第二十四章(1)
熱い。冷たい。辛い。楽しい。眩しい。暗い。怖い。寂しい。…………。
意識の波がわたしを何度も何度も襲う。
目まぐるしく移り変わる風景と感情。たくさんの人の顔と、表情と、言葉が頭の中を駆け巡る。
わたしは今どこにいるの。何をしているの。何をしようとしていたの。前も後ろも、上も下もわからない世界にわたしは立っていて、合せ鏡のように無数の記憶が周囲に広がっている。
わたしは走り、跳び、落ち、転んで、幾度となく体を打ち付けながら記憶の世界を放浪し続けた。
どこまで行っても知り合いの顔がない。いいえ、違う。みんな知り合いだった。みんなどこかで知り合って、一度は心を通わせて、別れた人たちだ。だけど、わたしの知り合いではない。わたしの記憶ではない。わたしの記憶はどこ?
草むらをかきわけるようにして、わたしは混沌とした世界を駆け巡っていた。そんな時、誰かがわたしの腕をつかんで引き寄せた。
『そっちじゃない。こっちだよ』
ビックリして振り返ったわたしは、声の主の顔を見て安堵に包まれる。彼はスイさんの顔をした狐翠だった。瞳は緑色で、優しげな微笑を貼り付けている。
「あなたは誰ですか。どうしてスイさんの姿をしているんですか」
スイさんはいなくなってしまった。自分だけの体を手に入れて、混沌とした記憶の海から自分だけを切り離して、満足して死んでいった。
目の前にいるのは、スイさんの記憶のうちわたしに関するところだけを抜き出した断片と、狐翠の魂が融合した良くわからないもの。スイさんではないのに、どうして未だにスイさんの姿をしているのか。
『それは君がそう望んでいるからだよ、カノン。私の主人は君だ。私たちは君の一部だ』
「わたしがそう望んでいる……?」
『君がずっとマグノリアに負わせていた役割を、今度は狐翠に請け負わせている。君に好意的な感情を持つこの人格は、君にとってとても都合が良かったのさ』
クスクスと笑いながら、狐翠はわたしの手を引いて歩く。
『それでいいんだよ。それでいい。私たちは今や君の一部だから、どう扱おうと君の自由だ』
「わたしは、そんな……あなたたちを都合良く扱うなんて……」
『気に病む必要はない。私たちにとって一番大切なのは、君の心の安定。私たちの記憶を持った君が、出来るだけ長く存続してくれること』
狐翠はわたしの視界を遮るように、背にわたしを隠しながら進む。その背中は大して大きくはないのだけど、わたしは延々と広がる余計なものを見ずに進むことができた。
『この世界は君のもの。君が自由に整理してくれて良い。見たくないものには蓋をして、欲しいものには目印を付けて。居心地の良い世界を作るんだ。それが私たちの望んでいることだよ』
「でもあなたは、あなたもわたしの一部なら、それはわたしがあなたにそう言わせているだけで……」
本当の望みはそうじゃないんでしょう? わたしの体を乗っ取って、自分の人生をやり直したりしたいでしょう? わたしの黒い気持ちを読み取って、狐翠はアハハと大きく笑った。
『真実なんてどうでも良いのさ。君は見たいものを見て、信じたいものを信じていればいい。幸運にも君はまだ自分の体の主導権を握れている。君が正義、君が王さまだ』
「でも、でも、わたしは……」
何かを言おうと口を開くけど、何も訴えることが見つからない。それはそうだ。わたしが狐翠にこう言わせているのだ。わたし自身が狐翠を都合良く操作して、気持ちの良いことを言わせているだけだ。
つまりはわたしがわたしに意見をしているだけ。何を反論することがあるっていうの?
長い長い螺旋階段を上る。遥か高みに目映い光が差し込んでいる。そこを目指して上って上って、狐翠は楽しそうにこう言った。
『約束したよね、カノン。君らしい生き方を私に見せてくれ。君の選んだ結末を、私に見せてくれ』
「わたしの選んだ結末……」
『しっかり前を向いて、全てを受け入れるんだ。大丈夫、私は君の味方だからね』
狐翠はわたしを光の前に立たせて、肩をポンと叩く。
暖かい体温が両肩から体の中に伝わり、わたしの中に勇気が湧き上がってくる。
わたしはごくりと唾をのむ。そして階段の一番上のステップから、光の中に足を踏み出した。
辺りが真っ白な光に満たされていく……。
わたしは目を開いた。少し肌寒さを感じる。今は夜なのだろうか。空は暗く、キラキラと星が瞬いている。
空の中心に丸い月が見えて、わたしはゾッとした。慌てて体を起こし辺りを見回す。ここはどこだろう? 随分と広く平坦な大地だ。
「目を覚ましましたか」
近くで声が聞こえた。振り返る前から声の主はわかる。嗄れた老人の声、ファイさんだ。彼は長い眉毛に隠れた瞳をわたしに向けて、ゆっくりと拍手をする。
「おめでとう。おめでとう。貴女が勝者ですよ、藍猫」
「藍猫……?」
「ええ。あなたは藍猫としてゲーム盤に立ち、勝利した。おめでとう、貴女が生き残り、天子となりました」
心の篭っていない、単調なリズムの拍手。わたしは沸き起こる不快感と共にこめかみに手をやる。はずみで前髪が目に入る。
黒い。真っ黒な髪が視界に入り、驚く。髪を縛っていたゴムがちぎれ、ほどけた髪が肩から流れ落ちている。
黒い。真っ黒な髪だ。以前出会った少女、ノギスと同じような漆黒の髪。
「わたしが天子に……?」
「はい。貴女が天子になりました。この世界に天子が再来しました」
ファイさんは演技かかった調子でわたしの前に跪き、長い口ひげをモゴモゴさせながらこんなことを言う。
「さあ、どうしましょう。貴女は天子となり、何を為したいですか。神の力を得て、何をしたいですか?」
「…………」
何を問われているのかわからない。わたしは戸惑いつつ周囲を見回した。
空は暗いけど、うすぼんやりと風景が視認できる。ここは高い山の頂かどこかみたいだ。崖のように突然途切れた地面の下には雲があり、その隙間から月を反射してチカチカ光る海が見える。
ここは、神樹の切り株の上? 向こうに見える明るい陸地はハクトかしら。ハクトは電灯というもののお陰で、毎日がエリスフェスタのように明るいのだ。
「ファイさん。ここは神樹の上ですか? どうしてこんな場所に……ルカさんは今どこにいるんですか」
「カノンさん。私の問いに答えてください。貴女は天子となり、何を為したいですか」
「ファイさんこそ、わたしの質問に答えてください。あなたは誰です? 一体何故、わたしをこんな場所に連れてきたんですか?」
「…………」
ファイさんは長い溜め息をつく。ゆっくり左右に首を振り、絞り出すような声を出した。
「残念です……とても残念です」
「何が残念なんですか?」
彼は溜め息を重ねて、切り株の端までゆっくりと歩く。雲の隙間から、先ほどわたしがしたようにハクトのほうに目をやりながら、ボソリとこう言った。
「上手く行くと思っていました。千年は短すぎると私も思っていましたが、虎白は期待以上の素材だった。彼なら必ずや、上の世界に興味を持つと信じていました」
「……?」
何の話だろう。わからないけど、わたしの腕にゾクゾクと鳥肌が立つ。言い様のない不快感が湧き上がってくる。
「アレさえなければ、期限を設けることもなかったのに。千年以内であれば、アレが発生することもないと踏んでいたのに。何もかも想定外です。なかなか上手くは行かないものです」
「ファイさん……。何を言っているんですか……?」
「私はがっかりしているんですよ。貴女のようなつまらない人間と、ここで語り合うことを望んでいなかったから」
つまらない人間? わたしの心臓がえぐられる。それは多分、彼にとっての最低最悪の評価なんだろう。侮蔑に満ちた表情がそれを物語っている。
「私は虎白と、そうでなければ狐翠と語り合ってみたかった。この千年の世界でマトモと言える作品は、彼らくらいのものでしたから」
彼が長い溜め息をつく度に、わたしは存在を否定されているように感じた。この謎の老人に。アピスヘイルの王城にいた庭師、マーリンに似た謎の老人に。
「あなたはマーリンとどういう関係があったんですか。あなたは何者ですか」
答えない。老人は答えない。ただただ残念そうに首を振る。つまらない質問ばかりするわたしに呆れ続けている。
「わたしの何がつまらないと言うんですか? わたしは、わたしだって、好きで生き残った訳じゃない……」
いや、それは違う。わたしは自分で言いながら、自分で否定した。
わたしは好き好んで生き残ったのだ。死にたくなくて、死ぬのが怖くて、ワガママを言ってここまで来てしまった。
虎白さまが到達するべき場所に、身の程知らずにも立ってしまった。それをこの老人は嘆いている。
「千年は短かった。それが結論ですね。まだ千年には達していませんが、アレが羽化してしまったらもうどうしようもない。……この世界はこれでおしまいです。お疲れ様でした」
ファイさんは長く息を吸い、耳鳴りのような和音を吐き出し始めた。わたしですら耳鳴りとしかわからないくらいの高音。十倍音くらいあるのかもしれない。
十倍音の彩謌? しかもこの構成はカデンツだ。耳が慣れてくるとわかる。これはイアーの基準律のカデンツ。龍紫が放ったものとは僅かに違う。初めと終わりの和音が、一音だけ落ちている?
最後の和音が空に吸い込まれていくと、恐ろしい光景が目の前で展開された。
地平線の彼方まで見通せる地上の世界から、紫色をした球体が次々と湧き上がってくる。泡だらけの洗濯桶、洗浄室での泡遊びのような光景だった。ポコポコと紫の泡は夜空に上っていき、星に吸い込まれて消えていく。
泡が収まった後の世界は、一変していた。