第五章(4)
「大体目を通し終えたが、これはなんかの宗教の本だな。章分けされていて、十二章まである」
「へぇ。どんな内容なんですか?」
「タイトルは、『預言書』。第一章は、『黎明』」
ん? わたしは唸った。なんだか聞いたことのある文言ね。
「『初めは、暗闇であった。神は暗闇に降り立ち、光を放たれた。光の名は"アルス"。神はアルスに言った。この地は"サイグラム"、お前はわたしの子。アルスよ、この地に国を建てよ。わたしはお前の国に光の泉を贈り、汝の力となろう』」
「…………」
あれ? やっぱり聞いたことがある。でも、わたしはルカさんの朗読に戸惑う。本当にそんなことが書いてあるの? わたしは動揺しながらも、もう少し話を聞くことにした。
「『アルスが頷くと、アルスの姿は神と同じものとなる。手足を持ったアルスが光から一歩踏み出すと、大地が現れた。アルスは足を踏み出し続け、広い大地を作った。アルスは望んだ。この広い土地にたくさんの民が暮らし、たくさんの笑顔であふれんことを。アルスは名付けた、その土地の名は』」
「『"アシュリー"』……ですよね?」
わたしはたまらず、その単語を声に出す。ルカさんの翻訳は微妙に違っているけど、その朗読はわたしが読み慣れたラウドの書の冒頭にある序文と瓜二つだったからだ。
「知ってるのか?」
「はい。ルカさんが読んだ文章は、わたしたちの教典の序文とほぼ同じです」
「教典?」
「『ラウドの書』という聖なる書です。ラウドさまはアピス国の最初の白子として神官になった聖なるお方。彼が藍の都で見聞きしたことを書き記し、アピスの初代国王アリアトさまに託したものがラウドの書と呼ばれる聖書です」
ラウドの書の序文は、古き神との約束の書『アルスの預言書』の第一章を参照していると記載してある。毎朝の礼拝では読まれない部分であるから、写本を読んだことのない人は存在すら知らないらしいけど。
「もしかしてですけど……この本は『アルスの預言書』なのではないでしょうか」
「アルスの預言書?」
「アピス国の建国前にあった古の国家を"アシュリー"と言います。そのアシュリーで教典として用いられていたのが『アルスの預言書』と呼ばれる聖書です」
アルスの預言書は、現在のアピス国には存在しない。ローダさまの話によると、建国時に焚書されてしまったらしいけど、本当のところは謎である。
そして近年の修道院では、この本が"旧約の書"として禁書指定されているという噂が湧いていた。禁書指定されているということは、"旧約の書"というのは現在の教義とは異なっている、あるいは藍猫さまを冒涜するような内容が含まれていると言う意味になるのだけど。
「どうしてこんなものが、教会の地下に……」
旧約の書というのは単なる噂話に過ぎない。だけどこの本は実在する。しかも"神さまの言葉"で書かれた本格的なものだ。紛れもなく本物の『アルスの預言書』、おそらく"原書"だ。
写本ですらないから、書かれている内容は、アルスさま本人が神さまの言葉をそのままここに書き入れたということになる。わたしの体は今更ながら震えてきた。
「要するに、昔に使っていた本で、今は使ってない粗大ゴミってことか」
「どうしてそんな言い方をするんですか! 貴重な史跡ですよ。古き神との約束の書は、あのラウドさまも信仰していた聖なる書なんです!」
わたしはラウドの書の第一章『黎明』について簡単に説明した。
アピス国ができる前、この地はアシュリーという名前の国だったのだけど、その国では『アルスの預言書』という名の教典が存在した。アシュリーの人々は神に愛されていて、死後は楽園で復活できることを約束されていたけれど、アルスさまの死後アシュリーの民は百年もしないうちにその教えを手放してしまう。
……異教の神の洗脳を受けたからである。
このままではアシュリーの地に藍猫さまが降臨されることはない。ラウドさまはそれをおそれて、神が宿りし空に向かって七日、海に向かって七日祈り、より神に近付くべく海に身を投じた。
目が覚めたのは"藍の都"。それは人間の世界から遠く離れた、生者が足を踏み入れることを許されていない外なる海の先にあった。
藍猫さまはラウドさまから告白を受け、神官たちに"死者の門"を作るよう命じた。これから人は無条件に楽園には召されない、"魂の審判"を行うことを神官たちに告げる。そしてその"審判の基準"を正確にアシュリーの民へ伝えるべく、ラウドさまを人間界に転生させて、ラウドの書を書き残させたのである。
「ラウドの書は、二章から九章まで、この"魂の審判"の基準を表す話が続きます。教会の聖職者はこれを『八戒』と呼び、全ての国民が守るべき戒律として国中に広めています」
「お前がこの間言ってたやつか。どういう奴がどんな門を潜って、っていう」
「その通りです」
ルカさんは意外とわたしの話を覚えてくれている。興味がなさそうにしているけど、ちゃんと聞いてくれているのね。
ルカさんは石の本の頁を捲りながら言葉を続けた。
「こっちの本にもそんな話が書いてあったな。一の門とか二の門とかいう話は無かったが」
「どんな内容なんですか?」
わたしの問いかけに、ルカさんは石の頁を捲りながら順番にその内容を読み下してくれる。
「第二章、『富めるものとなれ』
第三章、『聡明なるものとなれ』
第四章、『分かち合うものであれ』
第五章、『義務を果たせ』
第六章、『讃えるものであれ』
第七章、『導くものであれ』
第八章、『闘争するな』
第九章、『母なる神を愛せ』」
「へぇ……ラウドの書の八戒と似ていますね」
「でも、こっちの本には罰則みたいなことは書いてないぞ。ただの努力目標みたいなもんなんだろうな」
要するにラウドさまは、アシュリーの民がこれらの教えを守っていないと嘆き、神の国へ単身向かわれたわけだ。そしてその報告を受けた藍猫さまが、死者の門という罰則を付けて今に至るということなのね。
わたしは内心で納得しかけたけど、少しの引っ掛かりを覚えて首を捻った。
「ルカさんの話を聞いている限り、アルスの預言書はラウドの書とあまり変わっていないようです。なのにどうして焚書されてしまったんでしょう」
「焚書された?」
「はい。この国のお姫さまがそう言っていたんです。アルスの預言書はアピス建国時に燃やされてしまったんだそうです。市民が隠し持っていた写本が今になって何冊か発見されていて、"旧約の書"という別名をつけられて回収されているとかいう噂まであるくらいです」
わたしの話を聞いて、ルカさんは腕を組み思案する。なにか思い当たることがあるのか、重そうな石の頁を何枚か捲り、とある箇所を熟読し始めた。
「どうしたんですか、ルカさん」
気になってわたしもその場所を覗く。頭の中に大量の情報が入って、すぐに消えていった。わたしの脳裏にはチカチカした糸屑のようなものしか残らない。
「多分、この章のせいだろうな」
「この章?」
「第十二章、『黄昏』」
「この本にも、黄昏の章があるんですか?!」
わたしはついルカさんの手元を覗いてしまって、再び同じチカチカを生じさせた。両目をゴシゴシとこすり、頬をパチンと叩いてから、わたしはルカさんに視線を向ける。
「ラウドの書の第十二章も、『黄昏の章』と呼ばれています。黄昏の章には、主に白子のことが書かれています」
「こっちの本にも、白子のことが書かれてる」
「どんなことが書かれているのですか?」
「…………」
ルカさんは何故だか、この問いに沈黙した。あまりに長い沈黙だったから、わたしはもう一度同じ質問をする。
「どんなことが書かれているのでしょう」
ルカさんはやはりその問いに答えず、石の本の頁を閉じてしまった。
「どうして閉じちゃうんですか!」
踵を返し祭壇の前から立ち去ろうとする彼に、慌ててわたしは追いすがる。
「意地悪しないでくださいよ、気になるじゃないですか」
「…………」
「ルカさん!」
ルカさんは水路の縁まで進んで、ようやくピタリと足を止めた。そしてこちらを振り返って口を開く。
「俺の見解の方が合っていたとしたら、お前はいい気分がしないだろ?」
「え……」
「知らない方がいいこともある。多分、あれは今のお前には必要ない情報だよ……」
そう言い残し、彼は水路を飛び越えて行った。わたしは呆然とそれを眺め、言われた言葉を反芻する。
「『俺の見解の方が、合っていたとしたら?』」
何の話だろう。わたしには必要ない情報って何? わたしは理解できないながらも、ザワザワとする心に戸惑いを覚えた。
わたしたちは色々な意見について見解が異なった。藍猫さまの教えを受けていない彼は、藍猫さまのこともよく思っていないみたいだし、教典の内容にも疑念を抱いているように思える。
彼が一番理解を示してくれないのは、前世の話だ。零の門を潜れた清らかな魂の中でも、特に藍猫さまに気に入られた者が白子として再生される。
それを彼は信じようとしない。彼は自分の悪夢を前世だと断じ、前世を尊重しようとしない。自らの魂に誇りと愛情を感じようとしない。
ルカさんが帰ってしまったので、仕方なくわたしもとぼとぼと自分の部屋に向かう。懲罰房の床に顔を出そうとしたとき、ふと″あること″を思い出した。
わたしは丁寧に張られた板の一枚をはがし、中の空洞に手を入れた。引っ張り出したのは、二枚の油絵。木枠からはがされクルクルと巻かれたそれを開くと、二枚の人物画が現れる。
わたしがこれを見つけたのは、数日前だった。ルカさんに謝りに行くか行かないか、モヤモヤとしていた時に偶然これを見つけた。最初に見たときは、微笑ましい記録としか思わなかったけど……。
わたしの手元にある油絵。一枚目は抽象画かと思うほど、何を描いてあるのか一見わからない下手……いえ、芸術的な絵。右下に『サリー=サナトリム』というサインが書いてある。もう一枚は、長い銀髪をサイドにまとめた麗しい女性の絵。右下には、『オズワルド=アピスリム』というサインが書かれている。
多分、この二枚はお互いを描きあった肖像画だ。わたしはこの絵を見て、確信した。サリーの言う『オズアルド君』が、オズワルド主教さまだということ。そしてサリーはこれらをここに隠すほど大切にしていたということ。
「サリーは主教さまのことを愛していたのよ……」
わたしは主教さまが描いたサリーの絵を眺める。白子の証である長い銀色の髪が見事に描かれていた。その顔立ちは、先入観もあるのかもしれないけど、やっぱりリリムにどことなく似ている。
わたしは今までの出来事で理解してしまった。サリーの備忘録に述べられている内容のほとんどを。
サリーは宣誓の詞に違和感を持ったあとに、『泣き虫のオズアルド君』と共に地下に降り、地下にある真実『アルスの預言書』を目にした。
サリーはその内容に衝撃を受けたものの、愛するオズアルド君のために受け入れることを決めた。そして神さまの言葉が読めずに戸惑うオズアルド君に、彼女は嘘を吐いたのだ。
おそらく、ルカさんがわたしにしたように。主教さまを不安にさせないために、サリーは不都合な真実に蓋を被せた。
わたしはベッドに横たわり、ぼんやりと天井を眺める。しとしとと壁を打つ雨の音。いつもより激しいその音に、わたしは思った。
もうすぐ雨季が来る。そして雨季が終われば、夏季が始まる。夏季と言えば、エリスフェスタだ。
それまでにテオドアを見つけることができたなら、姉さまはまたテオドアと楽しい時間を過ごすことができるのかしら。
わたしの胸がキリリと痛む。姉さまの手紙と、サリーの手記が交互に頭をよぎる。
「眠らなきゃ。明日はまた、ラピス・ユニアンで忙しいんだから……」
わたしはため息をついた。深い深いため息をついた。
わたしの脳裏には、愚かにもこんな考えが浮かんでいた。
ーーわたしは一体、誰のために頑張っているのだろう。ーー