第二十三章(5)
「俺はあれに対抗できるのか? 金鳳の彩謌はほとんど効かない」
「彩謌が効かないというのはどういう状態なのでしょう」
「あれは司彩の魂体と同じようなものだと思う。実体がないから、彩謌が効かない。当たってもすぐに元に戻る」
それだけなら良いが、彩謌を喰らうとさらに体積が膨張しているようにも思う。
そう語る虎白さまに、ファイさんは少し思案するような素振りを見せた。
「実体はどこかにあるのかもしれないが、体積が大きすぎてもはや探し当てられん。心臓を狙って射抜くのは無理だ」
「そうですか。膨張していますか……そうですか」
「どうすればいい? 俺はあれに対抗できるのか?」
虎白さまがもう一度問うとファイさんは、顔を上げてキッパリと言い放った。
「いいえ。無理でしょう。あれに対抗できるのは天子様しかおりません」
「天子……。俺はまだ天子ではないということか」
「その通りです。まだこの地に天子様は再臨されておりません」
天子様の再臨しか、世界の崩壊を止める手だてはありません。
ファイさんはいやに自信たっぷりにそう語る。先ほどまでの狼狽えた様子はどこにもない。
「虎白様。あなたなら必ずや、神の国に上れます。ご決断なさってください」
「俺は神の国など興味はない、ただこの事態を収束させたいだけだ」
「どちらでも良いでしょう、虎白様。天子様の再臨がなければこのまま世界は滅ぶのです。そんなことはこの際どちらでも良いのです」
「どちらでも良くはない! お前は一体何を言っているんだファイ」
虎白さまは激しい感情をぶつけながらファイさんを見ている。彼は場違いなまでに涼やかな表情を浮かべながら、さらりとこう言った。
「ピースはすでに揃っています。あなたと狐翠は土壇場でここまで揃えた。まだ間に合います。あなたなら神の国に上れます。どうかご決断ください」
「…………もういい、下がれ」
それでは失礼しますと言い残し、ファイさんは階段を下りていく。
虎白さまは再び神樹の方向、恐らくクラウディアがある方向を見据えて、今度はわたしに問い掛けてきた。
「カノン。あれが何なのか、お前にはわかるか?」
「い、いえ……わかりません。わかりませんが……」
わたしは少しだけ言葉に詰まりつつも、やはり虎白さまに言うべきだろうと判断して言葉を続ける。
「あれはルカさんの中に居たものです。ルカさんの前世は神さまの言葉を話す世界の住人でした。彼はとても怒っています……多分ずっと昔から、深い怒りを抱えながらルカさんの中で蠢いていました」
「深い怒り? 何に怒っている」
「それは……」
直近では龍紫だろう。氷の中に閉じ込められ、生死の境をさ迷わされたことに怒っている。
だけど彼はもっと昔から怒っていた。彼はルカさんに怒っていた。チャフさんに怒っていた。未だに悪意とチャフさんがどういう関係なのかはわからない。わからないけど、多分ほとんど同質のもののような気がする。
だって、悪意とチャフさんは同じ髪と瞳の色をしているのだから。
「彼は……自分に怒っています。多分彼はとても理想が高い人間で……理想とかけ離れていた実際の自分に怒っています。ベースはそこにあるんですけど、そのやり場のない怒りがどんどん増幅して訳のわからない状態になっているような気がします」
「…………なんだそれは。誰彼構わず当たり散らしているだけなのか?」
「わかりません。だけど、わたしにはそう思えてなりません」
「…………」
虎白さまは怪訝そうに眉をひそめる。わからないだろう。きっと虎白さまにはわからない。
だけどわたしにはわかる。何となくわかる。心の中にあるモヤモヤを、誰かのせいにしてしまいたい気持ちがわかる。
彼が怒っているのは自分自身だ。イブを救いたくても救えなかった、意気地無しの自分に怒っている。それを何故だかルカさんのせいにして追い込んだ。ルカさんという白子を利用して司彩を殺して回ったりしていたのも、その思考回路がぐるぐると回り続けてしまった結果なのかもしれない。
あれは悪意の渦巻きだ。誰かのせいにして問題をすり替え続けて、根本的な問題に向き合わない。向き合いたくない。向き合うつもりがない。ルカさんの一族に寄生して、永遠のような時をイブへの歪んだ思いとともにぐるぐると回り、悪意を膨らませ続けた成れの果て。
わたしも永遠の時を生きてしまったら、そうなってしまうのかもしれない。他人事には思えない。
「なんともくだらんな。くだらん……」
虎白さまのように吐き捨てることはできない。
だっていくらくだらないと扱き下ろしても、彼は怒ったままだ。世界に八つ当たりをして、いずれは全てを真っ黒にしてしまうだろう。それが現実であるし、わたしたちが何とかしないといけない課題だ。
「わたしは、ルカさんを助けたいです。虎白さま」
わたしはゆっくりと進言した。今のわたしの気持ちを声に出した。
「ルカさんはあれとは違います。違う意思を持っているけど、今は多分あれに持っていかれてしまっている。わたしはルカさんを助けたい……あれを、悪意を止めたい」
どうすれば良いかはわからないけど、わたしはしっかりと思いを伝えた。
虎白さまはわたしの真っ直ぐな瞳に少し困惑したように視線をそらす。
わたしは一歩踏み込んで言った。
「虎白さま、教えてください。どうすれば良いか……わたしたちはどうすれば良いんですか」
「…………」
虎白さまはゆっくりと動き出す。わたしには目を向けずに、ハリエットの骸の方へと一歩ずつ歩んでいく。
「虎白さま……」
彼は彼女に刺さっていた長剣を掴み、引き抜く。先端が赤黒く染まっていて、とても不気味な輝きを放っていた。
「カミノタミの連中は、俺の側で二百年繰り返してきた。神の国に上れと、神の国に上ることが唯一の幸福だと」
虎白さまは抜き身の剣をぶら下げたまま空を見上げている。
彼の見つめる先には月があった。ずっと同じ位置で、ポカリと空に穴を空けている月。
『月は天上の神の世界に穿たれた穴であり、神がこの窓から世界を覗いているのである』。クラフティの創世記、第七章、シゲルの一小節をわたしはふと思い出した。
「創世記の通りに天子を再臨させれば、神の国に近付けると言っていた。耳にタコができるほどしつこくな。しかし俺にはどうも納得が行かなかった」
「何故ですか? 天子を再臨させることになにか悪いことでもあるんですか?」
「そもそもの話だ。何故神の国に行かねばならん。神の国とは何だ? 楽園かなんだか知らんが、何故この地上を差し置いて神の国を目指さねばならんのだ」
天子は虎白さまで、神の国は近い未来のハクトである。確かサイグラム派の人たちはそのような考えを持っていた。虎白さまの話は、サイグラム派の考えに近いのだろうと思った。
「天上の神の国には選ばれたものしか到達できないという。何故全員を連れていけないのか、そもそも何故地上に楽園を作ってはいけないのか」
「千年問題があるからじゃないんですか……?」
千年経てば世界が滅びるから、天子は選ばれた上の民を連れて天上に戻らないといけない。
確か創世記はそんな話だったような気がする。わたしの答えに、虎白さまは短く笑い声を上げた。
「くだらんな、実にくだらん。創世記というのは子供が書きちらした駄文だ。俺が書いた方が随分とマシな読み物になるだろう」
「虎白さま……」
「お前の言っていることの方が随分とまともだ。試してみる価値はありそうだ」
虎白さまはカラカラと笑いながら、長剣を振り上げる。切先をピタリと自分の心臓に向け、こう言った。
「カノン。お前が天上に上り、ルカを止めろ。俺にはできないことだ。きっとお前にしかできん」
「……!」
「世界が回帰すれば、また会うこともあるかもしれん。それまでの間、ハクトを任せたぞ」
止める間もなかった。虎白さまの剣はあっさりと体を突き抜けて、背中からおびただしい量の血が噴き出す。
わたしは真っ白になる頭で理解した。虎白さまが何に躊躇っていたのか。ファイさんが彼に何を要求していたのか。
少し考えたらすぐにわかったのに、わたしは考えようともしなかった。
天子になるとは、つまり……司彩を全てひとつの体に入れること。わたしか虎白さまが死ななくてはならなかった。
ファイさんは虎白さまにわたしを殺せと言っていた。虎白さまはそれを躊躇った。
虎白さまは悩んで、悩んで、結局のところ、わたしを殺すことを拒絶した……。
わたしのせいだろうか。全部わたしのせいなんだろうか。
崩れ落ちる虎白さまの体から、三色の煙が渦を巻きながら湧き上がってくる。
段々と色が抜けていく髪の毛が、すっかり銀色に変わったあとに、虎白さまはうっすらと微笑んでこう呟いた。
「すまない、カノン。先に休むぞ……」