第八章(4)
「どこに向かってるんだ?」
「えへへ。内緒です」
わたしはルカさんの手を引いて、まっすぐ貴族区の正門に向かった。手元のチラシによると、貴族区と平民区を隔てる外城壁の上が、キャンドルナイトのベストスポットの一つらしい。
なるほど、普段は守衛さんしか登れないはずの階段が、ランプに煌々と照らされてその存在を主張している。
「ここを登りましょう」
「上に上がるのか?」
「はい。この上から見るのがお勧めだそうです」
身長の何倍もある、立派な壁を見上げるルカさん。アピスヘイルで最も幅が広く、立派な出で立ちのこの壁は、王城を中心に貴族区の周りをぐるりと一周している。この都がアシュリー国と呼ばれていた頃に作られ、百年以上の間この地をあらゆる災害から守ってきた非常に歴史のある壁だ。はるか昔に一度だけ、大きな水害に見舞われた時に付いたとされる水の跡が今でも壁の外側に生々しく残っている。
殺風景な階段を上り、何組かのカップルとすれ違う。わたしたちとは逆方向を行く彼らは、ほとんどが壁を降りようとしている様子だった。
まだキャンドルは残っているかしら……。わたしは不安になりながらも、チラシに書いてあるその場所を目指す。
「何を見るんだ?」
「三日目の夜に開催される、お祭りのメインイベントのひとつです。″キャンドルナイト″というんですよ」
わたしはルカさんにイベントの概要を説明した。
キャンドルナイトというのは、教会の人たちが事前に都民から集めたキャンドルを、青の道の上流から一つずつ流していく行事である。無数の光がゆらゆらと川を下っていく様子を高台から眺めるのがこのイベントの醍醐味だ。
わたしはいつも教会のてっぺんの特等席から眺めていたのだけど、普通の人たちはこういうところで観賞するのね。
「あれです、あれ! 見えてきましたよ」
壁の向こうの大河に、ポツポツと光が浮いているのが見える。わたしは興奮してルカさんの背中をたたいた。
「ほら、綺麗でしょう? あ。あっちのほうがよく見えるんじゃないですかね。行きましょう行きましょう」
「…………」
ルカさんの反応は、思った以上に薄かった。男の人ってあまりこういうのは好きじゃないのかな。不安になりつつも、わたしは鑑賞に適した場所を懸命に探した。
だけど、そういう場所には人だかりがある。いつまで流れてくるか分からないキャンドルたちを、ハラハラしながら見守るカップルたち。あそこに自分の作ったキャンドルはあるかなどと語りながら、みんなが揃って一方を見つめていた。
ようやく少し開けた場所を見つけたわたしは、ルカさんをそこに押し込む。
「ここならよく見えますね。どうです? 綺麗でしょう?」
「別に……街の明かりと何が違うんだ?」
冷めた視線で川を見つめるルカさん。確かにそう言われてしまうと辛いものがある。わたしは彼の興味を引こうと、ふと頭に浮かんだ豆知識を披露することにした。
「あのですね、キャンドルナイトのキャンドルには、ふたつの言い伝えがあります。一つ目は、″もし藍猫さまの元まで火が消えず無事に辿り着いたなら、キャンドルに書かれたお願い事を叶えてもらえる″というもの。キャンドルひとつひとつにはメッセージが彫られているんですよ。一人何本でも寄付していいので、たくさんたくさん流してもらう人もいますね。もうひとつが――」
わたしはその内容にハッとして、口を閉じる。ルカさんは壁の上をそよそよと吹く穏やかな風に、気持ちよさそうに目を細めながら訊いた。
「もうひとつが?」
「いえ、なんでもありません」
「ふたつって言ったよな?」
「なんでもありません。よく考えたら、ひとつでした」
ルカさんは怪訝そうにこちらを見たけど、特に気にする様子もなく静かに銀髪をなびかせ続けた。わたしもその横に並び、遠くの川に目をやる。断続的に続くキャンドルの光は、まだ途絶える気配はない。
もうひとつは……。わたしはその内容を思い出し、こっそりと赤面をした。
もうひとつは、″この日最後のキャンドルを、大切な人と見ることができたなら、その人との絆は永遠のものになる"、というものである。キャンドルナイトは、流すキャンドルが無くなった時点で終わるので、毎年いつ終わるのかはっきりしていない。早く終わる年もあれば、長くかかる年もある。例年どのくらいに終わっているのかというと、このチラシによれば、″十時から二時の間″が多いそうだ。十二時というのは、十時から見張っている人たちの辛抱の糸が切れ始め、まだまだ終わらないと踏んでいる人たちがまだ訪れていない、絶妙な時間帯なのだと思われる。
「別に今年じゃなくても良くない?」
「飽きたよー。エール飲みに行こうよー」
周りのカップルたちが、次々に音を上げていくのがわかる。確かに、毎年来ることができる人なら何も今年にこだわる必要はない。来年も再来年もキャンドルナイトは開催されるのだ。
一組帰り、二組帰り、空いたスペースに新しいカップルがやってきた。そのカップルはとても仲睦まじいようで、川ではなくお互いの顔を見つめあっている。
「む、向こうに行きましょう、ルカさん」
「え? どうしてだ」
「いいから!」
わたしはそのカップルがお互いの顔を近付け合うのを見てしまって、大慌てでその場を離れた。
あれは確か、リリムがよく言っているやつだわ。好き同士の男女が、いい雰囲気になったらああいうことをするらしい。口づけとか、キスとかいう、お互いの唇を重ね合わせる行動だ。
わたしの頭に、数日前にククルに言われた言葉が蘇る。
『え~? 別にそんな関係じゃなくても、男にはこれが一番ですよ~』
不満そうに口を尖らせる彼女が、この発言の前に言った言葉。
『キスをしてあげるというのですよ、カノン様。一緒にお祭りに行ってくれたら、キスをしてあげると』
わたしの顔面はみるみるうちに熱を持っていき、頭の上から湯気が立ち上った気がした。
「どうしたんだ? どこまで行くんだ」
「えっと、あっち、あっちのほうが人が居なくていいですよ!」
わたしは無我夢中で足を進める。気が付いてみれば、そういう雰囲気のカップルは至る所にいた。
なによ、この神聖なキャンドルナイトの夜に、人がたくさんいるところで一体何をやっているの。プリプリしながらわたしはルカさんを引きずる。あまりにも狼狽えていたものだから、わたしは自分がお忍びであることを完全に失念してしまっていた。
このお祭りで犯した一番の失敗を挙げるのであれば、わたしは迷わずこの迷走を挙げるだろう。
「……カノン?」
暗闇で、誰かとすれ違った。その人物はわたしを見て、わたしの名前を呟いた。どうしてそこで足を止めてしまったんだろう。わたしはその聴き慣れた声に反応してしまった。振り返って、叫んでしまった。
「姉さま!」
そう口にしてしまってから、わたしはひどく後悔する。久しぶりに見た彼女の顔は、わたしではなくわたしが引きずるルカさんに向けられていて、その表情は驚きに満ちていたから。
「ちょっと待ちなさい!」
わたしはルカさんを背中に隠そうとしたけど、その行動を一瞬早く姉さまの手が止めた。彼女はルカさんの腕を掴み、信じられないくらいの力で引っ張る。ルカさんの体はわたしの手からするりと抜けて行き、思い切り城壁に叩きつけられた。
「シノン?!」
男の人の声がした。恐らくイザクさまだろう。姉さまはその声を全く無視して、持っていたカンテラでルカさんの顔を照らし上げる。
「あなたはだあれ? 私の妹をたぶらかす不届き者は、いったい何者なのかしら?」
冷たい響きのその声に、わたしはゾッとした。とても姉さまの声には思えなかった。彼女はルカさんを城壁に押し付けたまましばらくその顔を見つめていたけど、突然険しい顔で彼の髪の毛を掴み、引っ張った。
「いてえな! なにすんだ」
ルカさんはすぐに姉さまの手首をつかんで引きはがしたけど、遅かった。カランと音を立てて猫の耳のカチューシャが地面に転がる。わたしの後ろで、イザクさまが息を呑むのが聞こえた。
「あなたが例の白子ね? 一体どうしてカノンと出歩いているの? ねえ、どういうことなの? 私のテッドはどこに行ったの?」
「知らねぇよ。なんだこいつ、お前の姉ちゃんか?」
「はい、わたしの姉さまです。姉さま、乱暴はやめて。事情は話すから……」
割って入ろうとしたわたしを突き飛ばし、姉さまはなおもルカさんに取りついている。
「私はあなたに聞いているの。答えなさい。あなたは何者? 目的は何? 私のテッドをどこへやったの?」
「知るかよ。主教とかいうやつらに聞けよ。俺だって何が何だかわかんねぇんだ」
「答えなさい!」
姉さまはランタンを彼の首に押し付ける。焦げ臭いにおいがあたりに漂った。
「やめて、姉さま……」
「何よカノン、あなたはこの男の肩を持つの? テッドの立場を奪った不届き者のこいつと、どうして一緒に遊んでいるの?」
「どうしたんだ、シノン。君は何を言って……」
「うるさい! あなたには関係ないわ!」
イザクさまに向かって叫んだ隙を見逃さず、ルカさんが彼女のランタンを叩き落とす。ガシャンと音を立てて割れたガラスから導きの水がしみだして、炎を石床の上に広げていった。
「行きましょう、ルカさん!」
姉さまがひるんだその一瞬に、わたしはルカさんの手を引き駆け出した。後ろから姉さまの罵声が聞こえる。
「なによ! カノン、あなた、私とテッドを裏切ったのね? そいつに味方をして、テッドを闇に葬ろうというのね? 待ちなさい……!」
わたしの頭は真っ白になっていた。ただ今は、とにかくルカさんを守らなければと思った。道行くカップルがわたしたちを振り返る中で、わたしは一心不乱に駆けて行った。城壁を下り、お城の前庭を抜け、猫の耳と尻尾を放り投げて、正教会に逃げ込む。
「ああ、まずいことになったわ。どうしましょう」
「まずいことになったのか?」
「なりましたよ! 姉さまを勘違いさせてしまいました。イザクさまにルカさんのことが知られてしまいました。もしかしたら、騒ぎを聞きつけた他の人が主教さまに密告してしまうかも……」
「そん時は、そん時だろ。お前が母ちゃんに会えなくなるかもしれないんなら、まずい事態だが……」
「そんなこと言っている場合じゃないですよ。ルカさんに迷惑が掛かってしまうかも」
「別に、俺は気にしねぇよ」
ルカさんは胸に張り付いたシャツをパタパタとさせて、汗ばんだ体を冷ましていた。少し焼け焦げたシャツと、胸元の赤みが気になった。もしかすると火傷をしてしまったのかもしれない。すぐに治るだろうけど、熱かったことだろう。姉さまの暴挙を止められなかった申し訳なさに胸が痛んだ。
「ごめんなさい。ルカさん……」
「どうして俺に謝るんだ。お前は姉ちゃんに謝らなきゃなんねぇんじゃねえか」
「はい。でも、いくら姉さまでも、ルカさんにあんな失礼なことをして、許されることではありません」
「別に。あのくらいどうってことねえよ」
「どうってことなくはないでしょう」
ルカさんは本当に気にしていない風な顔をして立ち上がり、隠しておいたランタンを拾って奥へと向かう。
「待ってください。どこか他に怪我をしていませんか?」
「怪我しててもそのうち治る」
「やだ、腕にアザができているじゃないですか。他にもないですか? もう、姉さまったら、なんて酷いことを」
「大丈夫だから! 触んじゃねえよ」
ルカさんは少し乱暴にシャツを引いて、これ以上の詮索を拒否した。確かに怪我を見つけたところでわたしには治せないし、数時間も立てば痕跡すらなくなってしまうのだろうけど、姉さまが犯した罪の全容をわたしは知りたかった。
「ごめんなさい、ルカさん」
「だから、しつこいってお前……」
祭壇の部屋に戻ってからも、わたしは許しを請い続けた。ルカさんは妙に胸元を押さえている。火傷が痛むのかもしれないと思うと、わたしの心はさらに痛んだ。
「今日は本当にごめんなさい。でも、一緒に出掛けられてうれしかったです。ありがとうございます」
「ああ。じゃーな。母ちゃんとの再会、頑張れよ」
「はい。また後日ご報告に行きますね」
手をひらひらさせてから、ルカさんは抜け穴に登っていった。その姿を見送ってから、わたしも反対側の抜け穴に登る。
本当にまずいことになったわ。わたしは部屋に戻り、ベッドに寝ころんで頭を悩ませた。
詳しい事情を知らない姉さまが、わたしたちの様子を見たら怒るに決まっているだろう。姉さまにとってはルカさんはテオドアに成り変わった悪い白子なんだから。
彼と仲良くするわたしの姿は、テオドアを見捨てたように映ってしまったことだろう。ちゃんと事情を説明しないと、と思ったけど、事情を説明したところで姉さまの怒りを沈めることはできないだろうなと思った。
だってわたしがテオドアのことを見捨てているのは事実なのだ。わたしはテオドアが帰ってこないことをすでに受け入れていて、ルカさんがアルベルト派の白子となることを願っている。いくらルカさんとわたしがテオドアの失踪と無関係であっても、その事実を知れば姉さまは裏切られたと思いさらに怒りを膨れ上がらせることだろう。
万事休す。わたしはルカさんと一緒の姿を見られてはならなかったのだ。ククルやブレンダに応援されてすっかりいい気になってしまっていたけど、彼女たちのような人はごくごく少数派だ。
この国のほとんどの人が、わたしたち白子が間違いを犯さないこと、清廉潔白であることを望んでいる。
白子は神官になるために生まれ、育てられた存在なのだから。