第二十四章(4)
「そうだ。そうだったよ。別に君に頼む必要はなかったね」
重力がなくなってしまったように、宙に浮くわたし。手足をバタつかせていると、耳元でバチバチと破裂音が鳴る。
わたしは雷雲にでも取り込まれてしまったのかしら。辺りはドップリと黒い霧に覆われ、所々に雷光が弾けている。
「初めからこの蛹を天子にするつもりだったんだ。ちょっとばかり計画が狂って君を生き残らせてしまったんだけど、僕は初めからルカを天子にするつもりだったんだよ」
強風に外套が翻り、剥き出しになった両腕の皮膚が裂ける。雷撃が掠めたのかもしれない。痛みと痺れを感じたけど、それよりも鼓膜が破れそうなほどの外音に思考を抉られるほうが不快だった。耳を塞ぎたくても手足が自由にならない。
頭に直接話しかけてくる悪意の声は良く聞こえた。抑揚のない、台本を読むような感情のない声。
「今から君を殺して、司彩を全部こっちに移す。そしたら俺が世界を再生する。シフトが発狂するくらいのめちゃくちゃな世界にしてやろう」
風に煽られて外套のボタンが引きちぎれた。あっと声を出す間もなく、首から下げていたパルフィートが飛んでいく。
わたしは手を伸ばした。届くはずもない手を懸命に伸ばした。だけどその小さな笛は、渦風に巻かれて高く高く上っていく。
思い出が消えてしまうーー。わたしは頭が真っ白になった。あれは思い出の結晶。アピスヘイルの、エリスフェスタの、母さまの、そしてルカさんの思い出の結晶。
真っ白になる頭に、誰かの微笑が響いた。その誰かはわたしを操作して、ひとつの彩謌を口にする。
わたしの指先から風が渦を巻く。生き物のように竜巻がパルフィートに向けて伸びていき、それを軽やかに巻き取って空高く上っていった。
「……!」
わたしの耳に、旋律が届いた。五倍音にも満たない、和音でもないただの笛のメロディー。なんの奇跡の力も持たないこの旋律が、どうしてこの場に流れてきたのだろう。
風は巧みに楽器を操作して、懐かしいあの曲を演奏してくれた。『ゆりかごの歌』、わたしの大好きなあの歌を、空いっぱいに響かせてくれた。
この旋律には、彩謌のような力はない。だけど彩謌にはない力があった。わたしの中に懐かしい情景がありありと浮かんでくる。
母さまの腕の中で、優しく揺られながら眠りに就くわたし。母さまに聞かせるために、長塔の上の部屋で何度も練習するわたし。そして……エリスフェスタの屋台の前で、わたしの演奏に微笑んでくれた優しいルカさん。
ルカさん。あなたも覚えてくれているかしら。楽しかったあの時を。思い出してくれるかしら。わたしとの記憶を。
ルカさん。ルカさん。ルカさん。…………。
わたしは悪意を見た。黒い煙の中心で、彼は醜悪な笑顔を浮かべている。彼はもう、ルカさんではないのかもしれない。あの中にはもうルカさんはいないのかもしれない。だけどわたしは祈った。ルカさんがまだそこにいることを願った。
「ルカさん! そんなやつに負けないでください。あなたならきっとやり直せます。やり直せますから……」
声がつまって出てこない。ボロボロと涙がこぼれる。わたしは泣いてばかりだ。ルカさんの前で泣いてばかり。泣いて弱々しく振る舞えば、ルカさんが優しい言葉をかけてくれると思っている。こんな状況になってもわたしは、そう思って泣いている。
わたしは歯を食いしばって、不自由な体を捻ってなんとか涙を拭った。そしてもう一度彼の名前を叫んだ。
「ルカさん! 戻ってきてください、ルカさん!」
ルカさん…………! わたしの思念に、悪意はびくりと体を震わせた。その顔は醜く歪んでいる。震える手が、懐から何かを取り出した。
「おい、何だよ……何をする気だ、お前……」
様子が変だ。明らかに様子がおかしい。悪意は手をブルブルと震わせながら、両手に何かを握りしめている。
何を持っているの? わたしは目を凝らして見た。それは銀色に輝く細い何かだった。
わたしは直感的に理解した。あれはナイフだ。食事に使うナイフだ。ルカさんたら、まだあんなものを隠し持つ習慣があったの……?
フォークよりも僅かばかりに殺傷力の上がったそれを、彼は自分の心臓に向ける。わたしの脳裏に虎白さまの姿が浮かんだ。血に染まる姿が目の前に投射された。
「やめてください!」
「やめろぉぉぉ!!!」
わたしと悪意は同時に叫ぶ。必死に抵抗する悪意の意思をはねのけて、ルカさんはナイフを、短いナイフをゆっくりと、確実に心臓に刺し込んでいった。
絶叫が響き渡る。とても聞いてはいられない、この世のものとは思えない苦しみの声だった。何やら言葉にならない恨めしい唸り声を上げながら、黒い煙がルカさんの心臓から噴き出してくる。
渦を巻きながらしばらくそれは空で暴れまわっていたけど、段々と拡散して薄くなっていく。
わたしの体はガクンと揺れ、自由落下を始めた。
ドスンと尻餅をつく。鋭い痛みに目の前に火花が散ったけど、そんなことには構っていられない。
わたしはルカさんを探した。彼もその辺りに落ちているかもしれない。
黒い霧はすっかり拡散して消えてしまっていた。辺りに広がる平らな地面は、空から照りつける白い光を反射して、うすぼんやりと発光していた。
「ルカさん……!」
見晴らしが良かったから、すぐにわたしはその人を見つけることができた。慌てて駆け寄って、うつ伏せになった体を起こす。
わたしの顔から血の気が引いた。彼の心臓からはおびただしい量の血液が流れていて、押さえても全然止まりそうもない。
「ルカさん……ルカさん……」
わたしは彼の名前を呼んだ。真っ白になった頬を叩き、体を揺すり、どうにか彼を起こそうとした。
反応がない。わたしの体はブルブルと震える。
「ルカさん……?」
冗談よね? だってルカさん、なにをやっても死ななかったじゃない。いくら心臓が弱点だからといって、不死身のルカさんが死ぬはずないわよね。
すぐに傷が塞がって、ケロリとした顔で起き上がるのよね? 熟睡できたと言って笑ってくれるんじゃない?
「ルカさん…………ルカさん…………」
わたしは彼の側頭部に手を回し、優しく頭を抱き抱えた。とても重たい。力の抜けてしまった人体の重さはとても心に突き刺さる。ただの物になりつつあるその事実に、胸がかき乱される。
「ルカさん、嫌ですよ。起きてくださいよ、ルカさん」
わたしは彼を抱き締めて言った。泣いたら戻ってきてくれるかしら。それならいくらでも泣く。いくらでもすがり付く。
だけどきっとそうではない。わたしの目に、キラキラと光る糸が見える。ゆっくりと彼の心臓から、空に登っていく細い糸が見える。
あれは多分、生命の糸だ。ルカさんの魂がほどけて、天に登っていっている。
わたしの中で、何かが弾けた。わたしは喉を鳴らした。
″フェオ、ゲル、ベオーク″。金鳳の歌、フェオの基準律、生命のカデンツをわたしは紡ぎ始めた。
″ベオーク、ダェグ、ケン″。二つ目の和音を、ルオンと共に放つ。
最後にまた初めの和音、″フェオ、ゲル、ベオーク″。
わたしはカデンツを完成させながら、目の前の糸に手を伸ばした。
行かせない。ルカさんを向こうには行かせない。わたしはもう一度カデンツを唱えた。糸が金色に輝き始める。
″フェオ、ゲル、ベオーク″。″ベオーク、ダェグ、ケン″。″フェオ、ゲル、ベオーク″。
ストンと何かが崩れ落ちるのを感じる。金凰の楔樹が枯れるのを感じる。だけどわたしはカデンツを唱え続けた。
地面がグラグラとしている。まさか神樹にも影響があるのかしら。金凰の力を使い果たしたわたしは、万能の白の力まで使おうとしている。
人ひとりを紡ぎ直すのにそこまでの力が必要なのかしら、わたしは頭の端で考えながらも糸を手繰り続けた。
無作為に人間を作り上げるのと、精巧な人間をひとり作り上げるのと、かかるエネルギーは違う。
わたしは寸分の狂いもなく、元のルカさんを、わたしの知っているルカさんを目の前に再生するために、あらゆる力を注ぎ込んでいた。
他のものは何も要らない。ただルカさんを元に戻したい。わたしは願い続けた。歌い続けた。ルカさんを思い続けた。
謝りたかった。傷付けてごめんなさいと言いたかった。仲直りしたいと伝えたかった。そのためなら、全てを捨ててしまっても良いと思った。
地面が崩れ、わたしは白い木屑と共に落下を始める。ルカさんの体を抱き締めて、わたしは歌い続けた。
ルカさん。ルカさん。ルカさん。戻って来てください、ルカさん……。