくざにも腹が立った。
普段ならおとなしい鈴木だが、悪酔いして別人になった鈴木は三人にからんだ。
「なーにがやっつけたえーだばかやろー、ヒック、あいつらだってなあ、仕事してんだ、それなのにお前はやくざのぼったくりが…ヒック」
女二人が鈴木を見た。
男はテレビを観たままだ。
派手な服を着ている方の女が
「おじさん、飲み過ぎだよー。早く帰って寝たほうがいいよ」
と冷ややかな笑顔で言った。
大男は黙ってずっとテレビを観ている。
「おいっ!そこのバカゴリラ、ヒック、やくざだからっていばるんじゃねえばかやろう、ヒック」
スネークスの大神が振りかぶって投げた球は、小さく当てに行ったハリソンのスウィングにかすりもしなかった。
完全に高めのボール球だったが、回転にキレのある速球がキャッチャーミットに収まり試合が決まった。
中洲スネークスの日本一3連覇だった。
「あーん、負けちゃった。でもこれで一馬の株がまた上がるね。やっぱ真の4番がいないとね」
「一馬だったら絶対ホームランだったよねー」
女ふたりがはしゃぐ中、男はテーブルの上の湯呑みに手を伸ばしてお茶を飲んだ。
鈴木はテーブルを叩いた。
大きな音で、店内の全員がびっくりして振り向いた。
「うーるせーぞ女ぁ!ヒック」
鈴木は席を立つと千鳥足で数歩歩き、女たちのテーブルの前に来た。
「な、なに、怖いんだけどこの人」
女が怯え、大男が肩越しに振り返った。
幾千もの修羅場をくぐり抜けてきた精悍な男の顔だった。
いつもの鈴木なら何も言わず薄ら笑いで引き下がったはずだったが、飲めないアルコールを散々飲んだ今夜の鈴木にはもはや理性など1ミリもなかった。
椅子に座る大男の角刈りの頭に左手を乗せると
「打ってみやがれホームラン、どうしたこのスカたんやろう、ヒック」
と言って大男にからんだ。
「ちょっとお客さん、いい加減にしなよ!警察呼ぶよ」
調理場からテレビを観ていた店主が怒鳴った。
大男が手のひらを見せて店主を制した。
「ちょっと!あんたいい加減にしなよ!この人が誰だかわかってんの?この酔っぱらい!」
女が叫んだ。
「やくざだろうが。バットで人殺すくせに、かかってこいばかやろう。ヒック」
「もう帰ろう一馬。この人マジサイテー」
「逃げるのかやくざどもめ。じゃあ謝れ」
「なんで謝らないといけないのよ。バカじゃないの」
「バカはお前だバカ。ヒック。打てないのに打てるふりしやがって。ヒック、金ばっかりぼったくりやがって。ごめんなさいって謝れバカ」
地味な服の方の女が立ち上がって鈴木を平手打ちにした。
その拍子に鈴木が吐いた。
嘔吐物は鈴木の口からマーライオンの噴水のように飛び出し、女の服にかかった。
ゲロはさらに出続けて大男の頭の上にも注がれ、大男はゲロまみれになった。
悲鳴を上げる女をよそに、大男は微動だにしなかった。
大男は座ったまま上着を脱いだ。
格闘家のような体だったが、ゲロで透けたワイシャツの下の筋肉のどこにも刺青はなかった。
ただ右の手首に大きな傷があった。
店主が慌てて持ってきたバスタオルで鈴木の吐瀉物を拭き取った大男は、
「打てますよ」
と静かに言った。
ゲロを吐きそのまま床に倒れ込んで上を向いていた鈴木はその言葉を聞いて、床に大の字になりながら
「じゃあ勝負だ馬鹿野郎」
と言った。
「いいですよ。では明日グラウンドでやりましょう」
「ちょっと一馬。酔っぱらいなんだからほっとけばいいじゃん」
「そうはいかない。他のことならともかく、野球で勝負を挑まれたら俺は逃げない」
「おうこのやろう、いい根性だばか、ヒック、俺が勝ったらぼったくった金かえせこのやろう」
「いいですよ。いくらでも。それで、あなたが負けたら?」
と男は鈴木を見下ろして言った。
「やくざに、ヒック、なんか負けるかバカ。俺が、負けたら切腹してやるばかやろう」
そう言って鈴木は寝てしまった。
翌朝、鈴木の安アパートをノックする音がした。
その音は激しく、敵意に満ちていた。
鈴木は目を覚ましたが、頭がガンガンした。
ただでさえガンガンするのに、ぶしつけなノックの音がさらに痛みを増加させた。
ベッドから出るのも億劫で居留守を使おうと思ったが、ノックの音は止むどころか激しくなるばかりだった。
鈴木がベッド脇の置き時計を見るとまだ8時にもなっていなかった。
こんな朝からドアを叩く人間に文句をいってやろうと鈴木はドアのそばまで行き
「なんですか...うるさいんですけど...」
と寝起きの声で言った。
自分の声ですら頭に響いた。
「私。開けてくれる?」
予想と違う、艶のある女の声がした。
「え?私?誰?」
「私よ。鈴木三郎さん」
鈴木には全く覚えがなかった。
覗き窓から見てみるとそこには綺麗な女が立っていた。
鈴木はおそるおそるドアを開けた。
「はい?」
「おはよう、鈴木さん。今起きたの?」
「え、ええ」
「ちょっといい?」
女は顎をしゃくって中に入れろ、と要求した。
散らかり放題の家に入れるわけにはいかない鈴木は
「中はちょっと…。ちらかってますので…」
と言った。
「あ、私そういうの大丈夫だから」
そういうと女は扉を開け、鈴木を押し退けて中に入った。
「おじゃましまーす。うわあ、ほんとやばいね」
女はそういうとカーテンを開け、窓も開けた。
「さ、支度してくれる?」
「支度?」
鈴木は昨日ぼったくりバーに行った事を思い出した。
だがその後の事を覚えていなかった。
ぼったくりバーに連れ戻されると思った鈴木は
「な、なんですか、け、警察、呼びますよ」
と言った。
「呼んでもいいけど無駄だと思うよ。悪いのあんただし」
「わ、私は何も…」
「20万」
「え?」
「あんたが昨日ゲロまみれにした私の服」
「え?そ、そんな…。そんな事してませんけど」
「てかその話じゃないし。勝負するから呼んでこいって。一馬が」
「かずま?」
「あんた何にも覚えてないんだね」
そういうと女は昨日の一部始終を説明した。
「にわかには信じられないのですが、なんとお詫びをしたらいいか。本当にすみま…」
「ああ、いいからそういうの。とりあえず準備して」
女は鈴木の話しを遮ってそう言うと、細長いタバコを取り出して火をつけ鈴木の部屋いっぱいに白い煙を吐き出した。
そういう経緯で急遽ジャージに着替えスニーカーを履いた鈴木三郎は、この女、今井麗美の運転する赤いBMWに乗せられて野球場に来た。
そこは天神ナイナーズの2軍が使用するグラウンドだった。
こんな近くに野球場があるなんて鈴木は知らなかった。
モデルのように颯爽と歩く今井の後ろについて球場の中に入ると、関係者らしき男性に声をかけられた。
男性は冷ややかな目で鈴木を見て、聞き手はどちらかと聞いた。
左利きだと答えると男性はめんどくさそうに鼻を鳴らし、近くの台の上に並べてあった2つのグローブの内左用のグローブを手に取って鈴木に渡した。
グローブの中には硬球ボールがひとつ入っていた。
鈴木はまじまじとそのボールを見た。
初めて見て触った硬式球は高級感があり、そして硬かった。
「マウンドは投げやすいようにならしていいからって、一馬が」
今井が言って、通路の先をあごでしゃくった。
鈴木は通路を歩き外に出ると、そこはグラウンドだった。
野球のグラウンドを見るのも初めてだったし、中に入るのも初めてだった。
快晴の日差しがよく似合う、土と草の香りがした。
痛む頭をさすりながらマウンドを見た。
土が盛り上がっている。
ちょっとした丘のように見えた。
おそるおそる鈴木はマウンドに上がった。
高い。
「こんちはー」
鈴木に駆け寄って来たTシャツにジーパンの男がいた。
二枚目の若くてさわやかな男だった。
「初めまして。自分捕手の大平って言います。鈴木さん?です?」
「え、はい、そうです」
「はっはっは。あなたすごいっすね。あの十文字さんに喧嘩売ってゲロかけて、さらに勝負するだなんて」
大平はけれんみなく言った。
「いや、あの、ほんとにすみませんでした。全然記憶なくて」
「あ、そうなんですか。ですよね。わかります。酒っておっかないですよね。僕も好きです、酒。まあせっかくだし、いい記念になりますよ」
「記念?」
「ええ。あれ?知らないですか?十文字さん、もうすぐジャンキースに行くんですよ」
野球に疎い鈴木でも、ジャンキースの名前くらいは知っていた。
ヌーヤーク・ジャンキース。
ワールド・シリーズ優勝十七回の世界一有名なチームだった。
「あの、私はどうすれば?」
「もうすぐ十文字さん来るんで、とりあえず練習しましょうか?野球経験者ですか?」
「いえ、まったく」
「了解です。じゃあまずはキャッチボールしましょう」
そういうと大平は数歩下がってキャッチャーミットを開いて見せた。
ボールを投げろ、と言われているのだと理解した鈴木は大平に投げた。
鈴木の手からふわりと山なりに飛んだボールは、ぽすっと気の抜けた音とともに大平のキャッチャーミットに収まった。
「いいですね!上手ですよ」
そういうと大平は少しずつ下がり距離をあけていった。
マウンドからホームベースまでの距離は18.44メートル。
大平は定位置で座って
「思いっきり投げたら肩痛めたりしますから、ゆっくりでいいですよ」
と言った。
鈴木はゆっくり投げたら届く気がしなかったので、ゆっくりを装って結構な本気で投げた。
しかし球はホームベース手前で失速しワンバウンドした。
「おお。結構届きますね。じゃあちょっと力入れてみます?」
鈴木はそう言われ、本気の全力で投げるしかなくなり思いっきり投げた。
またへろへろと飛んだ球は、何の勢いもないまま無音でキャッチャーミットに入った。
鈴木はボールが届いた事に自分でも驚いたが、それ以上に肩が抜けたような気がして慌てて自分の肩を触ってみた。
ミットに届いたボールは、なぜか若手No.1捕手大平のミットからこぼれてぽとりと落ちた。
「しっかり取れ」
3塁側のベンチから声がした。
そこには、天神ナイナーズのユニフォームを来た大男、十文字一馬がいた。
「マジすか十文字さん、ユニフォームて」
「当たり前だ。それよりお前、なんだその格好」
「いや流石に素人さんの球受けるのに一式つけるのは」
「どんな時でもグラウンドに出る時は細心の注意と全力プレーだといつも言ってるだろう」
「すんません」
大平は謝ったが、顔は笑っていた。
昨日定食屋でからまれた酔っ払いと一打席勝負をするだけでもおかしな事なのに、ユニフォームを着て来た。
うっすらと汗をかいているところを見るとウォーミングアップも十分にしてきたのだろう。
しかしこの鈴木というおじさんは、思いっきり投げてなんとかミットに届く程度だ。
十文字はずいぶんと世話になった先輩だったので、球を受けろと言われ快く引き受けたが、こんな打って当たり前の勝負に何の意味もない、まったく野球に融通のきかない人だ、と大平は思った。
審判も来ていた。
「では、始めます。3球ストライクを取ればピッチャー鈴木さんの勝ちです。3球のうち1本でもホームランが出れば十文字選手の勝ちです」
「え?ホームラン?」
大平は驚いて審判を振り返った。
「当然だ。こっちはプロだぞ」
と十文字が素振りをして言った。
「なお、ボールは何球でもOKです。ボールと宣言しますがカウントしません。ファールはストライクとしてカウントしますがツーストライクまでです。スイングしなくてもストライクゾーンに入ればストライクとしてカウントします。こちらは3球とも取りますので見逃し三振もあります」
と審判が言うと
「ないっしょ」
と大平が笑って言った。
十文字一馬が素人の投げた球を見逃して三振に取られるなんて、そんな事があるわけがない。
「いやほら、一応ルール説明だから。3球打ってホームランが出なかったら鈴木さんの勝ちですから」
と審判は大平とマウンドの鈴木を交互に見て、苦笑いしながら言った。
「ないっしょ」
大平がまた笑った。
「鈴木さん、今説明されたルールわかります?」
審判がマウンドの鈴木に言った。
「ええ。一応」
ルールはわかる。
しかし、この勝負の意味が全くわからない。
「では、十文字対鈴木の1打席勝負を始めます!プレイボーッ!」
鈴木はマウンドからバッターボックスの方を見た。
巨大な十文字が左のバッターボックスから自分を見ている。
すぐ目の前にいるような圧迫感があった。
とにかく投げなければならない。
鈴木は投げた。
しかし、球は届かなかった。
「ボーッ!」
「手前から投げてもいいですよ」
と十文字が言った。
「え?ほんとですか?それはありがたい」
そう言って鈴木は数歩前に進み出た。
大平が鈴木に走り寄って来た。
「鈴木さん、もし届くなら下がった方がいいですよ」
「え?どうして?」
「いや、どうしても無理なら前からでいいんですけど」
「やっぱ、前からだとズルすぎます?」
「そうじゃなくて、もしピッチャー返しになっちゃったら大怪我じゃ済まないかもです」
絶句した鈴木は、手に持っている硬球を見た。
確かにこれがバットに弾き返されてきたら取れなし避けられない。
顔や頭に飛んできたら死ぬかもしれない。
「マ、マウンドから投げますね」
「大丈夫。さっき届いたし、あの感じで行きましょう」
大平が定位置でミットを構えた。
鈴木は思いっきり投げた。
球はへろへろと飛び、ストライクゾーンを通過しようとした瞬間、凄まじい風圧とともに振り出されたバットが残像すら残さない速さで鈴木のボールを捉えた。
破裂しそうなほどへしゃげたボールはそのままライト側のポールすれすれを越えて場外へ見えなくなった。
わずかにそれた大ファールだった。
「ファー!」
審判がファールをコールした後十文字はバッターボックスを外し、自分の両手を見た。
おかしい。
確かに捕らえた。
ライトスタンド上段に放り込んだと思ったのに、ファールになった。
右手首の怪我はもう完全に治ったはずだ。
今年途中加入した二軍で三冠王を獲った事で、完治はもう確かめた。
ならばなぜファールになった?
球が遅すぎて芯を捉えていなかったのか?
十文字はバッターボックスに戻って審判と鈴木に礼をした。
「プレイッ!」
鈴木はまた思いっきり投げた。
またもボールはへろへろと大平のキャッチャーミット目掛けて飛んだ。
十文字は最後の最後までボールをよく見た。
スウィングしなかった。
鈴木の投げた球がホームベース手前でわずかに動くのがわかった。
球はど真ん中よりほんの少し下に構えた大平のミットに収まると、またぽろりと落ちた。
「ストライッ、ツー!」
「先輩、後一球っす」
大平は笑いながら言った。
十文字は大平がボールを落としたのを見て、無言のままマウンドの鈴木に目をやった。
「…先輩?」
ボールをマウンドの鈴木に返した大平は十文字の顔を見た。
とても遊びとは思えない顔をしていた。
“ほんと真面目だなあ、マジになってるよ”
大平は心の中でつぶやいた。
一方マウンドの鈴木は2球ですでに肩に痛みを覚えていた。
なんなら首筋や脇腹や太ももも痛かった。
だが痛みより恐怖の方が大きかった。
“とりあえずこっちに球が飛んできませんように”
鈴木は振りかぶって球を投げた。
ハエが止まりそうな勢いのまま、3球目も大平のミットへ飛んでいった。
呼吸を止め、瞬きもせず、全身全霊の持てる力の全てを込めて十文字はバットを振った。
まるで時間が止まったかのようだった。
事実、鈴木の投げたボールのスピードと十文字のバットのスピードを比較すれば、ボールは止まっているのも同然だった。
インパクトの瞬間、十文字が完璧に捕らえたと確信した瞬間、またもボールが動いた。
それも今度は先の2球より大きく動いた。
ボールは十文字のバットの風圧に押されてより大きく動いた。
打球は高々とマウンド上空に舞い上がった。
「ありゃー。鈴木さん、上です」
大平が鈴木に言った。
「上?」
鈴木は上を見たがボールを見失っていた。
「え?どこ?どこ?」
キョロキョロする中、はるか上空まで上がったボールは重力に引かれ落下し、そして上を見上げる鈴木の額へ落ちた。
コーン、という小気味のいい音と共にすっころんだ鈴木を見て大平が駆け寄った。
「ちょ、大丈夫鈴木さん?!」
そこへ、鈴木の額に弾かれて高く上がったボールが落ちてきて、大平は思わずその球を捕球した。
「あ、取っっちゃった」
「あ。あのぅ」
審判が言いにくそうに十文字に言った。
「ああ。私の負けです」
審判がゲームセットをコールした。
「勝ちましたね。鈴木さん。あの十文字一馬を三球三振ですよ!」
「え、いや、あの」
鈴木はしゃがみ込んだまま額をさすった。
「負けました。謝ります。おっしゃる通り自分は打てないのに打てると言うだけの、金をぼったくる男でした」
そう言って十文字は帽子を取り、深々と頭を下げた。
「いやいやいや!そんなバカな!100%私が悪いんです!1000%ほんとにすみませんでした!」
鈴木はそのままマウンドに正座して土下座して十文字に謝った。
「いくらでしたか?」
「いやいやいや!ほんともう勘弁してください!むしろクリーニング代、迷惑代お支払いしますので!させてください!」
大平がしゃがみ込んで鈴木の耳元で
「一億円って言ったらきっと払いますよ。真面目だから。持ってるし」
はは、と大平が笑った。
この後、究極のナックルを武器に天神ナイナーズの絶対守護神となる鈴木三郎の最初のマウンドだった。