第二十三章(3)
虎白さまらしくない、とわたしは思った。
こんな大衆のど真ん中で、司彩同士の戦闘を始めてしまうなんて。他にどうしようもなかったのかしら?
わたしはリンさんから受け取った神樹の実を口一杯に頬張って飲み下しを繰り返しながら、みんなの盾になる彩謌を放ち続ける。
リンさんたちが叫びながら、ハクテイから人を遠ざける対応に勤しんでいる。
しかし、この狭いハクトの中にどれほどの逃げ場所があるというのだろう。上空で飛んでいる二体の化け物に、ハクトの人たちはすっかりパニックに陥ってしまっていた。
ドン、ドン、と球状に空間を歪ませる龍紫の彩謌『重圧』、あれに対抗するのは『恒常』しかないのだけど、リンさんたちにはわからないだろう。
バリバリと空間に亀裂を入れながら直線に向かってくる龍紫の彩謌『裂壊』に対抗するのは、方向を曲げたり光を散らしたり機能を持つ彩謌『転送』や『散乱』が有効なのだけど、リンさんたちにはわからないだろう。
『恒常』、『散乱』はダェグの彩謌でもあるので白子にも歌える。わたしは近くにいる彩謌隊の面々に指示を出した。
「『"散乱"、前方二十、倍音三』!」
わたしの声に答えてくれる人は始めはいなかったけど、徐々に落ち着きを取り戻した人たちが隊列を組んでくれるようになる。
龍紫の攻撃へ対抗できる方法を彩謌隊の人たちが把握し始めたところで、わたしは虎白さまの援護をするために走った。
今のわたしは一体何の司彩と同調しているのだろう。虎白さまが鳥になったり兎になったりしているのを見ると、わたしもそんな感じなんだろうと思う。周囲に緑色のモヤが見えている今は狐の姿をしているのだと思いながら、建物の壁を蹴って空へと飛び出した。
高いところから見るとよくわかる。虎白さまはハクト市街に向けては彩謌を撃ってはいない。めちゃめちゃな方向に撃っているのは龍紫だけ。徐々に町の外に誘導しようとしているのは窺えるけど、龍紫がそれに抵抗して中心部に居座っている。
「龍紫はハクトと心中するつもりなのかしら」
狐翠と戦い、ルカさんから出てきた謎の闇に打ち据えられて、龍紫の体力は多分もう限界だ。そのタイミングで虎白さまのもとにやってきたということは、もはや彼女には生き残る考えがないということだろう。
虎白さまになんとしてもダメージを負わせたくて、彼が大切にするこのハクトを戦場にしているのかもしれない。
虎白さまはこの事を予想していた? だからリンさんたちが謁見の間に集まっていたの? 仕事が滞っていたように見えたのは、戦える役人たちをハクテイに置いていたから?
良くわからないけど、虎白さまなりに被害を最小にしようとした結果が今なんだろうと予想をする。
「どうして龍紫は虎白さまに拘るのかしら」
龍紫の頭が虎白さまの娘というのはわかったけど、どうしてあんなにも倒錯した思いがまぜこぜになっているのか。彼のことを愛しているのか、憎んでいるのか、全然わからない。
「彼女は名前を忘れていたわ。ハリエットという名前を」
その事実から考えると、あの少女は既に龍紫の魂に取り込まれて自意識を失っている。虎白さまが知る″ハリエット″とは全く違う何かに変貌しているということだろう。龍紫はハリエットの記憶を部分的に利用して、虎白さまを挑発しているのかしら。
『龍紫と虎白の関係については、スイから尋ねられたから私なりに思い出してみたのだけど』
ボソリと狐翠が呟く。
なによ。勿体ぶらないで早く教えなさいよ! ついそんな考えを抱いてしまい、狐翠にアハハと笑われてしまった。
『なにせ古い話だからね。あまり白子を喰っていない私ですら記憶が曖昧になるほど遠い昔の話だよ』
「古い話ってどのくらい昔のことなんですか」
『ざっと数えても三百年くらいかな。この世界が作られたのは千年前だけど、歴史の記録が始まったのは五百年前だから、かなり古い話だね』
「三百年……」
アシュリー国の姫エリファレットを頭とした藍猫がアピスという国を作ったのが、今からちょうど百七年前だ。それより二百年も前のことか……。
わたしは藍猫と橙戌の記憶を閲覧しようとしたけど、情報が迷路のように錯綜としていて、上手く年表を遡ることができない。
『人の記憶容量には限りがある。思い出せないのは当然のことだ。恐らくこのあたりの歴史を正確に覚えているのは私と白子の長老……あのファイとかいう老人くらいだろう』
狐翠はそう前置きをしてから、ゆっくりと昔話を始めた。わたしは街を守るための彩謌を放ちながら、その話に耳を傾ける。
『もう少し古い話から始めるがね、今のハクトを国として一番始めに治めはじめたのは古白という王だった。古白というのはクラフティの創世記にもあるように、天子の右腕として仕えていた上の民の長老だ』
五百年前、天子が亡くなる前の世界は、今の神樹があった場所に白都と呼ばれる国があり、彩図と呼ばれるこちらの大陸に有色の民が暮らす集落があったという。
「でもマグノリアの記憶では、神樹のあたりには国なんてありませんでしたよ」
『それについては私も疑問でね。"白都をこの目で見た"という人で現在も生存しているのはファイひとりしかいない。彼があると言っているからあったんだろうとみんな信じているけど、彼が耄碌している可能性はなくもない』
少し話が脱線したねと笑って、狐翠は話を続けた。
『五百年ほど前に天子が崩御した。その時に天子の力が六分割されて、外なる海の六極に散った。そこで生まれたのが司彩だと言われている。私もその辺りの記憶は曖昧だ。しかし思い返してみれば、それより過去の記憶がないのだからそれが真実なのだろう』
「五百年前に、司彩が生まれた……」
『その時から司彩は、本能的にこう刷り込まれている。"優れた白子と同化し、楔樹を成長させ、他の司彩を打倒せよ"と。だから生まれた直後というのは、白子の奪い合い、土地の奪い合いで大分荒れたものだ』
それらしい記憶がわたしの中で巡る。白子を襲い、有色を巻き込み、巨大な化け物同士が彩謌をぶつけ合っている。
人は憎んでいた。司彩という天災を憎んでいた。
『全ての彩図の民を救うために立ち上がったのが古白だ。彼は天子の正統な後継者だと自称し、白子と有色をまとめ上げた。人間対司彩という図式は、百年ほど続いたんじゃないかと思う』
「その古白という人物は、虎白さまと関係があるんですか?」
『古白王はハクトの初代国王だ。あの虎白の前世……有色だった頃の虎白は三代目の古白王だと言われているね』
初代古白王は白子だったけど、寿命を迎えて亡くなった。二代目と三代目の王は白子ではなく、有色の民から選ばれた王だった。
『二代目の古白王から、王族の血統が受け継がれていると聞く。虎白は二代目の古白王の息子だったとか甥だったとか言われているがまあどっちでも良いよね。できたら国王としては白子が就いたほうが長く統治できるんだけど白子がリーダーとして優秀とは限らないし、血統が残せない。だから王族の子供は白子を半分、有色を半分とこの頃から決められてたようだよ。ハクトではかなり昔から神樹の実があれば自由に白子を産めることを知っていたから』
「それで虎白さまは有色で、娘のハリエットは白子だったんですか」
『そういうこと』
虎白さまがハクトを治めていた時代は、今から三百年ほど前のことだった。
その頃の世界は、人間対司彩という単純な図式ではなくなっていた。
『司彩はアメとムチを使って徐々に有色たちを手懐けていった。司彩を国主として認める勢力が現れはじめた。そこまではまだ良かったんだけど、司彩たちが停戦協定を結びはじめた』
「司彩が徒党を組んで、ハクトが孤立したんですか?」
『そういうことだね。この頃にはもう白子対有色・司彩という図式になっていたように思う。虎白は有色のひとりとして身の振り方に困っていたと思うね』
本当は司彩同士で争わないといけないのに、何を間違ったか共闘路線を選んだんだよ彼らは。愚かなことだ。狐翠はため息をつきながらそう呟いた。
『ずいぶんハクトは苦労したんだ。色んな土地を渡り、司彩から逃れる計略をした。私は日和見だったからあまり関与しなかったがね、他の司彩はハクトから白子を奪おうと彼らを追い回した』
「大変だったんですね、虎白さま……」
『今の龍紫の頭、ハリエットが龍紫のもとに差し出されたのはそんな最中の出来事だよ』
「!」
それって。わたしの中で、とても嫌な想像が過る。わたしの代わりに、狐翠がそれを言語化していく。
『私には真実はわからないが、想像することならできる。あの虎白の娘だから、自ら志願したのかもしれないが……なんにせよあのハリエットという娘は虎白の急所だ』
二百年ほどハクトの王であり続けた虎白さまは、国民に慕われる理想的な王さまだったのだと思う。その業績はきっと華々しいものばかりで、汚点と言えるものはほとんどないと思われる。
だけど現実はそんなに上手くは行かない。
『彼は大事な娘を犠牲にしてハクトを守った。要するに、娘を敵に売ったわけだね。娘を差し出す代わりにハクトへ攻め込ませない契約を交わしたのかもしれない。詳細はわからないがね、確かにあの頃ハクトは今のイリス国、龍紫の膝元でつかの間の平和を得ていた。初代虎白が亡くなるまでの数十年ほどの間だが』
「彼女は龍紫の頭として差し出されたのでしょうか。それとも餌として差し出されたのでしょうか」
『それはわからない。司彩が頭に選んだくらいだから、ハリエットという娘は優秀な知能を持っていたのだろうが、当時の虎白がそこまで深く考えていたかはわからないな』
あの女の子はわたしよりも幼い年齢に思える。白子ということは前世の記憶も持っていただろうけど、その前世も普通の人間だ。たかだか数十年程度の記憶が加算されたところで何の心の準備ができるというのか。
『少なくとも虎白は、娘を犠牲にしたことに関して思うところがあるのだろう。だからこそ二回も生まれ変わるという常軌を逸したこの状況を正気のまま生き抜き、二百年の長い時をハクトのために尽くしている』
″娘を生け贄にまでして守ったハクトに執着している″。多分それがあいつの正体だ。そして龍紫はそんな虎白に付き合おうとした結果、力及ばず壊れてしまった娘の成れの果てなんだろう。
狐翠の分析はそのようなものだったけど、わたしの見解は少しだけ違った。
「いいえ、狐翠。違いますよ……あれはハリエットではありません、龍紫ですよ」
『そうだろうけど、そんなに違いがある話かい?』
「違いますよ。全然違います」
壊れているのは龍紫でありハリエットではない。だからこそ虎白さまはあれほどに怒っている。
ハクトのために身を捧げた勇敢なハリエットの尊厳を踏みにじる、現在の龍紫に激怒している。