第二十三章(2)
わたしは病院から出て、ハクテイへ向かった。
ハクトはあまり寒くならない土地柄なのか、冬になったといっても大して景色に変化がない。変化と言えば、厚着の人が増えたのと、広葉樹が落葉したくらいのものだった。
相変わらず獣人たちと折り合いが悪いのか、口論に発展している現場を見かけたけど、それも含めてわたしが居た頃のハクトと変わりがない。
わたしは通い慣れた道を辿り、ハクテイへと赴いた。
ハクテイもきっと変化がないのだろうと漠然と思っていたから、目の前に現れた光景に面食らう。
いつも閑散としていた庭が、人で埋め尽くされている。
人、人、人……服装はサイグラム風だったりフリンジ風だったり様々だけど、多分ほとんどがハクト国民だろう。
「何かあったのかな」
『さて。何事かはわからないが、君よりも重要な来賓はいないだろうから、順番を抜かせてもらおう』
狐翠の勧めに従い、『縮地』で人のいない座標を探し、そこまで跳ぶ。流石は大気を司る司彩だ。風のようにふわりと移動することについては他の追随を許さない。
謁見の間の待合室に移動したわたしの耳に、男の人と虎白さまの声が届いた。
「虎白様、アピスヘイルからハクトにかけて輸送路を整備する件ですが」
「それはランディスに任せたと言っただろう。あちらに聞きに行け」
「そうは言いましても、フリンジとハクトの国境が曖昧な部分での諍いをどのようにするかについては」
「それはジンクに任せることにしたから、彼の判断を仰いでくれ」
「虎白様、ハクトの公衆浴場が老朽化している件ですが、建築資材の納入が滞っておりまして、予定より大幅に遅れております」
「予定より遅れて何か問題があるのか。大した問題がないのなら担当地区の役人に指示を仰げ」
「それが、その資材の納入の遅れはハルム国の天災によるものだと聞きましたので……」
「ハルム国についてはニケルに任せている。彼にまず聞いてくれないか」
なんだかすごく忙しそうだ。わたしは待合室の出口からそっと謁見の間を覗く。虎白さまの机の前に、長く続く行列が見えた。みんな書類の束を抱え、焦りの表情を張り付けながら順番を待っている。
どうしたんだろう。今までハクテイではこんなことはなかったのに。クラウディアとイグニアを攻略してから少しは慌ただしくなっていたけど、こんなに行列が出来るほどではなかったはずだ。
『そりゃあ治める土地が増えたんだから、どんどん忙しくなるだろう。私と違って虎白は真面目だから』
「私と違ってって……そういえばフリンジって国政はどうなっているんですか? 詳しく聞いたことがなかったですけど」
『国政? そんなもの知らないよ。そもそも、司彩が国を管理しだすとろくなことにならない。君にもわかってきただろう? 放置が一番さ』
「そ、そうかもしれませんけど」
『人というのは向き不向きがある。こういうのは向いている人に任せておけばいいのさ』
「…………」
確かにわたしの記憶に収まっている藍猫と橙戌の歴史をざっと俯瞰しても、上手く行っている例はほとんど見当たらない。
カノンが暮らしてきたアピスヘイルが比較的マシな例だったことがわかったところで、わたしはそれらの記憶に重たい蓋を乗せた。
「とにかく、虎白さまはわたしがわがままを言ったせいでこうなってしまったということですね」
虎白さまは以前から言っていた。司彩が世界を六分割するシステムを壊すのなら、わたしとスイさんと三人で世界を統治したいと。一人で管理するには大きすぎるのだと。
『まあ、虎白ならうまくやるだろうけど……。時間があれば、の話だね』
「時間があれば?」
『時間がない。もう私たちには時間がないんだよ、カノン』
わたしは首を傾げる。スイさんがよくそんな発言をしていたけど、それはアスイさんの記憶の寿命が近いからだと思っていた。
スイさんと分離した狐翠がまだそんなことを言っているのだから、スイさんが焦っていたのは狐翠の影響もあったのかもしれない。
『人払いをしよう。私たちは今すぐに虎白と話をする必要がある』
わたしは頭に浮かんだ彩謌を口にする。謁見の間に渦のような風が巻き起こり、書類の束が吹雪のように宙を舞った。
「か、カノンさん!」
懐かしい女性の声がして、一斉に視線がわたしに注がれる。虎白さまの横にはリンさんやニトさんなど見知った顔ぶれがあり、みんなわたしに驚きの表情を向けていた。
わたしはゆっくりと虎白さまの前に足を進め、膝をついて最敬礼をする。
「虎白さま、カノンです。ただ今戻りました。勝手な行動をして申し訳ありませんでした」
わたしは彼の反応が怖くて、顔を伏せたまま固まっていた。
叱られる。怒鳴られる。酷い罵声を浴びせられることを覚悟していた。何も言われずに投獄されるかもしれないとも思っていたから、投げかけられた虎白さまの言葉に拍子抜けした。
「よく戻ってきてくれた、カノン」
思わず顔を上げたわたしは、虎白さまの表情を見て心臓がズキリと痛む。優しい声色だったから、許してもらえたのかと期待してしまったのだ。
わたしは甘い。根っからの甘い思考回路だ。許してもらえるはずはないのに、すぐに優しさを期待してしまう。
わたしを見下ろしていたのは、何の感情もない目だった。
虎白さまは大してわたしに興味を示す様子もなく、ポツリとこう言った。
「スイが死んだか。全く、よくもここまで掻き乱してくれたものだな」
「え……。どうしてスイさんが亡くなったことを……」
「お前の髪の色は今めちゃくちゃになっているぞ。俺も人の事は言えんがな」
髪の色? わたしは慌てて後ろ髪を掴んで引き寄せる。
先端が緑色に染まっていた。視界の端に映った左右の前髪がそれぞれ青と橙に染まっている。
「これで残ったのは、俺とお前と、あいつの三人か……」
虚ろな目を宙に向けて、そうぼやく虎白さま。
わたしは彼の様子がおかしいことを薄々感じ始めていた。リンさんを始めとしたハクテイの役人さんたちが、狼狽えたように虎白さまを見ているのも妙だと思った。
今ハクトに何が起こっているのだろう。単純に仕事が増えたから混乱しているわけじゃないらしい。
虎白さまは心ここにあらずと言った感じで、周りの騒動にもあまり関心を抱いていない。
どうやら、わたしだけに無関心というわけではないようだ。
「停滞した世界を動かせば、こうなるのは仕方のないことだとは思っていたが……。俺もまた、歪みを正さねばならん時が来たと言うことだな」
「虎白さま、それは……なんのことですか?」
虎白さまはわたしの問いに答えずに椅子から立ち上がる。
そしてわたしの横を通りすぎ、書類をかき集める人たちの間をすり抜け、入り口の方へと歩いていった。
わたしは慌てて彼の背中を追いかけた。いつの間にか定番の衣装と化していた、カミノタミ風の黒い装束の上に引っかけたサイグラム風の白い軍用コートを靡かせて、彼は重い扉を開いた。
寒風が吹き込んでくる。いつ雪が降り始めたのだろうか。粉雪が大理石の床に薄く積もり、わたしは足を滑らせそうになりながら外へ出た。
いつからそんなことになっていたのだろう。
庭にはたくさんの人が居たはずだ。みんな虎白さまとの謁見を心待ちにしながら並んでいたはずだ。
直線に整列していた国民たちは、今や入り口から遠く離れたところで綺麗な円を描いて並んでいる。
ぽっかりと空いた中心部には大量の雪が積もり、雪に埋もれるようにして巨大な龍が倒れていた。
「龍紫よ、約束したはずだぞ。二度とハクトの国境を侵さぬと」
虎白さまの声に呼応して、龍はビクリと体を震わせる。
『こ、虎白……。久しいのう。久しいのう……』
頭に響くような声を放ちながら、彼女は長い頭を持ち上げた。
「俺とお前は、親しげに挨拶を交わすような仲ではない。お前は勘違いをしているのではないか」
『な、何を言う! 妾はお主を慕って慕って、焦がれて焦がれてここまで来たというに』
「それはお前ではない。死にかけてついに耄碌したのか化け物よ」
『……!』
苛烈な感情が脳に突き刺さってくる。
紫の煙が広がったかと思うと、すぐに収縮して中から小さな女の子が現れた。肩や頭から血を流しているけど、相変わらず美しい顔立ちの女の子だ。
「この姿を見てもそんなことを言うの?」
「…………」
「ねぇ。可哀想でしょう。こんなにボロボロになって、あなたのもとにやってきたの。抱き締めて迎えてくれてもいいんじゃない?」
「………………」
「ねぇ。なんとか言いなさいよ! この鬼畜! 私が一体どんな思いでオブシディアにいたと思うの?」
「……………………」
「なんとか言ってよ。助けてやると言ってよ、お父様……」
え?
いつの間にかわたしの背後まで来ていたリンさんが悲鳴のような声を上げた。
「ど、どういうことでしょう、ニト」
「さあ……」
お父様、ということは……あの少女。龍紫の頭は、虎白さまの娘?
何かしらの因縁があるのだと思ってはいたものの、予想外の展開にわたしの頭は真っ白になる。
「白子に子供は作れません。少なくとも、今の虎白さまの娘ということはありえません」
「養女をとっていたという話も聞かないよね……?」
「親戚? 王族の誰かの娘……?」
ハクテイの人たちは動揺を隠せないでいる。
みんなは口々に疑問を発しながら、虎白さまの発言を待った。
彼はざわめきが静まるのを待ってから、キッパリとこう言った。
「俺の娘のハリエットは、遥か昔にお前に喰われて死んだ。娘の振りをすることは今後一切許さんぞ、龍紫よ」
虎白さまから深い怒りを感じる。わたしは思わず息を呑んだ。わたしの目の前で、赤と金色の光を纏った虎白さまと紫の光を放つ龍紫が、一触即発の感情をぶつけ合っている。
ハクトで戦闘が始まる。わたしはすぐにそう理解し、リンさんに告げた。
「リンさん、わたしにありったけの神樹の実をください。今すぐに。お願いします!」