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衰退世界の人形劇  作者: 小柚
中巻

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第十章(2)

 そんなわたしが目を覚ましたのは、ガツンという船がぶつかる大きな音。直後に襲った激しい揺れに、わたしは慌てて上体を起こす。

「????」

 寝ぼけていたわたしは、周りの状況がすぐには掴めない。再度船が揺れ、バラバラと音を立てて転がってくる器や宝飾品の数々に襲われて、やっと意識がはっきりし始めた。

「あれ? ここはどこ? 藍の都に着いたんですか?」

 船がぶつかっていたのは、岸壁だった。わたしたちの船はなにやら洞窟のようなところに吸い込まれていたらしい。背後から差し込む光が当たる部分を除いて、辺りは岩に囲まれて薄暗い。

 船はなおも波に揺られてガツンガツンと船体をぶつけ、バラバラと貢物が転がっていく。

「あああ、駄目! 海に落ちちゃう! もう、どうしてこんなにぐちゃぐちゃになっているんですか!」

 わたしは叫び、足元の物品を拾い集めようとした。だけどもはや収拾がつかない。木箱は倒れ破損し、中身はぶちまけられて絡み合っている。

「ルカさ――ん! 手伝ってください! ルカさ―――ん」

 波に翻弄されながらわたしは叫んだけど、答えてくれたのはゴンゴンと外から船を打つ異音。洞窟内にはなにやら木屑やゴミがたくさん浮かんでいて、わたしの船と一緒に波に揺られていた。

「ルカさん?」

 わたしはもう一度呼ぶ。ゴロゴロと転がる銀の器。ザザンと岸に打ち付ける波音。人の声は聞こえない。

「ルカさん……」

 わたしは目を凝らしてその姿を探す。そんなに大きくない船だから、隠れる場所なんて全くないのに姿が見えない。いるはずもないことは解っていながらも、転がった箱の影や中、絹織物の裏まで隈なく探す。当然見つかるはずもない。

 わたしは頭が真っ白になった。続いてぞわぞわと悪寒が這い上ってくる。

 そんなはずがないわ。ルカさん、隠れているだけよね。そうだわ、ひとりで上陸してしまったのかもしれない。わたしを驚かそうとして、ふざけているのよ、きっと。

 わたしは荒れる船上から岸壁に這い上がって、洞窟内をうろうろとする。広い洞窟内は障害物もほとんどなくがらんとしており、海ばかりがゴミの山に汚されていた。しばらく辺りに目を凝らしてみたけど、人影らしきものは全く見当たらない。わたしは船の前に戻り、呆然と佇む。

 ルカさん、一体どこへ行っちゃったんだろう。ここでようやくわたしは、ルカさんが眠らない体質だということを思い出した。

 わたしが眠りこけた後、ルカさんは大いに暇を持て余したに違いない。そのたくさんある時間で、彼は何をやっただろう。

 わたしは再び、船上の荒れっぷりに視線を向けた。船がぶつかったから、木箱が倒れたんだと思っていた。だけど、もしかしたら……もっと前から船上は荒れていたのかもしれない。心なしか、木箱の個数が少ない気がする。乗っていたはずのロープも見当たらない。

 わたしが眠る前、彼は何をしようとしていた? 船を違う方向に走らせて、国外に逃亡しようと目論んでいた。

 もしかして、木箱やロープで、筏を作って逃げてしまった? わたしが反対したから、わたしを置いて一人で?

 嘘。嘘よ。わたしは焦った。何故だかわたしは、ルカさんがわたしを見捨てていくわけがないと思い込んでいた。どんなことがあっても一緒に藍の都に辿り着くのだと思っていた。

 だけど今思えば、それは全く保証のないことで、ルカさんは決意一つでいつでも出て行ってしまえる状況だった。わたしは置いて行かれたことにショックを受けていたけど、よく考えたらそんな生易しい事態じゃない。もしかしたらわたしは、とんでもないミスを犯してしまったんじゃないかしら。

 藍猫さまはこの船のどの貢物よりも、我が子である白子が到着することを心待ちにされていたはずだ。貢物の心配ばかりしてしまっていたけど、わたしは結局、一番の貢物である白子を無くしてしまった。藍猫さまを酷く落胆させてしまうかもしれない。

「ど、どどどうしよう……」

 クミンさんは、藍の都に着いたら外してやれと言って鍵をくれた。わたしはルカさんが求めるままにそれを渡してしまったけれど、本当は渡してはいけないんじゃなかったかしら。たとえ自らの意思で来たわけじゃなくても、来ないよりはマシなんじゃないの? だからこそ、ランディスさまは船に縛り付けてまで、ルカさんを送り出したんじゃないの?

 ごめんなさい、ランディスさま。わたしの馬鹿馬鹿。どうして何も考えずに鍵を渡してしまったの。こうなることくらい、ちょっと考えれば予想できたよね? わたしの馬鹿馬鹿。わたしは自分の頭を叩きながら、とある事実に気が付く。それは、前回の白子のサリーのこと。

 彼女は羊角の白子を殺す気で旅立った。もし本当に彼女が彼を殺したなら、彼女はここに一人で上陸したことになる。わたしの今の状況と同じ。そして彼女は見事重臣に選ばれて、アピスに平穏が訪れた。

 なら今回だって、たとえわたし一人で上陸しても、藍猫さまがお怒りになることはないんじゃない? わたしはとりあえず、ほっと胸をなでおろす。

 期せずして、オズワルドさまが望んだようになってしまった。本当に期せずしてだけど。ちょっとだけ苦笑いを浮かべたわたしは、身だしなみを整えて、持ち物をチェックした。お財布も時計もポケットに入っているし、パルフィートもちゃんと首に掛かっている。オズワルドさまからの巻物もちゃんと持っているし、大丈夫。

 一人で藍猫さまにお会いするのはたまらなく不安だけど、仕方がないわよね。冷静になってきたわたしは、そう思い直した。

 もともとルカさんは、アピスの白子ではない。アピスの命運を背負わされてのこの旅は、ルカさんには途方もなく重荷だっただろう。それは彼が背負う荷物じゃない、テオドアが背負うべきもの。ルカさんが自由になれたことを、わたしは藍猫さまの代わりに祝福してあげなくてはならない。

 だってルカさん、ずっと自由になりたがっていたんだもの。

 とにかく、たとえ一人になっても、アピスの代表を立派に務めなきゃ。わたしは洞窟の出口に向かって歩き出す。平らで何もない岸壁の上には、出入り口が一つしかなかった。

 わたしは高鳴る胸を押さえつつ、その出口へと向かう。青い光が漏れ出るその出口は、遠目に見ても、神秘的な場所へ繋がっていることが明らかだった。

 そして、わたしの期待に違わず……。出口を潜ると、そこには"神の国"があった。目の前に広がる圧倒的なその光景に、わたしはつい息をするのを忘れてしまった。

 わたしの立つ崖の向こうには大きなくぼみがあり、そこに湖が広がっていた。青く輝く水の上に、白い柱が無数に突き出している。柱は石の土台を挟んで何段にも重なり、上へ上へと伸びていて、複雑な形を築いている。それは壁のない、柱と床だけの建物のようだった。

 透き通った水の下にもその建物が連なっているのが見える。ずいぶんと深い湖の底からこの建物は作られているらしい。さらに不思議なことに、その柱を取り巻く蒼い植物の一部が淡く発光している。ツタが建物全体を取り込むように絡まり、青々とした葉を生やしている。

 それらツタの本体なのだろうか。神殿と呼んでもよさそうなこの建物の真ん中に、巨大な幹をした一本の大木が聳え立っていた。それは今まで見たこともないくらい巨大な樹で、その枝から滴っているらしいキラキラ光る水の粒が雨のように空から降り注いでいる。

「綺麗……」

 わたしの口からようやく、吐息と共に言葉が漏れた。

 夜祭のキャンドルナイトなんてとても比較にならない。わたしはこの光景を独り占めしていることに、一抹の寂しさを感じた。ルカさんじゃなくても、姉さまとかククルとかでもいい。誰かと一緒に共有したかった、と切に思う。

 崖には階段が設置されていたので、わたしは恐る恐るそこを下った。階段は湖に飲み込まれ、深く深く沈みこんでいたので、わたしはそれ以上進むことができずに立ち止まる。足場となりそうな白い建物は、ジャンプしても届かない距離にしか見えない。

 もしかして、泳いで渡らないといけないのかしら。わたしが足を踏み入れかねていると、遠くの足場に二人の人影が見えた。その人影は、明らかに普通の人ではなかった。

 一人は女性。緩やかなウェーブがかった髪の毛の、とても綺麗な女の人。歳は二十代前半くらいかな。肌が透けて見えそうなくらい薄くて白いワンピースを身にまとって、裸足で廊下を歩いている。もう一人は、女性の少し後ろにぴたりと付き従う男の人。短く刈った髪の毛に、ガッチリとした体形。服は女性と違ってかなり厚手のもので、わたしの着ている正装とどこか似ている感じがした。

 二人が普通の人に見えなかったのは、その髪の毛の色だ。

 ローダさまのような、見事な青銀の髪の毛。いえ、ローダさまとは比べ物にならないくらい、内側から輝いているような美しい青銀の髪の毛。そして彼らが近づくにつれて、その瞳の色も圧倒的な美しい藍色をしていることに気付かされた。

「あら、白子さん。ごきげんよう」

 女の人はわたしに気が付くと、廊下の端に歩み寄りにこっと微笑む。

「どうしたの。どうしてこちらに来ないの?」

「え、えっと……」

 その神がかった美しさに、わたしはどぎまぎしてしまう。首を傾げる彼女に、わたしは精いっぱいの身振り手振りで足元の問題を訴えた。

「あの。その、水があって……」

「エリファレット様。建物が沈んでいるようです」

 短髪の男の人が、わたしのジェスチャーを理解してそう進言する。エリファレットと呼ばれた女性は、沈んだ階段を見て、あらあらと声を上げた。

「そうね。また少し沈んだのね。でも大丈夫よ。歩けるようになっているわ。さあおいで、白子さん」

 そう言われても。わたしは目の前の湖を見て足踏みする。だって、どう見ても足場がない。歩けるようにはとても見えない。

 わたしが躊躇するのを見て、彼女は再びにこりと微笑み、ゆっくりと廊下から湖へ足を踏み出して見せた。すると不思議なことに、彼女の足元に輝く道が現れて、わたしの目の前まで伸びてくる。

「これなら渡れるかしら? お嬢さん」

「は、はい!」

 わたしはドキドキしながら、その光る道に足を踏み出した。

 ぴちゃりと音が鳴り、波紋が広がる。不思議なことに、足元の道は確かに水なのに、わたしの体は沈まなかった。固くもなく、柔らかくもなく、不思議な弾力を感じながら、わたしは恐る恐る彼女の待つ足場へと足を運ぶ。

「よくできました」

 彼女はわたしの手を取り、足場に誘ってくれる。長くてしなやかな指に、わたしはまたドキドキした。

 こんなに綺麗な女性は今まで見たことがない。あの絶世の美少女のローダさまですら、こんな美人には成長しないだろう。

「あの、あの、ありがとうございました。わたし、カノンと申します。アリアト派の白子、カノンです」

 わたしはぺこりとお辞儀をし、上ずった声で自己紹介をした。彼女たちが何者なのかはわからないけど、おそらく神官さまだ。ラウドの書に書いてあったもの。神官は青銀の髪と藍色の瞳をしているって。

「あら。アリアトお兄様の方の白子さん。カノンちゃんね。ラピスへようこそ」

 エリファレットさんは優雅に会釈して、わたしを歓迎してくれる。でも顔を上げた彼女の瞳は曇っていて、寂しそうにわたしの後ろを見つめた。

「アルベルトお兄様の方の白子さんは、今回もいらっしゃらないのかしら」

「えっと……」

 わたしはヒヤリとした。やっぱり白子は二人いなければならなかったんだ。わたしはどう言い訳したものかと思案を巡らす。

 そんなわたしの様子が気に食わないのか、隣の男の人が鋭い視線でわたしを突き刺した。

「また殺してしまったのか? アリアト派の白子の野蛮は目に余るな。懲罰を与えねばなるまいか」

「いえ、あの、違……」

 わたしは震えあがって、なんとか言い訳をしようと声を上げたけど、上手く言葉が出てこない。そんなわたしを引き寄せて、エリファレットさんは優しく頭を撫でてくれる。

「そんなことしないわよね? カノンちゃんは優しそうだもの。ラウド、あんまり意地悪を言っては駄目よ。可哀そうでしょう?」

「しかし、エリファレット様……」

「大丈夫よ。一人でも来てくれたら、藍猫様のお体は良くなるわ」

「ですが、一人では回復量が足りません。またすぐに白子が必要になります」

「どうせ十八年経てばまた審判をするのだからいいじゃない。ねえ? カノンちゃん」

「え……あ、はい……」

 急に話を振られて、わたしはおずおずと頷いた。

「全く、エリファレット様は甘いのです。だから白子がどんどんつけあがる……」

 短髪の男の人は、なおもわたしを睨みつけてそう呟く。わたしは怯えながらも、彼のことが気になって仕方がなかった。

 エリファレットさま、この人のことを"ラウド"と呼んだ。もしかして、この人がラウドの書を記したラウドさま? 気になったけど、恐ろしくて聞けない。いらないことを言ったら、ラウドさまをさらに怒らせてしまいそうで。

「さあさ、白子さん。待っていたのよ。長旅でお疲れでしょう、あちらでお話ししましょう、行きましょう」

 わたしはエリファレットさまに誘われるままに、神殿内に足を進めた。

 初めは夢心地だった。ちょっぴりだけど、藍の都や白子の審判の実在を疑う気持ちもあったのだ。だけどこの神秘的な光景やエリファレットさまたちのやりとりを耳にするうちに、徐々に実感が湧いてくる。わたしは本当に藍の都に来て、本当に藍猫さまはわたしを待っていてくれて、本当にわたしは白子の審判を受けるんだ。

 柱と床と天井が長々と続くこの神殿。ときたま部屋のように家具が置かれている場所があるけども、壁がないために本当に部屋なのかどうかはわからない。

 家具といってもシーツもマットも何もないただの石造りの寝台らしき平べったい直方体の石と、テーブルっぽい高さの立方体の石、その周囲にある椅子っぽい円筒形の石くらいのもので、本当に家具なのかも不明だ。

 わたしがキョロキョロしていることに気が付いたエリファレットさまが、わたしの方を振り返りクスリと笑う。

「めずらしい? この建物」

「あ、いえ、その、……はい」

「そうよね。ちょっと飾りが少ないわよね。飾りつけを頑張っていた下の階は沈んでしまったから、内なる土地の人には物足りなく映るかしらね」

 わたしが正直に頷くと、エリファレットさまは納得するように呟いて、自らも周囲を見渡した。

「下の階って、どうして沈んでしまったんですか?」

 ついそう口走ってしまったわたしは、自分の口を両手で塞ぐ。前を歩いていたラウドさまがぎろりとこちらを睨んできたからだ。

 こちらから質問をしてはいけなかった? わたしは冷や汗をかきながらエリファレットさまの様子を窺う。

「うーん。そうね。色々聞きたいわよね。でもね、説明が少し難しいの。そのうちわかるから、今は答えないでもいいかしら」

「はい、全然、問題ありません!」

「聞き分けが良いのね。助かるわ」

 にこりと微笑む彼女に、わたしはホッとした。どうやら神官の中でも、エリファレットさまは相当に貴い身分の方らしい。

 彼女を怒らせないようにしたら、とりあえず大丈夫なのだろうとわたしは判断する。彼女は前に向き直り、優雅に歩を進めながら話を続ける。

「ごめんなさいね。藍猫さまはお体の調子が悪くて、あまりゆっくりあなたとお話しできる状態にないの」

「そうなんですか……」

「ええ。だから、できるだけ早くあなたには藍猫様の元に行ってもらいたくて。だからあまり藍の都も案内できないし、あなたの質問に答えることはできないけど、大丈夫かしら」

「はい。もちろんです!」

「ありがとう」

 エリファレットさまは、中心にある大樹の麓を目指しているらしかった。まっすぐ進める道はなく、ジグザグに廊下をたどって行き、やがて大樹の樹皮が見えるくらいにまで近づく。

 木の幹は、わたしが抱き付いて両手が届かないくらいの太さのうねったツタが何本も巻き付いてできたような表面をしていた。ところどころ隙間があり、中にはぼんやりと光る別の植物が生えている。

 その一つの木の洞に、わたしは招き入れられた。そこはまるで植物園の温室に迷い込んだみたいな空間で、白い百合がそこかしこに咲き乱れている。

「少し息苦しいかもしれないけど、ごめんなさいね。ここでお話ししましょうか」

 彼女は足元にあった柱の欠片に腰を下ろし、わたしに目の前の石を勧める。ラウドさまはエリファレットさまの横に控え、座る気配がなかったので、わたしは彼を追い越して勧められた場所に座った。

「ええと。まず何を話そうかしらね……。そうだわ、自己紹介がまだだったわね。私はエリファレット。藍猫様のお世話をさせていただいているの」

 エリファレットさまはにこりと微笑み、隣の男の人を見てさらに口を開く。

「こっちの人はラウド。私のお世話係をしてくれているわ」

 ラウドさまは鋭い目つきのままに、わたしに向けて一礼をした。わたしも素早く一礼を返す。

「私たちのことは、そのうちわかると思うから説明は省かせてもらって……そうね、私が聞きたいのはあのことね」

 エリファレットさまは手を打って、明るい声でこう言った。

「カノンちゃんは、歌は上手かしら」

「歌、ですか?」

「そう、歌。何か歌ってみてくれないかしら」

「今ですか?」

「そう、今」

 突然の要求にわたしは面食らう。まさか歌のテストがあるなんて、思いもしなかった。音術の授業ではたくさん誉められていたけど、流石に神官さまを満足させられるほどのものとは思えない。

 わたしは狼狽えていたけど、エリファレットさまは期待を込めた瞳でこちらを見つめ続ける。わたしはその視線に耐えられなくなって言った。

「あ、あのう。歌うのはどんな曲でもいいんですか?」

「ええ、なんでもいいわよ」

「じゃあ……」

 わたしは呼吸を整えて、おずおずと初めの一音を口にした。少しずつ音量を上げながら、丁寧にメロディを紡いでいく。

「あら、『ゆりかごの歌』ね」

 エリファレットさまはそう呟いて、わたしの歌に合わせて体を揺らした。ところどころ音程を外した気がするけど、わたしは何とか二番まで歌いきって息を吐く。

「ど、どうでしょうか……」

 怖々視線を向けると、エリファレットさまは優しい拍手でわたしを労ってくれた。

「良かったわ。懐かしい歌が聞けたし、ねえ、ラウド」

「下手ではないですが、平凡ですね」

「もう、そんなことを言わないの。素朴で良い声だったわ」

 どうなんだろう、合格なの? 不合格なの? わたしはドキドキしながら判定を待ったけど、彼らは特にそれ以上のやりとりをしなかった。

 エリファレットさまはわたしの歌声よりも、わたしが歌った歌の方に興味を抱いてしまったようだった。

「カノンちゃん、その歌は未だに王家のお家で歌われているのかしら」

「ええと、わたしの生家、じゃなくて育ててくれた家で歌われていることしか知らないです……。わたしを育ててくれた家はアピスリム家と言いますが、王家じゃなく王家の分家なんです」

「そうなの。でも、分家に残っているということだけでも聞けて良かったわ」

 エリファレットさまは嬉しそうに微笑んだ。なんだろう。さっきからエリファレットさまは、まるでアピス王家の出身だったと言わんばかりの発言をされる。気になったけど、わたしはラウドさまの視線が怖くて質問できないでいた。余計なことを聞いて、白子の審判に失格してしまったら……わたしはどうなってしまうのかわからない。

 無事に神官となるまでは、余計な言動は差し控えた方が良いに決まっている。

 エリファレットさまはその後も機嫌よく色々と質問を重ねてきた。王家や教会のこと。アピスの四季や、国民の営みについて。特にお祭りの話を好んでされた。

「エリスフェスタは、ここ十数年も変わりがないかしら。ちゃんとエリスは選ばれているのかしら」

「はい。貴族区と平民区から二人のエリスが毎年選ばれていますよ」

「エリスはちゃんとお祭りを楽しんでいるかしら」

「ええ。女の子はみんなエリスに選ばれたがっていますよ。ただ、去年とおととしは同じ女の子が連続でエリスを務めてしまったから、残念がっている女の子も多かったです」

「連続でエリスを? どうしてそんなことをしたの。エリスはその年に一番輝いている女の子を選びなさい、できるだけ色んなタイプの女の子にエリスを経験させなさいと言ってあるはずよ」

「えっと、その子というのが、今の王家のお姫さまで……ものすごくキラキラした女の子なので、みんな納得していたというか……」

「もう。規則は守ってくれないと駄目じゃない。エリスはエリスなんだから。変に個人のイメージがついちゃうと良くないでしょう?」

 子供のように怒り出すエリファレットさまにわたしは驚いてしまった。こんな小さなことで怒りを買ってしまうなんて思ってもみなかったから、わたしはついローダさまのことを話してしまったのだ。

 あんなに白子になりたがっていたローダさまだけど、神官さまに嫌われてしまってはその道は閉ざされたようなもの。ごめんなさい、ローダさま、そんなつもりじゃなかったの。わたしは頭の中で必死にローダさまに謝った。

「アリアトには前回の罪科があります。今回のその王家の姫もアリアトでしょう。次の王家はアルベルトに任せた方が良いのではないですか」

「そうねぇ。でも、ここまで来てくれたのはカノンちゃんだからね。それはちょっとカノンちゃんが可哀想じゃない?」

 雲行きが怪しくなってきた二人のやり取りに、わたしは狼狽えつつも何もできない。やっぱりすでに白子の審判は始まってしまっていたのかしら。こんな何気ない会話で、次の王権は決まってしまうのかしら。

 わたしの脳裏に、泣きながら訴えるばあやの顔が浮かんでくる。我々に勝利を、安寧な暮らしをと訴えるばあやは、旅立つわたしにとってはとても鬱陶しく思えたけど、八つの時からお世話をしてくれた彼女に全く情がなくなったわけじゃない。

 ばあやのためにも、母さまや姉さまのためにも、わたしはアルベルト派に敗北するわけにはいかない。ルカさんを殺せというのは言語道断だけど、自分から逃げ出したルカさんに、アピスを見捨ててしまったルカさんにわたしは負けるわけにはいかないのだ。

「お言葉を挟んで申し訳ありません。エリファレットさま」

 意を決して口を開いたわたしは、ふたりからの視線を受ける。怖じ気づいちゃ駄目。勇気を出すのよカノン。わたしは自らを鼓舞して、続きの言葉を述べた。

「ローディア姫の無礼はわたしからお詫び申し上げます。だけど、彼女には本当に罪はないんです。彼女とわたしは今年のエリスフェスタに一緒に行きましたが、彼女は今年のエリスと踊れてとても喜んでいました。エリスを二回引き受けたのは彼女が本当に藍猫さまのことが好きだからであって、けしてエリスとしてちやほやされたかったからではないんです」

 神官さまに意見するなんて失礼なことかもしれない。だけどわたしは必死だった。なんとかアリアト派の不利な形勢を逆転させたかった。

 ラウドさまがわたしを制そうとしたのが見えたけど、エリファレットさまがそれを止めた。

 許されたのかしら? わたしは少しだけ安堵の気持ちを湧き上がらせて、さらに口を開く。

「わたしはアリアト派のみんなに十四年間、助けられて生きてきました。わたしのようなものが神官としてふさわしいかはわかりませんが、精一杯頑張って自分を磨いてきたつもりです。わたしが重臣になれなかったら、アリアト派のみんなが悲しみます。だからどうか、アリアト派を見捨てないで、わたしを重用してください。わたし、頑張ります、雑用でもお掃除でも炊事でも、言われたことは何でもします、どうか重臣として迎え入れてください……」

 こんな無様な懇願が、役に立つとは思っていない。逆効果なんじゃないかとさえ思う。けど、なんの能力のないわたしにはこれくらいしかできなかった。石から降りて跪き、足元に流れる不思議な感触の水に手を浸してわたしは訴えた。

「お願いします。アリアト派を許してください。わたしを選んでください……」

「お顔を上げて、カノンちゃん」

 恐る恐る上げた視線に、エリファレットさまの困り顔が映り込む。彼女はふるふると首を横に振り、とても苦しそうにこう言った。

「駄目よ。どんなに必死に頼みこまれても、私にはどうしようもできないの。だって、口で言うことなんてすごく簡単。額を水に付けるのも、ただプライドを捨てるだけだもの、簡単よね。

 そんなのじゃ駄目。実際に行動で示してくれないと、お姉さん困っちゃうわ」

「行動で示すとは、どういうことですか」

「それは――」

 エリファレットさまはラウドさまと視線を交わして、うっすらと微笑む。

「もうそろそろ、始めますか?」

「そうね、カノンちゃんは準備ができたみたい。そろそろ行こうかしら」

 準備? 何の準備だろう。わたしは少し不安を覚えたけど、エリファレットさまの次の言葉で、すぐにその意味が明かされる。

「あなたはこれから藍猫さまの御許に向かうの。そして白子の審判で、あなたは藍猫さまに信仰心の強さを自ら示すのよ。全ては主神が、藍猫さまがお決めになるわ」

 これまでの会話は審判には関係なかったようだ。全てが決まるのはこれから先なのだとわかり、わたしは少しほっとした。

 だけどすぐに緊張感が湧き上がる。ついに、わたしはついに、藍猫さまにお会いするのだ。″真なるお母さま″である藍猫さまに。

 わたしはこの六年間、そのために頑張ってきた。ついにその真価が試されるときが来るのだ。

 徐に立ち上がるエリファレットさまに続いて、わたしは慌てて身を起こす。足元の水に浸されて濡れたはずの足や手は、不思議とすっかり乾いていたけど、わたしにはそれに気を向ける余裕はなくなっていた。

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