第五章(2)
「『××の記憶は、三回目の……』」
いくつかの単語が、掠れていて読めない。だけど今のわたしは、なんだかそれが読めるような気がした。
「『前世、の記憶は、夢、で確信』?」
『前世』と『夢』だ、掠れていた文字は。たぶんそうだ。
「サリーってやつも、変な夢を見ていたのか」
「そうかもしれません」
わたしは次の一文に目をやる。
「『正礼拝の××に違和感を覚えたのもこの頃。オズアルド君と地下へ……』」
これ以上は紙が痛んでいて読めない。正礼拝の何に違和感を覚えたのか。わたしは懸命に考えるけど、特にそれらしい言葉は思い浮かばない。
「正礼拝っていうのは、あの気持ち悪い集まりのことだよな」
「気持ち悪いと言われると困っちゃうんですけど、あの集まりです。ルカさんがテオドアさんの代わりに参加させられている礼拝です」
「そういえば。その礼拝の件で、お前に聞きたかったんだが……」
ルカさんはふと思い出したように、わたしを見る。
「はい、なんでしょう」
もしかしてこの間、わたしに質問しようとしてくれたことかしら。
前回ルカさんは"聞いても仕方のないことは聞かない"と言って、質問を飲み込んでしまったけど。今回のルカさんは、その質問を躊躇わずに口にした。
「あの会でお前が言ってたこと、あれ、本気なのか?」
「え?」
何を聞いてくるかと思ったら。わたしが正礼拝で言っていたこと?
……何か言ったかしら。あの礼拝は雑談禁止だし、主教さまとだってほとんど会話はしていないはずだけど。
全く見当がつかずにぽかんとするわたしに、ルカさんは怪訝そうにこう言った。
「言ってたじゃねえか。――――、――――――って」
「え?? すみません、今、なんて?」
「だから、――――、――――――、――――――――――」
「…………!!」
わたしはルカさんの質問の趣旨を理解して、腰が抜けそうになった。
「あの、それ、その……」
わたしは上手く舌が回らずに、身振り手振りで気持ちを伝える。
「どうして、それを、メモを見ずにスラスラと?」
「は?」
ルカさんは事の重大さを全く理解していない。慌てふためくわたしを尻目に、もう一度スラスラとその呪文を口にして見せた。
「――――、――――――、――――――――――だろ?」
「わー! わー! もういいです、もう言わないで!」
わたしは爆発しそうな頭を抱えて、必死で訴える。その詞を聞くと、頭がおかしくなりそうになるのよ。
耳に入ったとたん、その音を認識することを頭が拒んで、反対側の耳から出ていく。そんな感覚が脳内をかき乱す。
「どうしてその詞を、ルカさんは暗唱できるんですか?」
わたしは涙目になりながら訴えた。下手な質問をしたら彼を怒らせてしまうかもという考えは完全に頭の中から消えていた。
幸運にも、この質問は彼の怒りには触れなかったらしい。
「どうしてって。普通にわかるだろ」
「わかりませんよ。それは、『神さまの言葉』です。普通の人間は、理解できない言葉なんですよ!」
「……!」
わたしの答えを聞いて、ルカさんの顔色が変わっていく。
やっと事の重大さに気が付いたのね、わたしがほっと一息ついた一方で、ルカさんは眉間に深いシワを刻みながらこう呟いた。
「お前、まさか。意味も分からずあんなことを言ってたのか……?」
「え?」
"意味も分からず、あんなこと?"
どうやらわたしとルカさんは、お互い違う内容について驚いているらしい。彼の発言の意図が分からずに、わたしは素頓狂な声を上げる。
「あんなことって? どういうことです……」
「だからお前、そんなに能天気に生活してるのか? 俺と同じ立場なのに」
「わかりません、ルカさん。なにを仰っているんですか?」
「………………」
ルカさんはわたしに見たことのない表情を向ける。それは憐れみの表情のように思えた。どうしてそんな顔をされるのかわからず、わたしはただ呆然とする。
正礼拝の『宣誓の詞』。わたしが八歳の時に白子の運命を背負わされてから、年四回、ずっと唱えさせられてきた言葉。
羊皮紙に刻まれた、人間には読めない言葉。その上に書かれた発音記号だけが、かろうじてわたしの瞳に映るのだけど、その意味のない発音記号ですら、読み上げた後は頭に残らず霧のように消えてしまう。
あれは、何なの? 何が書いてあるの? わたしは藍猫さまになんと言わされているの?
「ルカさん……どうして、黙っちゃうんですか」
そこまで言っておいて、今更口を閉ざすのは卑怯じゃない?
「教えてくださいよ、ルカさん」
ルカさんは酷く躊躇している様子だったけど、諦めずに答えを待つわたしに、ついに根負けしたように口を開いた。
「お前が言っていたのは……この国の言葉で言うと、こんな感じかな」
ルカさんの口が動く。今度ははっきりと聞こえた。耳から入ったその発音は、頭の中で霧散せずに一単語ずつ集約されていく。
「『あなたにこの心臓を捧げ、あなたの人形となることを誓います』」
………………。なにそれ。ルカさんの言葉にわたしは背筋が凍った。
「心臓を捧げる……?」
それは全く思いもよらない、恐ろしい内容だった。
「あんなことを堂々と口にしているから、俺はてっきり、お前はそうなることを分かったうえでこの国で暮らしているんだと思ってた」
「知りませんよ! そんな、そんな……」
心臓を捧げる? 人形になる? どういうこと? 白子は藍猫さまの元へ赴いて、神官になるんじゃないの? 神さまの一員となって、永遠に藍猫さまの臣下として暮らすんじゃないの?
「何かの間違いですよ! 心臓って言っても、何かの比喩なんじゃないですか? 心臓ではなくて、″心を捧げる″なのかもしれません。人形というのも、ただ藍猫さまの手足となるという意味なのでは?」
そうよ。藍猫さまは慈愛にあふれた母神として、ラウドの書に描かれている。神民への審判の時は、ちょっと冷たいと感じることもあるけれど、彼女の神官に対する態度はとても暖かい。
藍猫さまと神官との問答は、ラウドの書の中でもわたしが特に好きな部分だ。彼らは"主と臣下の関係"というよりは、信頼関係にある親子のように思える描写が多い。あんな風に藍猫さまに接していただけるのなら、神官になるのも悪くない。わたしはそれだけを心の支えにしていたのに。
心臓を捧げる? 人形にする? なにそれ。そんな冷酷なフレーズは『真なるお母さま』、藍猫さまに相応しくないわ!
「いやだなぁ。ルカさん、変なこと言わないでくださいよ。わたし、ちょっとびっくりしちゃったじゃないですか……」
わたしは笑顔を張り付かせてそう言ったけど、ルカさんの憐憫の表情は変わらない。彼はそれ以上わたしに反論せず、違う話題を切り出してきた。
「さっき、サリーのメモに書いてあったよな。正礼拝のなんとかに違和感って。その読めない単語、『呪文』とか『詞』じゃないのか?」
「え……どうでしょう……」
わたしは掠れた文字を見る。そう言われてみると、そのような単語に読めないでもない。
「もしかしたら、『宣誓』かもしれません。サリーは堅苦しい言葉を使うのが好きみたいですから、ここを旧字体で書いて、しかも一文字間違えているとすると……」
「別になんて書いてあってもいい。俺が気になってるのは、サリーというやつが、あの『宣誓の詞』に違和感を覚えていたんじゃないかということだ」
「えっとそれは、サリーがあの言葉の意味を理解していたということですか?」
「ああ。もしかしてお前の言う『神さまの言葉』、俺たち白子はみんな識字できるようになるんじゃないのか。例えば、前世の記憶を取り戻した後、とかに」
「え……?」
理解が追い付かず、混乱しているわたしを置き去りにして、ルカさんは次々と仮説を立てていく。
「そうだ。白子の前世はおそらく、その『神さまの言葉』を使っている国の人間だった。だから前世の記憶が戻ったとき、白子はその言葉を理解できるようになるんだ。だからサリーもテオドアも、あの文字が読めて」
「ちょっと待ってください。わかりませんルカさん」
わたしは必死で彼を止める。だってルカさん、わたしに教えてくれていないことがあるじゃない。
「それは、その……。ルカさんも前世の記憶を取り戻しているということですか?」
「……ああ。俺は何度も同じ夢を見る。あれが前世っていうのは、お前に言われるまで気付かなかったけどな」
「同じ夢を見るからって、それが前世とは限りませんよね」
「いや、あれは前世だ。でなけりゃ、あんなに生々しく思い出すもんか」
ルカさんは歯をギリリと鳴らす。
いけない。この話を続けてはいけない。わたしは慌てて話の筋を逸らした。
「えっと、サリーがあの言葉を聞き取れるようになっていた可能性は、わかります。サリーの手記には確かに、『宣誓に違和感』と書かれているようですから。でも、テオドアさんもあの文字が読めたというのはどういうことですか?」
「それは……」
ルカさんは目を伏せ、何かを思い出すようなそぶりを見せる。一呼吸置いた後、彼は徐に立ち上がると、部屋の隅のほうに歩いていき、散らかった床を片付け始めた。
わたしは彼の様子を黙って見守る。床から物を取り除いた彼は、しばらくランプで床を照らしていたけど、今度は立ち上がって天窓の方を見上げる。
「駄目か……」
「なにをしているんですか?」
我慢できずにわたしがそう聞くと、ルカさんは再びしゃがんで、床の一点を指さして言った。
「昼間に天窓から日の光がまっすぐ差し込むと、この床に文字が浮き出てくる」
「え?!」
わたしは駆け寄って、彼の指が示す場所を見た。
それは以前わたしが吸盤で持ち上げたつるつるの石と同じもの。地下への抜け穴の入口の石を動かす仕掛けが隠されている、あの場所だった。
「文字が? 浮き上がるんですか?」
「ああ。こんな文字が……」
ルカさんはそう呟いて、近くにあった紙片と羽ペンを拾う。そしてそこにすらすらと何かを書きつけた。
その様子に、わたしは違和感を覚える。……あれ? ルカさんって、文字の読み書きはできないんじゃなかったっけ。
その姿は、文字を書くことに慣れているような、ペンの扱いに熟達していることが容易に伺えるものであり、文字が書けない人にはとても思えない。
だけど手渡された紙片は、わたしの想像を超えるとんでもないもので、わたしは再び腰を抜かした。
「あわわわわ、何を書いているんですか!」
わたしは紙片をルカさんに押し返し、頭を抱える。
「こんな文章が書いてあんだよ」
「それ、神さまの言葉じゃないですか! ルカさん、聞き取りだけじゃなくて読み書きまでできるんですか?」
「ああ。この言葉だったら、できる」
そんな人間がこの世にいるなんて、信じられない。わたしはプルプル震えながら、尋ねてみた。
「それ、なんて書いてあるんです……?」
「『真実を知りたくば、地下への扉を開くがいい。四肢は七つ目を欲せど、頭は七つ目を欲さず』」
「はあ……?」
謎かけのような言葉に、わたしの頭は疑問符に満ちた。だけど、なんだか聞いたことのあるようなフレーズね。わたしは座っていた場所に戻り、サリーの本を手に取った。
「『地下の真実に首を突っ込む愚者』……」
「なんだそれ」
「サリーの手記に、そのような文章があるんです」
「地下の真実……」
ルカさんは熟考に入ったけど、どうにも見当がつかない模様。一方わたしはすぐに一つの可能性に行き当たる。
「そういえば地下に、神さまの言葉で書かれた本がありました。ルカさんは見たことがありますか?」
「いや……俺はあまり深くまで入ったことがないから」
「地下の真実とは、あの本のことではないでしょうか。わたしには全く読めませんでしたけど、正礼拝の呪文を聞くことができたサリーになら、解読できたのかもしれません」
「そうか。じゃあ、テオドアってやつもその真実を見たのかもしれないな。それで、ここから逃げ出したくなったのか?」
ルカさんは合点がいったようにそう呟いたけど、どうしてテオドアも読めたという前提になっているのかが、わたしにはまだわからない。
「どうしてテオドアさんが、あの言葉を読めたと思うんですか?」
「そりゃあ、床の文章を見ないと地下に抜け穴があるなんて思いもしないだろうが」
確かに。わたしは手を打つ。わたしにはサリーの備忘録があったから、床の暗号が読めなくてもあの場所にたどり着くことができたけど、テオドアには他に手がかりが無かった。
ということは、彼は唯一の手がかりである床の暗号を見つけ、それを解読できたという結論になる。テオドアは姉さまの手紙を抜け穴に隠していたのだから、抜け穴の存在を知っていたのは確実なのだ。
「こじつけだが、"四"肢は"七"つ目を欲せど、頭は"七"つ目を欲さず、というのが鍵の番号を示しているだろ」
「確かにそうですね。こちらは四・七・七なんですものね」
ということは、禾穂の方の床には違う文章が書かれているのかしら。わたしに読むことはできないから、確かめようがないけど。
「テオドアはあの不気味な集まりのあの詞が理解できた。おそらく去年の七月以降から。あの集まりは年四回あるんだよな? そうすると、去年の十月の礼拝で"違和感を覚えた"んだろう。サリーと同じくな」
「違和感……」
確かに十月の正礼拝で、テオドアは宣誓の詞に詰まってしまったような気がする。でもそれはいつものことだったし、気にしなかった。この詞の発音は難しいから、わたしも詰まらずに言えるようになったのはつい最近のことだ。テオドアが詞に違和感を覚えていたかなんてわたしには判断できない。
「不気味すぎるだろ。心臓を捧げる? そんな要求をしてくる神なんてろくなやつじゃねーよ。テオドアがこの国を逃げ出したいと思うのは正常な反応だよな」
「そんなことありません! テオドアさんは仮にもアルベルト派の白子ですよ?」
ルカさんの暴言にわたしはつい熱くなり、石床を力一杯叩いてしまった。ペチリという情けない音と共に、ジンジンと手のひらが痛む。
「いくらあの詞がルカさんの言う通りの意味だったとしても、テオドアさんは逃げ出したりなんかしませんよ! 馬鹿にしないでください! 彼はアピス国の白子なんです!」
わたしの頭に、サリーの備忘録の三頁目の文章が過った。
『×××こともできるけど、わたしは八戒に殉じましょう。アピスの民と、オズアルド君のために。』
今ならあの文章が読める気がする。おそらくサリーはこう書いたのだろう。
『"逃げる"こともできるけど、わたしは八戒に殉じましょう』ーー。
「テオドアさんが姉さまを置いて逃げたなんてありえません。ルカさんは彼らがどれほど仲睦まじかったか知らないから、そんなことを言うんですよ」
「このまま白子としてこの国にいると、生贄にされちまうんだぞ! 死ぬのが怖けりゃ逃げるだろ」
「生贄なんて言い方やめてください! 藍猫さまはわたしたちの母親です。わたしたち白子は、真なる母さまの元へ帰らなければならない。たとえどんなことがあっても帰らないといけない。そういう決まりなんです!」
わたしたちに会えない寂しさで藍猫さまは涙を流していると、イリアさまは言っていた。
衰退の節に入ると、藍猫さまはさらに涙を流す。噂によると、衰退の節は初めの一年は小雨が続くのだけど、二年、三年と進むうちにどんどんと雨がひどくなるらしい。
衰退の節に二人の白子が藍の都に向かうことで天候が回復し、次の周期の芽吹の節を迎えられる。
アピス国は今まで五回、この周期を繰り返してきた。ふたりの白子を旅立たせ、衰退の節から芽吹の節を迎えてきた。必ずふたりで藍の都に向かう。これは十二章に書かれた絶対の約束事だ。
もしテオドアがこの三年のうちに戻ってこなく、わたしだけが藍の都に参上することになってしまったら、一体どうなってしまうの? 藍猫さまはどう思われるの? 白子を守り抜けなかったアピスの民に罰を下すのではないの?
「絶対にテオドアさんは逃げたりしません。彼は絶対に責任を果たします。だって、彼はアピスの白子なんですよ? アピスを愛していますし、姉さまに幸せになって欲しいと願っているはずです。心臓を捧げるなんて脅されたくらいで彼の魂はへこたれません。なんたって、彼の前世は藍猫さまに選ばれた清らかな魂なんですから!」
わたしは夢中になっていた。自分の心に取り憑いた不安を振り払うために、必死になっていた。
わたしは怖かった。今まで信じてきたものが壊れるのが怖かったのだ。
自らを奮い立たせるためだけにわたしは喋り続けた。今日は余計なことを言わないという決意は、もはやわたしの頭から消え去ってしまっていた。
「わたしだって、母さまや姉さま、ばあや、国のみんなを愛しているから、逃げたりしません。絶対に神官になってみせます。地下にどんな真実が隠されていようと、サリーさまのように勇敢に振る舞います。それが神官になるひとつの試練なのかもしれませんから! そうですよ、試練なんですよ、これは!」
後になって思えば、この時わたしの発言のひとつひとつに、ルカさんは傷ついていたのかもしれない。わたしは彼に対する配慮を完全に欠いていた。彼がわたしなんかより不安な日々を送っていることをすっかり忘れてしまっていた。
「ルカさんは、この国の白子を知らないからそんなことを言うんです! 死ぬよりも怖いことって、たくさんあるんですよ。わたしたちには、自分の命よりも大切なものがわかっています! だからテオドアさんは絶対に……」
肩で息をしながらそこまで言ったところで、わたしはようやくルカさんの異変に気が付いた。
「絶対に…………」
ルカさんは、生気のない顔をしていた。その目には光がなく、わたしを見ているようで見ていない。わたしの先にある部屋の暗がりを見ているのかと思ったけど、彼はどうやらどこも見ていないようだった。
「ルカさん……?」
ルカさんはわたしの声に応じず、どこか虚空を眺めながら、徐々に背中を丸めていった。
いかにも具合が悪そうに、胸の辺りを握りしめている拳が、ブルブルと震えだした辺りでわたしは自分の愚かさを呪った。
「あの、ルカさん……」
謝ろうと思ったけど、わたしの声はもはや届かない。わたしは近くに尖ったものがないか、危険なものはないか確認し、そっと椅子を背中に隠す。その行動は幸いにも彼を刺激することはなかったけど、全くもって無駄な行動であったことがすぐにわかった。
「そうだな、死ぬより怖いものは、たくさんあるんだよな……」
ルカさんはそう呟き、口元を歪める。それが笑っているわけではないことはすぐにわかり、わたしは嫌な予感に満たされた。彼はいつの間にか解いていた握り拳を自分の喉元に持ってきて、猫が爪を立てるように指を曲げ、思い切り突き立てる。
「や、やめてください!」
彼は苦痛に顔を歪ませながら、爪でガリガリと喉を引っ掻き始めた。ものすごい力で掻いているのだろう、すぐに喉の皮膚は破れ血が滲みだす。
わたしは悲鳴を上げ、慌てて止めようとしたけど、彼の手は止まらない。ついに血が噴き出しこちらにまで飛んできたので、わたしは思わず後ずさった。
「そうだよ、お前らは立派でも、俺は違うんだよ!」
ガリガリ。ガリガリ。
「お前ら、みたいな、ご立派な人間じゃ、ねえんだよ、俺は、死ぬ、のが怖い、のが、そんなに、いけない、ことか、よ、わかってん、だよ、クソ……」
ゴポゴポと、まるで溺れているかのような変な音とともに、何かを喚き散らすルカさん。やがて言葉が発せなくなっても、ルカさんは何かを喚き、喉を掻きむしることをやめなかった。
こうなったらもう駄目だ。わたしは持ってきた鞄を掴んで床の穴に退避した。
もう、わたしの馬鹿馬鹿。どうして余計なことを言ってしまうのよ! 馬鹿馬鹿馬鹿!!!




