第十章(3)
百合が咲き乱れる洞の奥へ、エリファレットさまは進んでいく。百合は延々と咲き続け、あたりはむっとするほど甘い匂いに包まれていた。
地面には浅く水が張っていたけど、不思議と靴は濡れない。ただ、ぴちゃぴちゃと心地よい音だけが鳴り響き、あたりに反響している。
今、わたしは木の内部を歩いているのかしら。とても大きな樹だったから、洞もとても広い。凸凹とした足元や、突然突き出してくるツタなどの障害物はあるけれど、常に背筋を伸ばして歩けるほどの高さがあった。
大教会の長塔の抜け道を思わせるような、ゆるやかに螺旋を描いて下へ下へと潜っていく道を、わたしたちは進む。ふわふわと軽やかな足取りのエリファレットさまに付いていくのは、とても大変だった。
しばらく歩いているうちに、わたしの耳に不思議な音が飛び込んでくる。
なんだろう。
耳を澄ませていると、前を歩くエリファレットさまがくすりと笑って言った。
「サイカが聞こえてくるわね」
「サイカ……ですか?」
「ええ。サイカ。私たちの仲間の、可愛い子供たちが歌っているのよ」
よくわからないけれど、サイカというのは何かの歌を指しているのだろう。そして歌っているのは、他の神官さまたちなのだと思われる。
「綺麗な声ですね」
「ええ。彼らは仲間の中でも、特別綺麗な声を持つ子たちなの。サイカにはメロディはないけれど、あったほうが絶対にいいと思うわ。それがとても残念で……あなたもそう思うでしょう?」
同意を求められても、言われていることがわたしにはよくわからない。とりあえず曖昧に微笑んで、お茶を濁しておいた。
遠く離れた声だから仔細までは聞き取れないけれど、非常に洗練された歌声なのはわかる。まったく揺れのない和音は、まるで楽器を鳴らしているようだった。
もしかして、歌が上手かったら、このサイカの部隊に配属されるのかしら。この部隊が、重臣と言われる神官さまたちなのかな。
サイカの歌声を背景に、わたしたちはさらに奥へと進んでいく。外の光はほとんど入ってこないから、真っ暗になってもおかしくないのに、あたりはいつまでもぼんやりと明るかった。木に生えている小さな植物や百合が、仄かに輝いているからだろう。
とても幻想的な光景だったので、わたしはこのひたすら静かで長い道のりも、さほど退屈には感じなかった。
サイカの歌声が遠くなり、再びぴちゃぴちゃと水音しかしなくなったころ、エリファレットさまが立ち止まる。彼女は足元の百合に埋もれている何かに気を取られているようだった。
「あら。そうだわ。そろそろこれが必要よね。カノンちゃんはまだお仲間じゃないんだもの」
そう呟いて、彼女は足元の何かを拾い上げる。覗き込むと、見覚えのある形が目に飛び込んできて、わたしはぎょっとした。
「はい、これ。着けたほうがいいわ。花の毒に当てられてしまうから」
「え、これ……」
「黒猫のマスクよ。口元に毒気を消すハーブが入っているわ。きっと息苦しさもなくなるから」
毒?
わたしはぎょっとする。もしかして、さっきから少し息苦しいと感じていたのは、そのせい?
わたしは彼女の手から黒猫のマスクを受け取る。見覚えのあるこのマスクは、アピスの葬儀屋である黒猫たちが身に着けていたものと同じだった。
遺体の回収に向かうクミンさんが、別れの前に着けていたもの。鼻から首元にかけてすっぽり覆うマスクと、目元を覆う黒猫の仮面が一体になったものだ。
「ごめんなさいね。ここから先は、とっても神聖な場所なのよ。だから藍猫さま以外の生き物には入ってほしくなくて。毒を出す植物ばかりを選んで植えているの」
死水の毒を濃くしただけのものだけど、と彼女は付け足した。
わたしはマスクを装着する。初めは古い革の匂いにむせて、かえって息苦しくなったけれど、ハーブの香りが漂ってくるにつれ、次第に呼吸が楽になっていく。その香りは、シロマツリの花に似た芳香だった。
すごいマスクだと思ったけれど、感心するより前に疑問が浮かぶ。
このマスク、どうしてこんなところにあるの?
もしかして黒猫という職業は、アピスの儀式や祭りのように、藍猫さまの指示で作られたものなのかしら。それならこのマスクだって、藍都にあってもおかしくはないと思うけれど……。
周囲に目を凝らすと、このマスクの残骸のようなものが、そこかしこに転がっていた。中にはまだ使えそうなものもあったが、ほとんどは破れたり、目の部分のガラスが割れたりして使い物にならない状態だった。
たまたま使えるものが残っていたからよかったけれど、残っていなかったらどうするつもりだったのかしら。
疑問には思ったけれど、そんなことを質問できるような雰囲気ではない。今のわたしにできるのは、鼻歌でも歌い出しそうなエリファレットさまに、ただ付いていくだけだ。余計なことをして、さらにアリアトの評価を下げるわけにはいかないもの。
ラウドさまは、わたしを監視するように背後から鋭い視線を投げかけていた。
いけない、少し遅れてしまったわ。
わたしは早足で、エリファレットさまの背中を追った。
周囲の百合は、いつの間にか白いものが減り、青白い光を放つものが増えていた。次第にその光は青みを増していき、藍猫さまの青――深い青を思わせる藍色の光が、周囲を満たしていく。
美しい光景だったけれど、同時にわたしの本能が告げてくる。
これは危険な色である、と。
おそらく毒を発しているのは、この光を放つ花なのだろう。
「もうじきよ。もうすぐ藍猫様のもとに着くわ」
エリファレットさまの声に、わたしの心臓は飛び跳ねる。
もうすぐ、藍猫さまにお会いできる……。
ごくりと喉を鳴らすわたし。周囲は、かつてないほどの藍に満たされていた。
葉も茎も青に染まった百合の束をかき分け、細くまっすぐな通路を進んだ先に広がっていたのは――何とも奇妙な空間だった。
木の……根かしら。
そこはそれほど広くない空間で、太い木の根のようなものに周囲を覆われていた。足元には、蜘蛛の巣のような粘り気のある何かが、網のように張り巡らされていて、足場の代わりになっている。
網の下は透けて見えていたが、根が器のように丸く集まっているばかりで、特に目を引くものはない。
目に付くものといえば、網の足場の向こうにある、光り輝く球体だった。
その空間の中央には、まるで大きな木のように根の一部が集まり、中央にある球体に絡みついている。
その球体の光は白かった。
――いいえ、きっともともとは青いのだけれど、光が強すぎて、わたしの目には白く見えてしまうのだわ。球体から遠ざかるにつれて光は青に変わっていたから、きっとそうなのだと思う。
「カノンちゃん、ここでマスクを取りなさい」
エリファレットさまにそう言われて、わたしは立ち止まる。
マスクを取る?
ここには百合は咲いていないから、毒は大丈夫ということなのかしら。
わたしは深く考えずに、黒猫のマスクを外した。
むっと香る甘い匂い。
舌がぴりついてくる。
でも、大丈夫なのよね。この香りは毒じゃないのよね?
不安に満ちた目で見上げると、エリファレットさまはにこりと微笑んだ。そしてわたしからマスクを奪い取り、入り口の方へ投げ捨てる。
「ようこそ、人形の間に。カノンちゃん」
エリファレットさまはわたしの手を取り、笑いながら網の上を駆け出した。
「うふふ、ねえみんな、新しい子よ! 可愛いでしょう。彼女はね、自分から私たちの仲間になるって言ったのよ。すごいでしょう、うふふ」
彼女は子供のように無邪気に笑いながら、わたしを連れて光の球体の周りを駆け回った。
一体、誰に話しているんだろう。
初めのうちはわからなかったわたしだったけれど、すぐに理解する。
球体を囲む根が発する、蜘蛛の巣のような粘ついた糸。それは何か大きな物体を、いくつも絡め取っていた。
その正体に気づいて、わたしは悲鳴を上げそうになる。
――人だ。
網の中心には、たくさんの人が膝を抱えて座っている。誰もがぴくりとも動かず、ただ顔を伏せている。
エリファレットさまが無茶苦茶に振り回すものだから、わたしは足が絡まって転んだ。柔らかな網が体を受け止めてくれたので、痛みは感じない。
エリファレットさまが驚いた顔でこちらを見ている。
いけない。
わたしは身を起こそうとしたけれど、なぜだか力が入らなくて、どうにか座り込む体勢に戻すのが精一杯だった。
「あら。もう立てなくなっちゃったのかしら」
もう?
もうって、どういうことなの。
尋ねようとしたけれど、声が出ない。
どうしたんだろう。藍猫さまにご挨拶をしないといけないのに。
わたしの身に起こった異変を、さも当然のことのように眺めながら、エリファレットさまはなおも無邪気に言った。
「見て、カノンちゃん。あなたの先輩たち、こんなにたくさんいるのよ。あなたの晴れの舞台を見守ってくれるわ。誰か、話したい子はいるかしら」
先輩たち?
どういうことだろう。
わたしは膝を抱える人たちを観察した。ボロボロの服を着た女の子、鎧を着た男の人、綺麗なドレスを着た人や、わたしと同じ正装をした人もいる。
どの人も顔は見えないけれど、髪は白く、肌の色がひどく青ざめている。青い光に照らされているとはいえ、その色は生きている人のものではありえない。
みんな、すでに亡くなっていることは明らかだった。
「そうねぇ。前のアリアトお兄様のほうの白子さんなんてどうかしら。サリーちゃんって言ったかな」
エリファレットさまはそう呟き、網に絡まった人たちを見て回る。そして一人の少女のもとで足を止め、その足元に跪いて、頬を優しく撫でた。
「――――――、――――――――」
何か呟いている。微かに聞こえたその言葉は、わたしの頭の中でぐちゃぐちゃになって消える。
それは紛れもなく、神さまの言葉だった。
彼女の声に応えるように、輝く球体は光を波打たせ、周囲は波紋のような濃淡に満たされる。
そして次の瞬間、驚くべきことが起こった。
目の前の少女が、がばっと勢いよく身を起こしたのだ。
「ごきげんよう、エリファレットさま!」
彼女は快活にそう言うと、まるで上から糸で吊られているかのような奇妙な動きで立ち上がった。
「起こしていただけて感激です! 私とお喋りしてくれるんですよね?」
「ううん、サリーちゃん。今日はね、新しい白子ちゃんが来てくれたのよ。あなたの次の、アリアト派の白子ちゃんよ」
「そうなんですね! わあ、嬉しいわ!」
サリーはどこか不自然な口調でエリファレットさまと語らったあと、カクカクとした動きでわたしの前にやってくる。
「コンニチハ! 私はサリー! あなたは? カノンちゃんていうの? よろしくね!」
彼女は無理やりわたしの右手を取り、ぶんぶんと振り回した。ひどく冷たい手に、わたしは体の芯からぞわりとした。
間近で見る彼女の顔は、地下に隠されていた肖像画にそっくりだった。けれど印象が大分違って見えるのは、その髪と瞳の色のせいだろう。
先ほどまで白かった彼女の髪は、エリファレットさまと同じように青銀に輝いていて、瞳の色も深い藍に染まっている。輝く髪と瞳のおかげか、青ざめていた肌にはわずかに張りが戻っていたけど、それでもやはり、生きている人とは思えない青白さのままだった。
「ごめんなさいね。サリーちゃんってどんな子だったか忘れちゃったの。お仲間がたくさんいるとね、どうしても新しい子の印象は残りづらくて……」
「全然いいんですよ! エリファレットさま! 私は起こしていただけただけでも嬉しいんです!」
「あら、そう。それなら良かったわ」
うふふ、と笑い合う二人は、まったく同じ笑い方で気味が悪い。まるで小さな子どものお人形遊びを見せられているような、そんな感覚にさらされた。
お人形……。
わたしは頭に浮かんできたその言葉に、寒気を覚える。
『ようこそ、人形の間に』――確かエリファレットさまはそう言ったわよね。
ここにいるのは全員白子だ。アピス建国から数えて、白子の審判は今回で六度目だから、アピスから旅立った白子は十人しかいないはず。このたくさんの白子は、どこから来たのだろう。
正体不明の白子たち。年齢も性別も様々な彼らは、みんな揃って仲良く、エリファレットさまの「お人形」となった。
これからわたしも、彼らの仲間になってしまうの?
ぺたりと座り込んだわたしの体は、痺れたように動かなかった。
逃げ出したいと思う気持ちと、白子の審判とやらを受けなければならないという気持ちが共存していて、頭の中は完全にパニックになっていた。
そんなわたしの葛藤に気づいたのか、エリファレットさまはお人形遊びをやめて、わたしの傍にやってくる。そして出会ったときから変わらない柔和な笑顔で、こう言った。
「カノンちゃん。言ったわよね。『なんでもする』って」
……。
答えることができないわたしを気遣うことなく、彼女は続ける。
「カノンちゃんは、白子の審判ってどんなものだと思っていた? 藍の都に送られてきたんだから、もうあの呪文の意味は理解しているわよね」
呪文の、意味……?
不安に揺らぐわたしの視線に、エリファレットさまはゆっくり頷いた。
「年四回、唱えるように指示してあるわよね。ちゃんと主教たちは従っている?」
年四回、唱える呪文と言えば――。
わたしの脳裏に、正礼拝の宣誓の詞が蘇る。わたしには意味が分からなかったけれど、ルカさんが翻訳してくれた。たしか、あの言葉の意味は――
「『あなたにこの心臓を捧げ、あなたの人形となることを誓います』」
無機質な声とともに、わたしの手元に何かが落ちてきた。
ぎらりと光ったその銀色の物体は、とても分かりやすく、エリファレットさまの意志をわたしに伝えてくれる。
短剣だ。
わたしに与えられたのは、ナイフより少し長いくらいの、小ぶりの短剣だった。
わたしは心底震え上がった。
ルカさんが教えてくれたあの言葉の意味。わたしは頑なに比喩だと言い張っていたけれど、あれは本当に、言葉通りの意味だったの?
そうであってほしくない。切実な思いでエリファレットさまを見上げたけれど、彼女は相変わらずの優しい微笑みで、こう宣告する。
「白子の審判よ、カノンちゃん。その短剣で心臓を突いて、暖かい血を藍猫様に捧げなさい。上手にできたら、あなたも私のお人形にしてあげる」
短剣で、心臓を?
はっきりと言葉にされてしまっては、もう逃げ場はなかった。わたしの体は大げさなほど震えだし、目の焦点が合わなくなる。
「大丈夫よ。怖くないわ。百合の毒はね、まず痛覚を取り払ってくれるんだから。大丈夫よ、そんなに痛くないわ」
彼女は大丈夫、大丈夫と、まるで見当違いのことを言って、わたしを励まし続ける。
大丈夫じゃない。
だって、サリーも、みんなも、死んでしまっているんでしょう?
魂が抜け落ちて、冷たくなってしまった体。さっきみたいにエリファレットさまが何か告げたら動き出すことができるようだけど……多分、あれはサリーが生き返ったんじゃない。
だって、「サリーがどんな子だったか忘れた」と言っていた。きっとサリーはあんな喋り方をしない。あれはエリファレットさまが、そう「喋らせている」だけなんだわ。
彼らの魂は、いったいどこに行ってしまったんだろう?
わたしは揺れる視界にエリファレットさまを収める。彼女の肌は白く透き通っているけれど、ちゃんと生きている人の色だ。
だけど、さっきまで一緒にいたラウドさま。彼の肌の色は青白かった。サリーほど真っ青ではないけれど、健康な男の人の肌の色とは思えなくて、少し変だと思っていた。
多分だけど、この藍の都で生きている人はエリファレットさまだけなんだ。
他の人はすべて、彼女が動かしている人形。
きっと藍猫さまにとって、エリファレットさまだけが本当の神官なんだ。
「どうしたの? 藍猫様を信仰しているのでしょう? 心臓を突いてみせて。私にあなたの暖かい血液を頂戴?」
エリファレットさまはわたしの頬を愛おしそうに撫で、流れるような動きで手元に転がる短剣を拾い、わたしに握らせる。
「早くしないと、腕に力が入らなくなっちゃうわよ? そうしたらあなたは失格。アリアトは王位を剥奪されて、アルベルトに繁栄を譲ることになるわ。あなたは私に心臓を突かれて、人形にもなれずにここで朽ち果てるのよ。それでもいいの?」
よくない。わたしは必死で首を振る。よくないけど、それしか選択肢はないの? 自分で心臓を突くか、彼女に殺されるか、どっちかしかないの?
わたしはパニックになりながらも、短剣を両手で握りしめた。
やるしかない。ここまで来てしまったのはわたし。逃げようと言ってくれたルカさんを拒否したのはわたし。わたしはもう、やるしかないの。
切っ先を胸の真ん中に向けながら、わたしは考えた。
百合の毒は痛覚を取り去ると言った。本当に痛くないのかもしれない。周りにいる白子たちは、一見死んでいるように見えるけど……どこかに魂だけ送られているのかもしれない。
そうよ、ここは藍の都。全ての死者が送られる場所。どこかに魂しか入れないところがあって、そこに死者の門がある。魂の審判をしている神官さまは、裁かれる人間たちと同様に、魂だけの存在なのかもしれない。
そうよ。きっとそう。チクッとするだけ。一瞬の出来事よ。
わたしはそう信じようとしたけど、切っ先はぷるぷると震えて、全く照準が合わない。
心臓以外を突いたら、痛いかもしれない。長く苦しむかもしれない。きっちり一回で心臓を突かなければ。
だけどわたしの手は全然言うことを聞かなくて、時間ばかりが過ぎ去った。
早くしないと。エリファレットさまが痺れを切らしてしまうかもしれない。
わたしは恐る恐る顔を上げた。藍色の瞳がこちらを見ているはずだと思っていたけど、わたしの視線は彼女とぶつからず、ただ彼女の横顔に突き刺さる。
「……?」
どうしたんだろう。エリファレットさまは、ぼんやりと入り口の方を見ていた。青い百合が折り重なる先に、何かがあるのかしら。
わたしもそちらに目を向けようとしたけど、視界の端で何かが動くのを感じて、逆方向に視線を移す。
一瞬の出来事だった。あまりに突然の出来事に、わたしの頭の処理は追い付かず、ただ目に入った景色を捉えるだけで精いっぱいだった。
目の前で、真っ赤な花が咲いた。生暖かいものが顔にかかって、わたしの視界は奪われる。
目を擦り、必死で視力を戻したわたしは、少し離れた場所でふたりの人物がもみ合いになっているのを見た。
一人は、黒い人物だった。見覚えのある形のフードを被り、黒いマントを付けた人が、エリファレットさまに馬乗りになっている。
彼女は何か音波を発した。それに合わせて光の球体が震え、地鳴りと共に周りの木の根の壁の隙間から青い液体があふれ出す。棘の形となった水が黒マントの人に襲い掛かったけど、その人に届く寸前で、ぱちんぱちんと割れていく。
黒マントの人は、手に握った光り輝く何かをエリファレットさまの胸に何度も突き立て、その度に彼女の悲鳴が響く。
彼女はぐったりとしていた。彼女が動かなくなったのを確認した後、黒マントの人は立ち上がり、光の球体の方に向き直る。
すると、球体が震えた。今までにないくらい激しく震えた。そして吐き出された幾つもの光体が、人形たちに吸い込まれていく。
勢いよく立ち上がる人形たち。彼らは黒マントの人に飛びかかって行き、その動きを止めようとした。
彼らは口々に怪音波を発していた。いいえ、音波と言うよりは和音なのかしら。上の方で聞いた歌声と似た、ぶれのない和音が発せられる。和音が響く度に球体は震え、根から染み出した水が黒マントに襲い掛かる。
わたしはその激しい攻防を、ただ茫然と見ていた。全く状況がわからない。黒マントの人は何者? エリファレットさまはどうして攻撃されたの?
わたしははっとして、静かになってしまった彼女に目をやる。エリファレットさまは、大量の血を網の下に滴らせて、苦しげに胸を上下させていた。
まだ息がある。わたしは動かない体を引きずり、彼女の元へと向かった。
なんだかわからないけど、彼女は藍猫さまの神官だ。彼女を死なせてはいけない。
「エ……ファ、レット、さま……」
なんとか声が出た。胸からも口からも血を流した彼女は、わたしの声に気づいていないのか、どこか虚空を見つめている。
「頭……あたらしい、あたま……」
生気のない顔でそう呟いた瞬間、彼女の体――心臓のあたりから、もくもくと青い煙が湧きだしてきた。煙は彼女の真上で雲のように集まり、膨れ上がりながら何かの形を取っていく。
それは巨大な猫だった。青い色をした、透明な猫。長い尻尾が二股に分かれている。
藍猫さまだ、と思った瞬間、猫はわたしに向かって飛びかかってきた。とっさに身を屈めると、何か熱いものが体を通り抜ける。
何? 何なの?
急速な疲労感に襲われ、目の前が暗くなる。力なく倒れたわたしの視界に、エリファレットさまの横顔が映った。
驚くことに、彼女の髪は白くなっていた。そして深い青だった瞳は、綺麗な緑色に変わっていた。
「ウド……ラウド、どこなの……」
彼女はか細い声でそう呟いた。
ラウドさま?
わたしは頭を動かし、彼の姿を探す。百合の入口の方から駆けてきた彼は、エリファレットさまをちらりとも見ずに通り過ぎ、黒マントの人物との戦いに加わった。
その姿に気づいたのだろう。エリファレットさまは、深く傷ついたような顔をして呟いた。
「そうよね、ラウドは……ずっと昔に、藍猫さまが……」
はらはらと涙がこぼれる。キラキラと輝く緑の瞳を閉じ、彼女は続けた。
「食べちゃったんだったわ……」
その声を最後に、彼女は動かなくなった。
どうしたらいいんだろう。わたしの体はほとんど動かず、視線を向けることしかできない。
エリファレットさまの死をきっかけに、球体は振動を止め、人形たちは力なく崩れ落ちていく。
その状況に驚いたのは、わたしだけではないらしい。黒マントの人物も、人形を足でつつきながら、しきりに首を傾げていた。
「なんだこれ。どうしちゃったの?」
意外なほど高く、幼い声だった。黒マントの人の声なのだろうか。まさか女の人?
わたしは必死で首を持ち上げ、その姿を見ようとする。
「まあいっか! 動かないんならそのほうがいーんだし」
女の人ではない? 声変わりしていない少年なのかもしれない。
その人は黒いフードに、わたしがさっきまで付けていた黒猫のマスクを被っていて、顔はまったく見えなかった。猫耳の付いたフードから覗く金色の髪と、仮面のガラス越しに見える赤い瞳だけが確認できる。
一体何者なの?
ぼんやり見つめていると、その人物はわたしに気づいたらしい。足元の人形を蹴飛ばしながら、こちらに近づいてくる。
「えーっと。状況がわかんないんだけど、なにこれ。藍猫はどうしちゃったの?」
怖い。この人は駄目だ、逃げないと。
そう直感したけれど、体が動かない。
「んー? 代替わりしたの? その割には人形動かないね? どういうことかな?」
何を言っているの、この人。
わたしは毒のせいなのか、何のせいなのか、まったく動けない。意識をつなぎとめるのがやっとで、とても答えられる状態ではなかった。
「もしかして、接続に失敗しちゃった? ありゃりゃ、こんなことってあるんだねぇ」
彼はケラケラと笑い、わたしのそばにしゃがみ込む。その言動は、育ちの悪い少年のような雰囲気を醸していた。女の人ではなさそうだと思った。
「へー。楔を壊しちゃおうと思ったけど、なんだか無理そうだし。しばらく観察してるのもいいかもねぇ。僕の可愛い蛹も、きっとそのほうが喜ぶだろうし……」
蛹?
虫でも飼っているのだろうか。この場にそぐわない言葉に、わたしは気味が悪くなる。
というか、この人はすべてが気味悪い。黒猫の格好も、喋り方も、声も、強烈な印象の赤い瞳も。
激しい眠気と闘いながら彼を睨んでいると、突然、ズズズと地鳴りがした。周囲の木の根の壁から、破裂音とともに水が流れ込んでくる。
「あれぇー? 崩れちゃうの。どうしよう、困っちゃうねぇ」
まったく困っていなさそうな暢気な声を聞きながら、わたしの意識は限界を迎えた。
このまま、わたしはここで溺れ死ぬのかしら。白子の審判は無茶苦茶になってしまったけれど、アピスは大丈夫なのかしら。
快活な笑い声が響く。どうして笑っているの? 何が面白いっていうのよ。
その少年の笑い声を聞きながら、なんだかすべてがどうでもよくなって、わたしは意識を手放した。
次に目が覚めた時、すべてが夢だったと思えますように。ちょっとした悪夢を見ただけだと、安堵の息を吐けますように。
そう願いながら、わたしの意識は、深い深い海の底へ沈んでいった。




