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衰退世界の人形劇  作者: 小柚
上巻

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第七章(3)

 いつものようにわたしは、お清めの湯浴びの後にルカさんの部屋まで出かけた。相変わらずルカさんは、ランプに照らされた机に噛り付いて、黒板に熱心に文字を書きつけている。

「ルーカさん」

「ああ、お前か……」

 こちらをちらりとだけ見て、再び机に目を向けるルカさん。わたしは部屋に上がった途端、何やら粉っぽいものを吸い込んでくしゃみをした。

「今日はひどく空気が悪いですね。チョークの粉ですか?」

「多分な。あいつが掃除をしに来なかったんだよ」

「あいつ……?」

 ランディスさまのことかしら。やっぱりこの部屋を掃除しているのは彼なのね。わたしの頭に、何故だか侍女の格好をしたランディスさまの姿が浮かぶ。

 三角巾をしたランディスさまが、箒で床を掃いたり絨毯を上の部屋ではたいたりして必死にチョークの粉と格闘しているのを想像して、ひどく切ない気持ちになった。

「ランディスさまもお忙しいでしょうからね」

 たしか都外からの来客のもてなしをアルベルト派は主に担当しているはずだ。オズワルドさまほどではないけど、こちらの教会の仕事も大変なのだ。お祭りの間はとても部屋の掃除に来る暇などないだろう。

「じゃあ、この粉はフェスタ期間中ずっと舞い続けるわけですか……?」

 わたしは頭を抱えてしまった。黒板とチョークで勉強するように勧めたのはわたしだ。ルカさんは勉強熱心だから、毎日一体何時間机に向かっているのかわからないほど文字を書きつけ続けている。初めは古紙とインクを使用していたのだけど、すぐに真っ黒になるし、真っ黒になったらもう書くことができないしで不便だったので、黒板とチョークを手に入れるよう助言したのだ。

 だけどこの換気の悪い室内でチョークを使い続けると粉が舞う。今までは毎日、ランディスさまによるお掃除が入っていたから大丈夫だったのだろうけど……まさか数日お掃除しないだけでこうなってしまうなんて。

「ルカさん。もしかしたらランディスさまは何日か来られないかもしれないので、今は紙とインクに戻した方がいいんじゃないですか」

「……そうだな」

 くしゃみを連発するわたしを憐れんで、ルカさんはすぐにその提案を受け入れてくれた。

 机の下にため込んでいた小汚い紙の束を取り出し、さらさらとペンを走らせる。本当に上達が早い。簡単な挨拶の文はすでに書けてしまえるようだった。まだ子供が書いたような拙さは残っているけど、サリーの書く文章よりは、変に凝ってない分読みやすい。

「すっかり上手になりましたね!」

 わたしが褒めると、ルカさんは嬉しそうに一冊の本を差し出してきた。

「お前のお陰で、これが読めるようになった」

 わたしはその本を受け取り開いてみると、小さな子供が読む神学の入門書であることがわかった。

「この本、わたしも読んだことがあります。母さまが読んで聞かせてくださいました」

 わたしは見覚えのある、藍猫さまの挿絵を指で撫でる。

「この本を読んでもらったすぐ後に、母さまは母さまじゃなくなったんですけどね……」

「どういうことだ?」

「わたしの母さま、イリアさまは本当の母さまではないんです。わたしたちアピスの白子は『神子』と呼ばれています。わたしの本当の母さまは藍猫さまなのです」

 わたしは挿絵を撫でながら、イリアさまの優しい声を思い出していた。わたしを包み込むような、優しくて暖かい声音。柔らかい体と腕の感触も未だに覚えている。

「わけわかんねぇな。藍猫ってその猫だろ? 猫が母親のわけないだろ」

「わたしも初めはそう思いました。ですが、この国ではそれが真実なのです。わたしは藍猫さまを差し置いて、イリアさまを母と呼んではいけないのです」

「変な話だな」

「そうでしょうか。そういうものだとずっと思っていました」

「普通じゃねぇよ。変だよ」

 きっぱりと言われて、わたしは目が覚める思いがした。確かに、"猫が母さまなんておかしい"と八歳のわたしも思ったはずだ。なのにどうして、わたしはそれを疑問に思わなくなったのか。

 主教さまは嘘を吐かないと思っていた。教典に書かれたことはすべて正しいのだと思っていた。まさか三人目の白子がいるなんて思ってもみなかったし、主教さまが前任の白子と特別な関係を築いていたなんて思いもしなかった。

 主教さまも教典も嘘を吐くと言うのなら、母親のくだりも嘘なのかもしれない。わたしの本当の母はやっぱりイリアさまで、わたしは主教さまに真実を誤魔化されているのかもしれない。

 わたしと瓜二つな姉さまの顔が浮かぶ。そしてリリムとそっくりなサリーの顔が浮かぶ。白子は人間の母親から生まれたただの人間なのかもしれない。それならどうして白子は藍の都に行かなければならないの? 普通の人間としてこの都で暮らしてはいけないの?

「ルカさんのお母さまはどんな方なんです? ルカさんも普通の人間の母親から生まれたんですよね?」

 わたしはなんとなくそう尋ねた。別にルカさんの素性を詮索したかったわけではない。ルカさんは少し沈黙して何かを考えていたようだけど、特に気にする風もなくこう言った。

「ただの村女だよ。家畜の世話と、畑の世話しかできないただの村女だ。少なくとも"お母さま"なんて呼ばれるような奴じゃねえよ」

「そうですか。家畜と畑のお世話ができるなんて、すごく素敵な方ですね!」

 わたしも何気ない調子でそう答えた。思えばルカさんが自分の素性らしきことを語ってくれたのは、これが初めてのことかもしれない。

 ルカさんはそっぽを向いて、これ以上話したくない雰囲気を醸していたのでわたしは話題を変えることにした。

「そういえばルカさん、さっきこう仰いましたね。『お前のお陰で読めるようになった』って」

「言ったが……」

 それがどうしたと言わんばかりの表情に、わたしは目いっぱいの笑顔を贈った。それはわたしの照れ隠しでもあった。

 わたしは笑顔で自分を鼓舞し、意気地無しのわたしに無理矢理にこの一言を言わせたのだった。

「それなら、ルカさんはわたしにお礼をしなければなりません。だからルカさん、わたしと一緒にお祭りに行きませんか?」

「は?」

「わたしとエリスフェスタに行きましょう!」

 ついに言ってしまった。わたしの心臓はバクバクと音を立てていた。笑顔を張り付かせ、何気ない風を装っているつもりだけど、ぴくぴく痙攣する頬に気付かれたら、それが強がりであることが一瞬でバレてしまうだろう。

「…………」

 ルカさんの反応が薄い。わたしは不安になって、もう一度言う。

「わたしと、お祭りに行ってほしいんですけど……」

 駄目だわ、弱気になっちゃ。わたしは震える膝を手で押さえて、笑顔を作り直した。

 だけど時間が経つとともに、わたしはちゃんと笑顔が浮かべられているのかがわからなくなっていき、ついに両手で頬を抑えて無理矢理に引き上げる形となる。

「…………」

 ルカさんは困ったような顔で、黙っていた。もう、何か言ってよ、お願いだから! わたしは限界を感じて、震える膝に両手を叩きつける。そして最後の力を振り絞って作った笑顔で、弱々しくこう言った。

「わたしとなんて行きたくないですか? エリスフェスタ、今日から始まっているんです。外が賑やかなの、ご存知ですよね?」

 たとえ今日一日外に出ていなかったとしても、朝一番の花火の音は聞こえたはずだ。当然知っているものと思っていたけど、もしかしたら気付いていなかったのかもしれない。

 ルカさんはようやく理解した風に目元を緩めると、返す刀でこう言った。

「別にお前と行きたくないわけじゃねえけど。どうやって行くんだよ。俺はこの部屋の外には出られねぇんだぞ」

「…………」

 わたしはがっくりと肩を落とす。わかっている。わかっているのよ。だけどね、違うのルカさん。

 わたしの明らかな落ち込みように、ルカさんは少し責任を感じているようだった。

「どうした? 何かおかしなことを言ったか?」

「いえ、その通りです。そうですよね。はい、そーですぅ」

 わたしは口を尖らせて投げ槍に言った。ルカさんはわたしが気分を害した理由をまるで理解していないらしい。肩をすくめて机の方に向き直り、羽ペンを持つ。わたしはその様子を半泣きになって眺めた。

 分かっているのよ。わたしたちが普通のカップルのように、お祭りに参加できないことくらい。わたしだってばあやの許可が下りた人としか一緒に外に出られないし、ルカさんはもっと監視がひどいだろう。街にはわたしたちの顔を知っている人もいる。その人たちに姿を見られたら大騒ぎになるかもしれない。二度とふたりで会うことが出来なくなるかもしれない。

 わたしたちは一緒にお祭りを回れない。いいえ、″回ってはいけない″のだ。

 だけど、去年姉さまとテオドアは一緒に過ごすことができたらしい。わたしたちだってどうにかすれば、一緒に過ごすことができるはずよ。それを一緒に考えてほしかった。ううん、″一緒に考えよう″と言ってくれるだけで良かったの。"一緒に行こう″と言ってくれるだけで良かった。″行こう″と言ってくれるだけで、わたしは救われたのよ……。

 わたしは落ち込みながらも、少しでもプラスに考えようとする。

 ルカさんは言ってくれたわ。『お前と行きたくないわけじゃない』って。それだけでいいじゃない。その言葉だけで幸せと思いなさい。贅沢なのよ、カノンは。贅沢すぎるのよ。わたしは無理矢理に口角を上げる。するとちょっとだけ元気になったような気がした。

 わたしは鞄に入れてきたものを思い出して言った。

「そ、そうだ、ルカさん……わたし、パンを持ってきたんです。青の道の上流にある、アリアドルという街の料理人さんが作ってくれたバゲットで、ほんのり塩味が美味しいんです!」

「いらない」

「そんなこと言わずに、一口だけでも」

「いらないから、ひとりで食えよ」

「…………」

 わたしは大きなため息を吐いた。駄目だわ、わたし、この人と仲良くなれる気がしない。わたしは力のない笑顔を浮かべてルカさんに告げる。

「変なこと言ってごめんなさい。じゃあわたし、今日は帰りますね……おやすみなさい」 

 ルカさんの返事も待たず、わたしは床の穴に飛び込んだ。がむしゃらに自分の部屋に戻り、鞄を投げ、靴を脱ぎ捨て、ベッドに倒れこむ。

「うう……ううう」

 わたしは枕に顔を埋めて涙した。止めどなく流れ出る涙を、乾いた羽毛に吸わせ続けた。

 どうしてこんなに悲しいんだろう。望みが叶わないことくらい、今までたくさん有ったじゃない。どうして今日はこんなに悲しいのかしら。わけがわからない情動に身を任せて、わたしはひとり泣き続けた。泣いて泣いて泣き疲れて、いつの間にやら眠りについていた。

 朝日にまぶたを焼かれて目を覚ます。日付が変わって、エリスフェスタの二日目。わたしはその朝を、腫れ上がった目で迎えてしまったようだった。



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