第二十二章(4)
闇に動揺しているのは龍紫も同じようだった。
紫の龍は宙を旋回してしばらく様子を見ていたようだけど、やがてしびれを切らしたように彩謌を撃つ。それは先ほど撃ってきたものと同じで、空間にピシピシとヒビを生じさせながらまっすぐ闇に向かっていった。
彩謌が届く寸前にわたしには見えた。闇の中心に二つの小さな赤い光が出現するのを。そしてその手前で彩謌は吸い込まれるように消えてしまう。
彩謌が消えた後には、闇が残る。でもその闇はフワリフワリと動いていた。まるで大きな黒いマントが風に靡くように、フワリフワリと地面を波打っていた。
「な、なんじゃ、おぬしは!」
龍紫が狼狽した声を上げる。その一瞬の後に闇が翔んだ。雷鳴のような激しい音を立てながら翔んだ。龍紫に一直線に向かって。
ギャッと悲鳴が聞こえる。龍紫はその攻撃をすんでのところで避けたけど、一部が触れてしまったらしい。真っ赤な鮮血の霧が舞い上がり、空を夕暮れのごとく染める。
闇はなおも龍紫を狙って翔んだ。どこから翔んできたのかわたしには見えない。龍紫にも見えなかったらしく、今度はまともにぶつかって激しく吹っ飛んだ。
「ギャッ、やめ、やめい!」
情けない声を上げながら、ふらふらと体勢を整える龍紫。彼女が身を守ることもままならないタイミングで攻撃を繰り返す闇。
何が起きているのかは良くわからないけど、ひとつだけはっきりわかることがある。
怒っている。あの暗闇は龍紫に激怒している。彼女をいたぶるために攻撃をしている。徹底的に潰そうと考えている。
「えっ……何? 樹が……」
わたしはつい声を上げてしまった。先ほどまで紫色に妖しく光っていた楔樹が、末端から黒く染まっている。酸かなにかに浸されて焦げていくように、枝の先から段々と黒いシルエットに変わっていっている。
「どういうことなの……?」
わたしの問いに答えてくれる人はいない。辺りには相変わらず雷鳴がとどろき、龍紫の悲鳴が聞こえた。
応戦に耐えられなくなったのか龍紫は逃げ出し、その後をぴったりと闇が追いかけていく。楔樹から離れれば彼女にとって不利になりそうなものだけど、この黒く染まった樹ではそもそも期待通りにエネルギーを得られないのかもしれない。
静かになった廃墟に取り残されたわたしは、ようやくスイさんに意識を戻す気になった。
彼は血だらけでわたしの腕に収まったまま、相も変わらず薄い笑いを浮かべている。わたしは彼の重たい体を支えながら、何も頭を働かせられないでいた。
彼についてあまり考えたくなかった。だって、あまりにも傷だらけで、ちぎれた袖の先にあるはずのモノがなかったり、頭の半分が真っ赤で見えなかったりして……。わたしは視覚的な情報を自分の中に取り込みたくなくて、スイさんの容態を体の感覚で捉えようとした。
生きているけど、多分もう長くはない。腕から伝わってくる情報だけでわかってしまう。なのにスイさんは、半分だけ窺える綺麗な顔で笑っていた。
どうして笑っているの。スイさん。どうしてそんなに楽しそうなの……?
「良かった。カノン、君に傷ひとつなくて。安心したよ」
スイさんはボソリとそんなことを言う。驚いて視線を向けたわたしに微笑んで、彼はこんな言葉を続けた。
「君に傷でもついてしまったら、私の計画は全て水の泡だからね」
「計画……?」
なんの話だろう。スイさんはいつも怪しげなことを言う。優しいことも言ってみたり、彼はいつも捉えどころがない。
このような状況下でさえ、彼の姿勢は変わらないようだ。
わたしはスイさんの瞳を見つめる。他の場所を見るのは怖かったから、唯一生命力に溢れた瞳を見つめる。
彼の瞳は緑色に輝いていた。スイさんの瞳は金色だったはずだけど、今はギラギラとした緑色だった。
でも目の前の彼はスイさんの意識を保っているようだったから、かつてわたしが思い込んでいた『瞳の色=意識』という方程式は間違っていたのだろう。
わたしとマグノリアが明確には分け隔てられなかったように、意識というのは多分きっちり分けられるものではない。スイさんと狐翠の関係も、そのような不定形のものだということだろう。
わたしがそんなことを考えていると、スイさんがゆっくりと口を開く。
「カノン。君に、お願いがあるんだ」
「な、なんでしょう」
それが彼にとって"最期のお願い"だというのがよくわかった。わたしは反論も否定もせず、ただ頷いて問い返す。
スイさんは不思議な人だけど、わたしの命を助けてくれた。わたしの味方でいてくれた。わたしは彼のためならなんだってしてあげたいと思った。
わたしの意思が伝わったのか、スイさんは嬉しそうに目を細めて答える。
「カノン。今から奇妙なことが起こるかもしれないが、私が喋るのを止めるまで、私の話を聞いて欲しい。私の本当の願いを聞き逃さないで欲しい」
「本当の願い……?」
「そう。私の、"スイの"本当の願いだよ」
スイさんはそう強調し、ふと表情を強張らせた。
傷が痛むのだろうか。何とかしてあげられないかと考えた矢先に、彼は何やらモゴモゴと呟く。
「この体はもう駄目だろう? 早く違う体に移ったほうがいい」
その声はなんだかスイさんの声ではないような気がして、わたしはゾッとした。
彼は幾分かギラツキを増した緑の目でこちらを見つめる。わたしは怖くなりスイさんの体をわずかに遠ざけたけど、彼のお願いをふいにするわけにはいかない。ぐっとこらえて成り行きを見守った。
彼は何かを考えるようにしばらく制止していたけど、やがて胸に手をやり苦しげに身を捩る。
胸の辺り……もう心臓と言ってしまったほうが良いだろう。そこから緑色の煙が染み出してきた。
狐翠がわたしに移ろうとしている。既に何度も経験したことだ。わたしは目を閉じる。多分ここでわたしが狐翠を受け入れるのは、スイさんが望んだことだ。
幸運なことにわたしは未だにカノンでいることができている。ここで狐翠が増えたところで突然自分を見失ったりはしないだろう。
わたしは静かにその時を待つ。スイさんの体から抜け出した緑色の魂が、わたしの心臓に取りつくのを待つ。
期待通りにわたしの背中から、熱い何かが突き刺さるのを感じる。
わたしは目を開けた。腕の中にいるスイさんを見た。
彼の髪の毛は銀色に変化していた。目が閉じられていたのでわたしは狼狽する。スイさんの″お願い″をまだ聞いていないことに焦りを覚える。
「スイさん。スイさん。起きてください、スイさん!」
体を揺すると、彼はうっすら目を開いた。金色の瞳で、その視線には確かな意思を感じる。
スイさんはこの中にまだいると確信できた。司彩が抜けても脱け殻になっていない。エリファレットさまのときと同じだ、と思った。
「スイさん」
彼はわたしを見ない。天に視線を向けて、ゆっくりと口を開く。
「思い出した。思い出したよ、アニエス……」
「アニエス……?」
彼は知らない誰かの名を呼んで、優しく微笑んでいる。わたしはその笑顔を知っていたから、"アニエス"が誰のことかすぐに理解できた。
「それは、アスイさんの名前ですか……?」
スイさんはゆっくりとわたしに視線を向け、再び口を開いた。
「君、私の代わりに、彼女に伝えてくれないか」
「はい。伝えます。伝えますから……」
わたしはギュッと彼の手を握り、一字一句逃すまいと顔を近付ける。
彼の言葉は弱く聞き取りづらかったけど、何を言っているのかはわかった。
″ティール、三、八、五、七、三、八、ニ、ラグ、ニ、五、三、四″。
わたしの中の誰かの知識が、それが座標であることを告げる。
「私の思い出を置いてきた。彼女に届けて欲しい……」
「わかりました。わかりましたから……」
行かないでほしい。わたしは考えた。助ける方法を考えた。
体を再生する彩謌を金凰、もとい金鳳である虎白さまなら歌える。狐翠の力を使えば一瞬で虎白さまのもとに翔べるはず。
だけどわたしには実行に移すことができなかった。
すでにスイさんの瞳は光を失っていて、もうどこにも彼がいないことに気付いてしまったからだ。
「いや、いや……」
わたしは首を振る。スイさんの体を揺さぶる。彼の名前を呼ぶ。
「スイさん! スイさん! スイさん! スイさん! いやです、いやです、やだ、やだ、行かないで、行かないでください、わたしを置いていかないで!!!」
わたしは段々と冷静さを失っていった。
涙が次から次に出て、言葉が出てこなくなって、最後にはただ意味もないことを喚き散らしているだけになった。
泣いて、叫んで、スイさんを揺さぶってを繰り返しているうちに、わたしは意識が混濁してくるのを感じる。
そう。何度も経験した通りのことだけど、司彩が取り憑いたあとには抗えないほどの眠気に襲われるのだ。
わたしは夢を見た。それは、奇妙な夢だった。多分これは、わたしの一部であったマグノリアが、必死でひた隠しにしていたもの。
わたし自身であった前世マグノリアが、無垢なカノンという人格を作り上げる原因となった"罪"にあたる記憶なのだろう。