第十二章(5)
こうして長い長い夜が明け、朝日が山の向こうに見え始めた頃。わたしたちの眼前に、大きな都が姿を現した。
「見えてきましたよ! あれがハクトです」
ずっと右手に流れていた大河が、いつの間にか幅が広がり海のようになっている。赤っぽい石ばかりが目立つ痩せた土地に、突然生えてきたような白い建物群。大きく円弧を描くような美しい形の河岸に、ぎっしりと敷き詰められた白壁、何本もの桟橋と、無数の船が見える。
それは道中ウィスさんが語ってくれた通りの光景で、わたしはただただ息を飲み、感動に目を輝かせた。
ハクトという都は、内なる海に競り出すように作られていた。レンガとは違う白いざらざらした石のようなもので作られた四角い建物が、山の中腹から海岸まで埋め尽くされていて、アピスヘイルよりも人口が多そうに思える。
馬車は小さな関所を通り抜け、広々とした港に入り込んだ。アピスヘイルの港の数倍はある、活気のある港。大小様々な帆船が桟橋に並んで停泊していて、白いベストを着た体格の良い男の人たちが、早朝だというのに忙しそうに船に荷物を積み込んでいる。
「到着です。お疲れさまでした」
ウィスさんは港の奥にあった馬屋の前に馬車を止め、白い歯を見せながらそう言った。わたしはお礼を言って荷台を降りる。少し前からソフィアも目が覚めていたので、ゆっくりと地面に下ろしてあげた。
「馬車を返してきます。少しだけお待ちくださいね」
馬車を連れてウィスさんが立ち去ったので、わたしたちはぽつりと港の端に取り残された。
「いい匂いがする」
「そうだね。魚が焼ける匂いかな」
「さかな?」
「ソフィアはお魚を食べたことがないの? ハルムにはあまり居ないのかな」
近くの通りから、とてもいい香りが漂ってくる。ソフィアはよだれを垂らさん勢いでその方向を眺めていた。彼女は丸一日食事を摂っていない。ソフィアは普通の白子なのだから、お腹がすくのは当然だ。
わたしはお店のほうに数歩近付き、書いてある文字を見る。ナギの串焼き、一シウス。わたしは懐から銅貨を一枚取り出し、ソフィアに握らせた。
「一緒に買いに行こう。きっと美味しいお魚だよ」
「うん!」
彼女は興奮した様子で、わたしの手を引っ張って店のほうに駆け出す。ルカさんにちょっと待っていてくださいとお願いして、わたしは彼女の後を付いていった。
お店は開店したばかりのようでまだ商品の用意が出来ていなかったけど、店員のお姉さんは快く一枚の切り身を焼いてくれる。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
一シウスをお姉さんの手袋に乗せて、串を受けとるソフィア。気にするようにこちらをちらりと見たけど、わたしがにこりと微笑むと同時に勢いよく魚にかぶりつき、一瞬にして食べ尽くしてしまった。
「変わった服を着ているのね。どこから来たの?」
「えっと……」
明るく問いかけてきたお姉さん。わたしが答えを躊躇していると、あははと笑ってこう言った。
「大丈夫よ。ハクトは色んな国から訳アリの人が逃げてくるんだから。ちっちゃいお嬢ちゃんはハルムで、おっきいお嬢ちゃんはアピスかしら。きっとそうね」
「どうしてわかるんですか?」
わたしが驚いて尋ねると、お姉さんはさらに笑い声を上げて答える。
「服装でわかるのよ。ハルムは麻素材のシンプルな服が主流だわ。アピスはそのニットが特徴ね。羊毛の服を好んで着ているイメージが強いのよ」
「そうなんですか……」
「ハクトにしばらく滞在すると、三通りの服のどれかに収束するんだけどね。フリンジ風か、サイグラム風か、カミノタミ風か」
「えっ……」
「私の服は、サイグラム風よ。一般人にはサイグラム風の人が多いわね。ボタンが多くて面倒だけど、デザインが豊富で素敵よ。オススメするわ」
「あ、ありがとうございます……」
遠くから名前が呼ばれたので、わたしは店員さんにお礼を言って港に戻る。戻ってきていたウィスさんが、未だに串をしゃぶっているソフィアを見て頭を下げた。
「す、すみません。空腹でしたよね。つい忘れてしまっていて……僕の家で食事を用意させています。行きましょう」
食事という単語にソフィアは反応し、わたしの手を引いて歩き出す。わたしたちはウィスさんの後に続き、大通りに足を踏み出した。
なるほど。三種類の服装ってこのことね。わたしは通りを歩く人を眺めながら心の中で頷いた。
キメ細やかな刺繍の入った一枚の織物を被るように着ている人。ボタンの付いたシンプルなシャツとスラックスを着ている人。前で交差させた服にヒダのあるキュロットを合わせている人。大体そんな感じの服装の人が通りには行き交っていた。
その三つのうち二つが混ざったような服の人もいる。お姉さんが言っていた"サイグラム風"はアピスヘイルの服に似ているような気がした。
「なあ、カノン……」
「なんですか? ルカさん」
「気付いてるか? この街、本当に白子が普通に歩いてるぞ……」
「えっ、本当ですか?」
わたしはすぐそばを歩いている三人組の髪の毛に目を向ける。三人はお揃いの白いエプロンをつけた、三十代くらいの女性だった。三人とも、長い髪の毛を綺麗に編み上げていたのだけど、そのうちひとりの髪の色は見事なまでの銀髪だった。
「本当だ……」
「一割、いや、さすがにもうちょっと少ないか……」
「それにしても多いですね。まさか世界に白子がこんなにたくさんいるなんて」
本当に信じられない。アピスヘイルでは、十八年に二人しか生まれないと信じていたのに、世界にはたくさんの白子が生まれている。しかもどの白子も普通の人と同じような格好をし、普通の人と同じように忙しく働いている。特別視されている人なんてどこにもいそうになかった。
「夢のような場所です」
「こんな国があるなんて、もっと前に知っていたら……」
ルカさんは悔しそうに歯噛みする。
そう。もしハクトのことを知っていたら、あの時ルカさんは違うことを言ったのかもしれない。
『抜け出してどうするんだ。一体どこへ行って、どうやって暮らすんだ』ーー。
もしあの時にハクトの存在を知っていたなら、ルカさんはわたしの脱獄案を受け入れていたのかもしれない。そしてわたし自身も、国を逃げ出そうなどと夢想していたのかもしれない。あの時に知っていたなら、違った選択肢がとれていたのかもしれないのに……。
いくつかの通りを抜けて、閑静な住宅地に入る。ウィスさんはその中の、小さな家の前で足を止めた。
「ここが僕の家です。ちょっと待ってくださいね」
ウィスさんはそう断ってから、階段を昇り扉を開ける。
「アイシャ! 帰ったよ。アイシャー!」
その声に答えるようにパタパタと足音が響き、ひとりの女性が顔を出した。
「お帰りなさい。予定通りでしたね。お疲れさまでした」
「お客様だよ。食事の用意はできているかな?」
「はい。もちろんです」
アイシャと呼ばれた女性は、柔らかな笑顔をこちらに向ける。どこかウィスさんと似た、安心感の湧く素敵な笑顔。髪の色が薄く、ほぼ銀髪と言っても良いくらいのアイボリー色。もしかしたら彼女は、ウィスさんと一緒にハクトへ来た、翠の家出身の人なのかもしれない。
わたしたちは狭い玄関を抜けて小さなダイニングに入る。そこには、二人がけの小さな食卓があった。食卓には二人分の食器が並んでいて、炊事場からは焼きたてのパンの匂いがした。
「ごめんなさい。お客さまは二人だと聞いていたから……」
「俺は食べないから、ふたりで食えよ」
ルカさんはわたしとソフィアを交互に見る。
「わたしもそんなにお腹は……」
ルカさんに倣って辞退しようとしたわたしだけど、石窯から出てきた美味しそうなパンについ口の中に唾液が込み上げてくる。
お腹はすいていないけど、パンなら美味しく食べれるかもしれない。折角用意してもらったのだし、わたしはソフィアと共にご厚意に甘えることにした。
「とても美味しかったです。ご馳走さまでした」
「ごちそうさまでした!」
結局出された料理を全て平らげて、わたしは久しぶりに満腹感を覚える。お腹がすかなくても、味覚は元のままで、一度に食べることができる量も変わらないようだった。
次にアイシャさんはわたしたちに着替えを用意してくれて、わたしとルカさんは"フリンジ風"と呼ばれる独特の衣装を身にまとうことになった。
「それは私がフリンジヘイルにいたときに着ていたものですよ。ちょっと大きいけど、少し直せば大丈夫そうですね」
アイシャさんは器用に針と糸を使ってスカートの裾上げをしてくれて、フリンジ風の可愛いワンピースはわたしぴったりのものとなった。
「こちらの服は、洗濯してお返ししますね」
「は、はい。ありがとうございます」
彼女は小汚ないアピスヘイルの正装を抱えて、奥の部屋へと消えていく。
わたしが持ってきた持ち物や、例のナイフが仕込んである太もものベルトはちゃんと身に着けたままなので、正装はもう捨ててもらっても良かったのだけど……まあいいか。
入れ違いでやってきたウィスさんが、二階で着替えをしていたルカさんを迎えに行く。わたしは彼の姿を見て吹き出してしまった。
「笑うなよ……」
「だってルカさん、ブカブカじゃないですか」
「すみません、僕のお古なんです。やっぱり大きすぎましたね……」
ウィスさんは慌ててアイシャさんを呼びに行き、アイシャさんは手早く服のお直しをした。
ルカさんの服は、濃い緑のわたしの服とは違い、薄い緑の布地だった。半分だけ縦縞模様なのは同じで、膝くらいまである丈の服の下に、黒いスキニーパンツを穿いている。
お直しをした後も若干ダボついて見えたけど、元々そういうデザインなのかもしれない。
「お二人とも、とても似合いますよ! 若い頃の僕たちみたいです」
「あ、ありがとうございます……」
なんだかそう言われると照れるわ。ルカさんも居心地の悪そうに顔を伏せている。
「ソフィアちゃんの服は用意していなくてごめんなさい。明日には必ず手に入れておきますから」
とびきりの可愛い服をね、とアイシャさんがウインクすると、ソフィアは小さく跳ねて喜んだ。
わたしたちは二階の一室に滞在するように言われ、狭い部屋のベッドに腰掛けて、窓から外を眺める。いつの間にか日は高く昇り、目の前の細い通りにはさらに人通りが増えていた。
暇なので、通った白子の数を数える。ひとり、ふたり、さんにん……。十人くらいまで数えたところで、階下から声が掛かる。お昼ごはんを食べませんかと。
嬉々として階段を駆け降りるソフィアにわたしは付いていったけど、ルカさんはベッドから降りる気はなさそうだった。
食卓には先ほどと似たような美味しそうな料理が並んでいたけど、わたしはお腹がすいていなかったので少しも口に運ぶことができなかった。
「詳しい事情はまだ知らないのですが、おふたりはもう神樹の実を召し上がっているのですか?」
食欲がなさそうなわたしを見て、ウィスさんはそんなことを訊ねてくる。
「神樹の実?」
「はい。向こうに見える、あの山のようなもの……わかりますか? あれは神樹と言います」
わたしは彼が指差す方向を眺めた。白い建物群の隙間から、いびつな山が頭を出しているのが見える。
「樹なんですか? 山にしては変な形と思っていましたが、樹にしても変な形ですね。どうして平らなんでしょう」
「枯れているからですよ。幹の中途で折れて倒れてしまっているのです」
なるほど。そう説明されたら、倒壊した樹のように見えなくもないと思った。
「あの樹には実が成るんですか?」
「はい。手のひらくらいの、くびれのある変わった形の実が成ります。透明で、非常に美しい実です」
「その実を食べるとどうなっちゃうんですか?」
「司彩に憑かれた白子と同じような状態になりますよ。老いない、病のない体になります」
「ええっ?!」
わたしはガタッと音を立てて立ちあがってしまい、驚いた顔のソフィアに謝ってから席に座り直す。
「それは、お腹がすかなかったり眠たくならなかったりもするんですか?」
「はい。しかし、その体で居続けるには神樹の実を食べ続けなければなりません。普通の食事をしたり実を摂らない期間が長くなると、徐々に効果を失っていきます」
「ウィスさんもその実を食べているんですか?」
「僕は食べません。スイさまに頼まれたときはひとかじりくらいはしますが……ひどく不味いんですよ。あれは人間の食べるものではありません」
「不味いんですか……」
「ええ。不味いです。それに僕は食べたくないんです。あれを食べると老化が止まります。僕はアイシャと一緒に歳を取りたいですから、食べたくないんです」
炊事場で食器を洗っていたアイシャさんが、照れたようにクスリと笑った。
わたしは首を捻る。そんな実があるのなら、一緒に食べて一緒に若さを保てばいいのに。そういう選択肢はないのかしら。わたしが素直にそう訊ねると、ウィスさんは困った顔をして言った。
「そうもいかないんです。実は貴重なもので、僕のような能力のない白子が食べるほど有り余っているわけでもない。それにアイシャは白子ではありませんから、実を食べることすらできません」
「食べることができない?」
「神樹の実は、白子にしか食べることができないんです。普通の人間には不味すぎて、口に含むことすらできないようです」
聞いたことのない食べ物だ。そんな食べ物がこの世にあるなんて……。
「神樹の実を食べているのは、虎白王とその側近の方だけです。誰も好き好んであの実を食べ続けたいとは言いません。普通の白子は美味しいものを食べたいし、ベッドでゆっくり眠りたいんですよ。例え老けて病に苦しめられたとしても」
「…………」
「側近の方々も、徹底して実を食べ続けている人はほとんどいないでしょう。彼らはすっかり年老いてしまっています。いったい何歳なのかはわからないですけど……。実を食べ続けているのは虎白さまだけでしょうね」
「虎白さまは、おいくつなんですか?」
「さあ……確か実年齢は五十とか六十とか、そのくらいだと聞いたことがあります。虎白さまは物心付いた頃から神樹の実だけを食べ続け、今に至るそうです。見た目は二十代後半くらいで、信じられないくらいお若い姿ですよ」
「そうなんですか……」
スイさんが言っていた、″色々な白子がいる″というのはこのことだったんだろうか。実を食べたら司彩さまと同じようになれるなんて、白子とは不思議な生き物だ。
わたしはふと考えた。もしかして、ルカさんは神樹の実を食べたからあのような体質だったのかしら。司彩さまが憑いていなくとも神さまのような体質になれるのなら、ルカさんの状態は特別におかしなことでもない。
「神樹の実?」
「はい。透明で、くびれのある実だそうです。すごく不味いらしいですが……ルカさんは食べたことありますか?」
「記憶にはないが……」
わたしは階下で聞いた話をルカさんにした。ルカさんは考え込むように腕を組み、しばらくして口を開く。
「記憶にはないが、もしかしたらそうなのかもしれない。気が付かないうちに食べたのかも……」
「気が付かないうちにって、そんなことあり得ます?」
「俺はあまり自分の記憶に自信がない……。ここ数年は特に、何をやっていたんだかあまりはっきりと覚えてないんだ」
緩くかぶりを振るルカさん。確かに今思えば、初めて会ったときの彼は錯乱していたようにも思える。
「そうなんですね……でも良かったじゃないですか。ルカさんの体質は別に特別なものじゃなかったみたいで」
「そうだな。これからその不味い実ってのを食べないようにしたら元に戻るのかもしれねぇな」
「ルカさんには司彩は憑いていないですから、元に戻れるかもしれませんね」
「…………」
「ルカさんは元に戻れる……」
いけない。わたしはつい嫉妬が表に出そうになって慌ててしまった。
司彩が入ってしまったわたしは、多分元に戻れない。戻る方法は見当もつかない……。既に顔に出てしまっていたのだろう。ルカさんは神妙な顔をしてわたしに向き直り、こう答える。
「大丈夫だ。お前も戻れる。お前が戻るまで俺も付き合うよ」
「でも、ルカさん……。この国では白子は普通に暮らせます。普通に仕事をして、普通に家を持って……」
「お前も普通に暮らすんだよ! 大丈夫だ。元に戻れる方法を誰かが知ってるさ」
「……そう、ですね……」
「落ち着いたら、虎白ってやつに会いに行こう。一番詳しいって言ってたじゃねぇか」
ルカさんはそれからも、あれをしようこれをしようと前向きな提案をしてくれた。わたしはありがたいと思っていたけど、それよりも急激な疲労感に苛まれて、胸が苦しくなってしまう。
「ごめんなさい、ルカさん。わたし、少し疲れてしまって。食べ物を食べたからでしょうか、ちょっとだけ眠たくもなっています」
「そっか。すまん……」
ルカさんはそう言って、慌てたようにベッドから立ち上がった。
「俺はウィスと話してくるから、少し横になってろよ。ソフィアも下でしばらく遊ぶように言っておく」
「ありがとうございます」
コツコツと階段を降りていく音を聴きながら、わたしはため息を付いた。なんだか急に、何も考えたくない気分になった。色々あったから、流石に疲れたのかな。
靴を脱ぎ、ベッドに潜り込んで目を閉じる。久々に安らいだ気持ちを感じてゆっくりと息を吐いた。
長い長い一日だった。前にベッドに入ったのは、一体いつのことだったっけ。急激な眠気に引っ張られたわたしが、夢の世界に入り込むのはほんの一瞬の出来事であった。




