第十五章(1)
毎夜ハクテイでレッスンを受ける日々。
最初のうちは、お昼間の時間を持て余していたのだけど、いつからかルカさんの発案で、『家事』を積極的にするようになった。
掃除、炊事、洗濯。それらの家事のやり方をわたしはほとんど知らなかったのだけど、ルカさんとマグノリアが色々と教えてくれたので問題はなかった。
二週間かけて覚えたのは、竈や調理器具、掃除道具の使い方。近頃は指示がなくてもそれなりに動くことができるようになってきた。
ハタキという道具を使って、棚の上に溜まったホコリを振り落としていたときのこと。
わたしは、玄関の扉がノックされる音を聞いた。
「はーい。今開けますね~」
いつものようにアイシャさんかウィスさんが来てくれたのだろうと思い、何気なく扉を開ける。
そこにいたのは、思わず腰を抜かしてしまうような人物で――
「こ、こ、虎白さま?!」
わたしはつい大声を出してしまった。
「急にすまんな、カノン」
わたしがあまりに驚くものだから、彼は気まずそうに頭をかく。
「ど、どうしたんですか? な、な、なにかありました?!」
「別に大した用ではないんだが……」
声を聞きつけ、ルカさんがダイニングから顔を出す。
虎白さまは彼にもちらりと目を向けて言った。
「今から少し、話し合いに行こうと思っている。お前たちの知り合いかもしれんから、一緒にどうかと思ったのだ」
「知り合い?」
「アピスヘイルから来た者たちだ」
「アピスヘイルから?!」
そういえば先日、虎白さまはアピスから使者が来たと言っていた。その人たちのことかもしれない。
「行きます。今から行くんですか?」
「ああ。すぐにだ。出られるか?」
「もちろんです」
バタバタと用意をするわたし。
ルカさんはアピスヘイルには興味がない。「一人で行けよ」と言われるかもしれないと思ったけど、一緒に外出の準備をしてくれた。
付き合ってくれるつもりのようで、わたしはホッとした。
外で待っていた虎白さまのあとを、細い通りに沿って進む。
普段とは逆の方向だった。
相変わらず歩幅が広く、付いていくのが大変だ。
黒い装束の背に揺れる、ざんばらな銀色の髪。
道行く人々が、思わず振り返る存在感。
その背中を見つめながら、ひとつ気になっていたことを口にする。
「あの……虎白さま」
「何だ?」
「お供の方はいらっしゃらないんですか? 姿が見えないようですが……」
「供? どうして供などいるんだ」
「…………」
どうして、と聞かれても困る。
普通、王族が街を出歩くときは、従者を付けるものでしょう。
アピスヘイルの都を回るとき、ローダさまはいつも三、四人のお供を付けていた。
王さまが一緒のときはお供の人数はさらに増え、十人以上でぞろぞろと歩いているのを見かけたことがある。
「危険だからじゃないんですか。命を狙われたり、怪我をしたり……道に迷われることもあるかもしれませんし……」
わたしがそう答えると、虎白さまは豪快に笑った。
「ここは俺の国だぞ。どこにも危険などない」
「そうかもしれませんが、ハクテイの皆さんは心配なさらないんですか?」
「皆自分の仕事で忙しい。子供の使いじゃあるまいし、供などいらんだろう」
「…………」
ハクトでは本当に、今までの常識が通用しない。
早足で通りを過ぎ去るわたしたちに、たくさんの声がかけられる。
何気ない挨拶がほとんどだ。
虎白さまはその一人一人に、笑顔で挨拶をする。
挨拶だけでなく、名前を呼んで二、三言会話までしている。
わたしはそんな光景を十人ほど見送ってから口を開いた。
「……虎白さま」
「何だ?」
「もしかして虎白さまって、ハクトの人の顔と名前全員覚えているんですか」
「当たり前だろう。俺の国民だぞ」
さらりととんでもない答えが返ってくる。
ハクトにどのくらいの人が住んでいるかはわからないけど、かなり広い街だから、アピスヘイル並みに人口がいてもおかしくない。
それを全員覚えているなんて、信じられない。どれだけ記憶容量があるのかしら。
「赤ん坊が生まれたら、俺に名前を付けろと言ってくる奴がたまにいる。同じ名前を付けるわけにいかんから、全員の名前を覚えておかねばならん」
「そ、そうなんですね……」
「葬儀に出席するときも、思い出話のひとつやふたつせんと失礼だろう。国民をガッカリさせんのが王というものだ」
「そ、そうですね……」
なんだかもう、すべてが規格外だ。『この世で最も天子に近い存在』とスイさんが称したのも頷ける。
通りを歩く人影がまばらになったところで、虎白さまは足を止める。
「お、着いたぞ。あの家だ」
わたしは彼の視線の先を見た。
そこには、わたしたちの家が少し横に大きくなっただけの建物があった。扉の前には二人の兵士が立っていて、虎白さまに向けて敬礼をしている。
――アピスの衛兵だわ。
わたしにはすぐピンときた。
兵士のひとりが家の中に入り、もうひとりが虎白さまに用件を尋ねる。
「アピスヘイルについて考えが変わったのだ。代表者と話したい」
「あ、ありがとうございます! すぐにご案内します!」
衛兵さんは慌てて扉を開けたけど、わたしたちに気が付いて動きを止めた。
「――――!」
わたしは彼に、軽くお辞儀をする。
誰かはわからないけど、あちらはわたしを知っているらしい。
「入って良いか」
「は、はい! もちろんです!」
虎白さまに急かされて、彼は狼狽えつつもわたしたちを家の中に案内した。
一階には、衛兵さんのほかに、召使いと思しき人たちが何人かいた。知り合いはいなかったものの、不安そうにわたしたちを眺めている姿が印象的だった。
衛兵さんは、わたしたちを二階へと案内した。
二階にはいくつかの個室があるようで、そのうちのひとつに通される。
一体誰がいるのだろう。
ドキドキするわたしの目に飛び込んできたのは――
「ランディスさま、オルドさま!」
ふたりはこちらに視線を向ける。伏せられていた暗い瞳が徐々に見開かれていく。ずいぶん疲れきった顔だったけど、彼らは――紛れもなく、わたしが知っているふたりだった。
アルベルト派の主教であるランディスさまと、右大臣オルドさま。
アピスヘイルの港で別れたふたりが、今わたしの目の前にいる。
ふたりに驚いたのはわたしだけではなかった。
ルカさんはわたしのすぐ後ろで息を飲み、一歩だけ後退りをした。
ランディスさまはわたしよりもルカさんに注目し、厳しい顔をしてこう呟いた。
「やはり、駄目だったのか……」
虎白さまは、その反応に首をかしげている。
「何か問題があったか?」
「いえ……何でもありません」
ランディスさまはゆっくりと頭を横に振り、再び目を伏せる。
オルドさまは立ち上がりわたしたちに席を勧め、小さな四人がけのテーブルにわたしたち三人とランディスさまが座る形に落ち着いた。
「今日は貴殿に話があって来訪した。ランディスと言ったな」
「記憶に留めていただけて光栄です。虎白様」
「先日はハクテイまで足労いただいたのに、たいして役にも立てず申し訳なかった」
「いえ。我々の衣食住への配慮をいただけただけでもありがたいです」
「しかし、貴殿はアピスヘイルの救援を依頼しに来たのだろう」
「もとより無理な願いだと思っておりました」
「もう諦めたのか」
「いえ、諦めてはおりませんが……どうすればよいか」
ランディスさまは背中を丸め俯いてしまう。
その姿はとても弱々しく見えて……まるで別人のようだった。
わたしの知っているランディスさまは、いつも偉そうにふんぞり返っていた。
そう振る舞えなくなったのはなぜか。
わたしの胸は締め付けられる。ランディスさまがこんな風になるなら、他の人は一体どうなってしまっているのか。
母さまは、姉さまは大丈夫なのかしら。
「諦めていないなら良かった。今日はアピスヘイルの救援についての話をしに来た」
「…………?」
「どうして心変わりしたんだという顔をしているな」
「……いえ、その……」
ランディスさまはわたしたちに目線を向ける。
原因がわたしたちにあるのは明白だから、内心穏やかでないのだろう。
ルカさんは相変わらず、ギラギラした目を彼に向けている。
ランディスさまは怯えが混じった瞳で、ルカさんを見ていた。
「俺がアピスヘイルの救援を断ったのは、他の国の反応が気になるからでもあるが、一番の原因はハクト国民の感情だ。ハクト国民はアピス国をよく思っていない」
――何故だかわかるか。
虎白さまは問いかける。その謎かけは、わたし以外の人にもやるのね。
ランディスさまは可哀想なくらい縮こまって口を開く。
「心当たりがありすぎて、なんとも……」
「そうだろうな」
虎白さまは冷たい声で言い放つ。
「アピス国から来た白子は数人しかおらんが、アピス国で何が行われているかは皆知っている」
「…………」
「ゆえに、ハクト国民はアピス国に良い印象を持っていない」
「そう、ですよね……」
悲しげに相槌を打つランディスさま。
悲痛な沈黙が流れる。
わたしはそわそわしていた。虎白さま、こんなキツいことを言うために来たの?
アピスヘイルを救ってくれるんじゃなかったの?
わたしの心配をよそに、彼は一呼吸置いてから、少し明るいトーンでこんなことを言った。
「しかし俺は思い違いをしていたようだ。
アピスヘイルから来たという白子が、アピスヘイルを救いたいと言っている」
「――――!」
「ふたりの協力があれば、ハクト国民を説得できるかもしれん」
ずっと顔を伏せていたランディスさまが、パッと視線を上げてわたしを見た。
疑惑に満ちた目だったけど、その奥に期待の光が芽吹いているのを感じる。
「貴殿の要望に答える条件はふたつある」
虎白さまは、そんなランディスさまに、二本の指を突き立てて見せた。
そして、一本を倒しながら口を開く。
「ひとつめは、このふたりの白子と和解することだ。彼らに謝罪し、アピス国が生まれながらにしてふたりに押し付けてきた『謂れ無き責務』から解放することを確約せよ」
――!
その発言に、わたしは驚いた。
ルカさんも目を見開いている。
まさか、虎白さまがそこまで……わたしたちを気にかけてくれているとは思ってもみなかった。
わたしが感動に打ち震えていると、彼はもう一本の指を折る。
「ふたつめは、アピス国が藍猫と袂を分かち、ハクトに下ることを確約せよ。これからアピス国は、ハクトに併合されるのだ」
「――――!」
今度はランディスさまたちが、息を飲んだ。
それは非常に難しい条件で、彼らが苦悩に歪むのが見て取れた。
「すぐに全国民を服従させよとは言わんが、ハクト軍の進行を邪魔するような阿呆が出ないようにしておけ。
この条件を飲めるなら、ハクトはアピスヘイルの民を救うために全力を尽くすことを誓おう」
どうだ、できるか?
虎白さまの問いかけに、ランディスさまは、深く頭を垂れて黙り込む。
わたしはドキドキしながら成り行きを見守っていた。
わたしにはどうやってもできなかっただろうことが、目の前であっさりと達成されようとしている。
ランディスさまはなんと答えるのかしら。
彼はしばらく口を閉ざしていた。そのふたつの条件は、わたしでも厳しいと思うものだから、熟考するのも無理はない。
しばらくの後、ランディスさまは重たい口を開いた。
「……今のアピスヘイルは、かつてアシュリーが滅んだときのようです。藍猫様は、約束を違えた我らを許す気はないのでしょう」
彼の頭には、まだ藍猫さまの姿があるようだった。
彼はわたしに藍猫さまが入ったことを知らない。
藍猫さまが藍の都から、アピスヘイルに神罰を落としているのだと信じている。
「……責任は、私にもあります。いや、初めから私が一番誤っていたのかもしれない」
「ランディス様……」
オルドさまが気遣うような声をあげる。
ランディスさまは、彼に向けて緩く首を振ってから、わたしとルカさんを交互に見て言った。
「ふたりには申し訳ないことをしました。私たちを許していただけるなら……哀れなアピスヘイルの民を救うために、どうかご協力いただきたい」
「…………」
感無量だった。感無量すぎて、わたしの口から言葉がなかなか出てこなかった。
わたしたちに深々と礼をする彼に、しばらくなにも答えることができない。
「どうだ、カノン、ルカ」
虎白さまに問われて、わたしは慌てて「はい」と答える。
ルカさんは納得していない顔をしていたけど、目を伏せて、わずかに頷いて見せた。
ランディスさまは、パッと顔を明るくした。
「私が、アピス国民を説得します。難しいことだと思いますが、なんとかしてみせます。
長年信じた教義を捨て去るのは、身を切るほどつらいですが、……国民の命より大切なものはありません」
「よし。そうと決まれば、早速進めてくれ。準備が整い次第我らもアピスヘイルに向かおう」
虎白さまは満面の笑みで言い、ランディスさまの肩を叩く。
「期待しているぞ」
そう言い残し、あっさりと席を立ち出口に向かった。
なんとも慌ただしい人だ。
わたしも慌てて席を立ち、ランディスさまにぺこりとお辞儀をする。ルカさんは彼を一瞥もしないまま部屋を出ていった。
その態度から、ルカさんの本心が透けて見える。
彼は本当は、許していないんだわ。彼の人生をめちゃくちゃにしたランディスさまを。
……でも彼はわたしのために、その感情を飲み込んでくれた。
わたしたちが虎白さまに追い付いたとき、もう玄関の外に出てしまっていた。わたしは虎白さまの背中に語りかける。
「あの、虎白さま」
「何だ?」
「ランディスさまに言わなくて良かったんでしょうか、わたしに藍猫さまが入っていることを」
彼は藍猫さまのことを今でも恐れている。
もう恐れる必要がないと言ってあげたら、彼も安心できるだろうに。
虎白さまは薄く笑って、キッパリと告げた。
「言わなくて良い。お前は藍猫を起こす気がないんだろう?」
「そうですけど……」
「なら、言わなくて良い。アピス国民は藍猫が藍の都で怒り狂っているのだと思っていれば良い。それで支障はない」
なぜだろう。
わたしは藍猫として、責任を負う覚悟を決めた。
名乗れば皆を落ち着かせられるかもしれないのに――彼はそれを望まない。
疑問は残ったけど、深く考えないことにした。
虎白さまがそう言うなら、それでいいのだろう。
彼はわたしたちを家の前まで連れ帰った後、「今晩もファイさんのレッスンに参加するように」。そう念を押してから、去っていった。




