第一章(5)
慌ただしいスケジュールをこなした頃には、辺りは真っ暗になっている。いつもお昼ごはんも食べずに駆け回っているから、お腹がペコペコだ。
クタクタの体を引きずって着替えを済ませ食卓に向かうと、珍しくわたし以外の人が席に着いていた。
「主教さま」
わたしの声に、その人が顔を上げる。彼はゆっくりと席を立つと、わたしの席を引き座るように促した。
「お疲れ様です、カノン」
「主教さまこそ、いつもご苦労さまです」
主教さまは席に戻ると、手元に置いてあったベルを鳴らす。召使いたちの足音が響き、いつものメニューが目の前に並べられた。
「どうですか。修道院も通い始めて一年になりますね。すっかり慣れましたか」
「はい、姉……いえ、シノンも居ますから、毎日が楽しいです」
「そうですか。それは良かった」
柔らかく微笑む主教さま。彼の笑顔は普段通りとても優しいのだけど、わたしは内心とてもドキドキしていた。
主教さまがわたしと同じ食卓に着くことは滅多にない。ふた月に一回か二回。年に十回もないくらい。しかもその内の半分くらいは、何かしらのお小言が発せられる。
今回もなにか変なことをしでかしたかしら、とわたしはここ数日の記憶を引っ張り出して首を捻った。
「聞きましたよ。あなたは成績が優秀で、今期の進級試験では一番の成績だったそうですね」
「は、はい。そうみたいです」
「素晴らしいことです。流石は私たちの白子。藍猫さまもお喜びになっていますよ」
「はい。そうだと嬉しいです」
なんだ、そのことか。わたしはホッと胸をなでおろす。修道院に通う前は個人教師についてもらって勉強をしていたのだけど、その時も一年に一度くらいはお褒めの言葉を掛けてもらった気がする。今回はそのために食卓へ着かれたのね。
わたしはそう合点して、ようやく目の前の食事を味わう気分になった。
「修道院の食事はどうですか、美味しいですか」
「えっ……」
すっかり油断をしていたわたしは、主教からから発せられた言葉に、食べかけの黒パンをポロリと取り落としてしまう。
「どうしてそんなことを聞かれるのでしょう」
「いえ、少し小耳に挟んだのです。あなたが修道院の食事をとても気に入っているらしいと」
わたしは目まぐるしく頭を回転させていた。主教さまはどこからそんな話を聞いたのかしら。修道院からかしら、それともばあやからかしら。
「えっと、その……。美味しいです。パンもフワフワですし、食べたことのない食材とかも色々と食べられて新鮮で……」
わたしは正直に答えた。嘘をついても主教さまにはすぐにバレてしまう。主教さまはわたしが嘘をつくことを一番に嫌う。主教さまに悪い印象を持たれてしまうと、わたしの限られた自由はすぐに不自由へと変えられてしまうから、受け答えは慎重にしないといけない。
「そうですね、とても美味しいですよね。修道院の食事は、サナトリム本家が監修していますから、きっと素晴らしいものでしょう。ラグがよく自慢していますよ」
「そうなんですね……」
ラグとは、確かリリムのお父さまだ。リリムの生家、サナトリムの本家はアピスヘイルの交易を取り仕切る一族で、世の中の美味しい物や贅沢品の全てを知っている人達だと聞かされている。
サナトリムの分家に嫁入りしたばあやは本家のことをあまり好ましく思ってないみたいで、いつも悪口ばかり言っている。なのでわたしも彼らには良い印象がない。
しばらく主教さまはラグさんから聞かされたらしい贅沢品の話を続けた。わたしはなんと相槌を打って良いかわからず、ただ曖昧な笑顔で頷いていた。
「美味しいものを知るということは、悪いことではありません。藍猫さまは美しいものを好まれる。五の戒『賛美』には神民は美を愛すべしと書かれている。美食が美しいものに含まれるかは議論されるところですが、わたしは含まれても良いと考えています」
意外な話の展開に、わたしは微かな期待を込めて主教さまを見つめる。彼はわたしの反応を予見していたかのように、ふふと小さな笑い声を上げてこちらを見つめ返した。
「白いパンはそんなに美味しいですか、カノン」
「お、美味しいです……わたし、なにより白いパンが大好きで……毎日だって食べたいと思っています……」
バクバクと鳴る心臓を抑えながら、わたしはとぎれとぎれにそう言った。
一年前、修道院に行きたいかと問われたときもこんな感じだった。素直な気持ちを吐露したら、主教さまは入学試験を受けることを認めてくださった。
もしかして今回は、食事内容の変更に応じてくれるつもりでこのような話題を振ってくださったのかもしれない。わたしはさらに期待の気持ちを込めて主教さまを見つめたけど、返ってきたのは期待とは違う憐憫の視線だった。
まずい、と思ったときには後の祭り。
「カノン。素直なことはいいことです。三の戒『天真』にはこうあります。神民は天から与えられたままであれ。偽りを纏うべからず……」
「はい……」
「天真というのは、勘違いしている方も多いのですが、偽らなければ良いというものではありません。偽りない気持ちで八戒に準じることのできる清らかな魂を、藍猫さまが望んでいると言うことなのですよ」
「はい…………」
「美を尊ぶことは良いことです。しかし、我欲の赴くままにそれを求めることは良くないことです。あなたに求められていることは、美を尊重することであり、身の丈以上に求めることではない。おわかりですね?」
「はい。もちろんです」
「あなたは目の前のこの食事を心から愛さなければなりません。愛すべき神民たちと同じ食事を、心から望むのです。それが藍猫さまが求める『天真』です。よろしいですね?」
「はい。わかりました……」
「わかっていただけて安心しました」
主教さまはわたしと同じ内容の食事を、とても上品なこなしで召し上がり、コトリとスプーンを置かれた。食後の祈りを済ませると、わたしの完食を待たずに席を立つ。
「申し訳ありません。私はこれで失礼します。なにか困ったことがあればいつでもミリアにお申し付けくださいね」
ミリアというのはばあやのことだ。やっぱりばあやが告げ口したのねと思いながら、わたしはペコリとお辞儀を返した。
わたしは溜息に溺れながらも、前向きに考える。最悪の事態は免れたのだから良いじゃない。やっぱり悪い影響しか及ぼさないから、修道院に通うことは許しません、などと言われてしまう恐れもあったのだ。とりあえず、来期も修道院に通うのを許されたみたいだから良かった。
わたしは、再び溜息をこぼした。修道院に通えるのは嬉しいんだけど、明日から昼餉のメニューを考え直さないといけない。
「白いパンは一つだけ、かなぁ……」
それもこれも、八戒を守るため。藍猫さまにお仕えするに相応しい、清らかな魂となるため。仕方がないことなのだ。