第二十二章(2)
わたしはその後も龍紫に怒鳴られながら、何枚も何枚も手紙を書かされた。
もはや何を書いたのか覚えていない。最後のほうには、彼女が語るままの妄言を一字一句間違えないように必死に書き取っていったように思う。
ようやく満足のいく手紙を手に入れた龍紫は、可愛らしく小躍りをしながら入り口のほうへ駆けていった。
わたしの手も足も、顔も体もすっかりボロボロだ。手足の感覚がなかなか戻らないまま、わたしは体を引きずるようにしてルカさんのところに向かった。
彼は光が入るほうの謁見の間の、絨毯のわきに乱雑に置かれていた。
一瞬で時を止められたような、なんともいえない表情はそのままだったけど、最初に見たときより少し目に力がなくなっているような気もする。
マグノリア。彼はまだ生きているのかしら。
『生きているわ。彼の思念を感じるもの』
思念? そう問うと、マグノリアは肯定の意思を送ってくる。
そうか、夢を覗き見るのと同じような要領で頭の中を読み取ればいいのか。そう考えた矢先に、マグノリアの鋭い声が聞こえる。
『やめておきなさい。あなたには無理よ。耐えられないわ』
耐えられない? 首を捻っているとマグノリアはこう続けた。
『耐えられないわ。あなたはこの氷を触ったでしょう? そして手が一瞬で凍傷になった』
そうね。痛かったけど、すぐに治ったわ。今では違う傷ができてしまったけど、これもすぐに治る……。
『ルカは今、全身がその状態だと思ったほうがいい。あなたが考えているより厳しい状況よ。あなたは知らないほうがいいと思えるくらい、凄惨な状態なのよ』
ーー!!!
わたしは息が止まる思いで、ルカさんを見た。
表情は変わらない。皮膚が爛れているような所見は見られない。
だけど考えてみればそうだ。この氷のようなものの中で全身が冷やされていて、しかも空気を遮断されている状態で、人が生きていられるはずがない。
死へ向けた体の崩壊を、何らかの不思議な力で食い止めている状態なのだろう。その状態に置かれたルカさんがどのように感じているかなんて、軽々しく知ろうとするべきではない。
わたしの精神は脆い。悲惨な真実を知るだけで、容易に壊れてしまうのだ……。
「どうしたらいいの? マグノリアの力で助けることはできないの?」
『衝撃を与えれば壊れるかもしれない。だけど、中の彼がどれほどまでの衝撃に耐えられるかがわからない』
「暖めたら溶かせないかしら」
『暖めるような彩謌は藍猫や橙戌には使えない。ダェグの彩謌なら該当するものがいくつかあるけど、あなたはひとつの音しか出せない。石も持ってきていないでしょう?』
わたしはポケットなどをまさぐるけど、当然持っていない。
なんという役立たずなんだわたしは。絶望しかけたときに、マグノリアの声が聞こえる。
『少し試してみたい彩謌があるから、体を貸してもらってもいい?』
「もちろんよ」
わたしがそう答えた瞬間、体の痛みや寒さがスッと引いていった。
代わりに痛みを引き受けたマグノリアは、呻き声ひとつあげずにルカさんに向けて彩謌を放つ。
『軟化』、『恒常』、『波浪』、『水塊』、『散乱』、『串刺』……ひたすらにマグノリアは音を出していく。
ルカさんの周りの塊は、その度に何やら変化を見せていたけど、彩謌の効果が終わるとあっさり元に戻ってしまう。
何度も何度も試行を繰り返した後、彼女はついに膝を地に落として呻き声をあげた。
『大丈夫? マグノリア……』
「駄目だわ。この塊、なんだか固体じゃないことくらいはわかったのだけど、それくらいしかわからない」
『固体じゃない?』
「氷というよりは、薄い何かの膜で覆われた液体や気体に近い。固体をぶつけることによる衝撃では、容易にエネルギーが分散されるし、かといって液体に干渉する彩謌にも反応しない。厳密には液体ではないからかしら」
マグノリアは右手をそっとルカさんに近付けて、短い悲鳴をあげてから引っ込めた。
右手が赤黒く染まっている。彼女はその痛みに両目の端から涙を伝わせた。
「ごめんなさい。ルカ……わたしのせいでこんなことになって……」
肩を震わせるマグノリア。
「わたしは、ただ……幸せになりたかったの。幸せになれるかどうか、試したかっただけなの」
両目からボロボロと涙をこぼしながら、彼女は独白を始めた。
「わたしという罪深い魂が、罪をなかったことにできるのなら……。もしわたしが、ロイの与えてくれた選択肢を選び直せたなら、幸せになれたのかを知りたかっただけなのよ」
『マグノリア……』
「わたしはね、カノン。あなたが好きだった。罪を知らないあなたが好きだった。罪を知らなければ、いつまでも無垢でいられると思っていた。きっと幸せになれると思っていた……」
彼女は歯を食いしばり、乱暴に涙を拭う。それが彼女の強いところだ。わたしとは違う。
彼女は溢れる涙を拭って拭って、ルカさんをまっすぐに見た。
マグノリアは真実を覆い隠さず、まっすぐに見つめる強さがある。わたしにはない強さだ。
彼女が何か罪を犯して、それに怯えていようとも、わたしと違って泣きながら逃げ出したりはしない……。
そう思った矢先、マグノリアは妙なことを口走った。
「違うわ、カノン。わたしはあなたと同じよ。だからあなたはそう考えるの。わたしがあなたをそう考えるように仕向けているから」
ーーえ?
「わたしを作ったのはあなた。あなたを作ったのはわたし。あなたとわたしは元々ひとつの魂なのよ。わたしたちの利害が一致したから、わかれているように振る舞っているだけ」
心臓が早鐘を打つ。何を言っているのだろう、マグノリアは。
わたしは乾いた笑いを発する。マグノリアは追い詰められておかしくなってしまったのかしら。
こんなときに、変なことを言うのはやめて欲しい。だってマグノリアはわたしの前世で、カノンは今世に生まれ変わった魂でしょう? 経験も考え方も価値観も違う。そういう話じゃなかったっけ?
「都合が良いからそう分けただけ。マグノリアはこういう性格ではなかった。あなたは断片的に夢を見たでしょう? マグノリアはこんな苛烈な女の子じゃなかった」
…………。
「わたしもカノンなのよ。わたしとあなたはどちらもカノン。罪を知らない弱いあなたと、罪を知る強いわたしを隔てただけの、同一の魂。今まではそれで都合が良かったからそのままにしていただけ。だけどあなたが罪を知ってしまって、分ける意味がだんだんなくなっていった」
………………。
「ねぇカノン。そろそろ茶番は終わりにしましょう。わたしたちは責任を取らなければならない。取り返しのつかないことをしてしまった責任を……」
マグノリアは、ペタリと座り込んだ。膝を抱えて、毛の抜けた毛皮の外套に顔を埋めた。
それはマグノリアのした行動だったのか、わたしがした行動だったのか。緩やかに戻ってきた痛覚に顔をしかめる。ボロボロになった外套は寒さを防いでくれないので、肩を思い切り抱きしめて震える体を押さえつけた。
龍紫は何をしているのだろう。外に出たまま帰ってこない。手紙を出すのだから、きっと鳩でも飛ばしているのだろう。スイさんも白い鳥を操って手紙のやり取りをしていた。白い動物なら、白子と同じく操ることが出来るのだ。
覆面をした人形たちは部屋の隅で打ち捨てられたように転がっている。龍紫はあまり力が残っていない司彩なのかもしれない。人形を同時並行して動かすほどの力をもう持っていないのかもしれない。
『ねぇ、カノン。どうして司彩は永遠の時を生かされているんだと思う?』
頭の中に、もうひとりのわたしの声が響く。
もはやこれは会話ではない。ただの自問自答だと思いながら、わたしは彼女の言葉を黙って聞いていた。
『特に役割があるわけでもない。人を助ければ余計なことをしたと言われ、助けなければ何もやることがなく苦しむ。自分勝手に生きてみたら恨まれて命を狙われ、自分の殻に閉じ籠れば孤独に狂ってしまう』
龍紫は多分、末期の状態なのだ。虎白さまとなにがあったのかはわからないけど、とてもまともな思考回路をしているとは思えない。
彼女は何のために生きているのだろう。死ぬことが出来ないから生きているだけじゃないだろうか。
エリファレットは何のために生きていただろう。ひたすらに自分の故郷の保存を望み、力を行使し続けていた。
橙戌は何のために生きていただろう。金凰は何のために生きていただろう。兎緋は何のために生きていただろう。彼らのことはよくわからないけど、とても神さまの力を与えられた崇高な存在とは思えない人たちではあった。
『創世記では、創造神が天子ハクを作ったと書いてあった。司彩を作ったとは書いていなかった。創世記の司彩はただの白子の指導者的な存在だった。では今の司彩は誰が作ったの? 白子が中途半端な神さまになるというこのシステムは誰が作ったの? 何のために作ったの? 司彩は一体何をするために生まれたの?』
知らない。わからない。創世記なんて作り話なんじゃないの? そもそも天子なんて本当にいたのかしら。神さまなんて本当にいるのかしら。
『司彩は神さまじゃない。いくらたくさんの白子を食べても、永遠を生きられるようには出来ていない。だから苦しむの、生きられないのに生きなさいと言われるから苦しむの。苦しむことが白子に課せられたことなの? どうして? 白子は前世で悪いことをしたからなの? わたしたちは罰を与えられているの?』
それはルカさんも言っていた。わたしは否定したけど、ルカさんが正しかったのかもしれない。あなたも同じことを言うのなら、きっとそうなんだわ……。
『白子は苦しむことを求められているの? どうして? わたしが悪いことをしたから? 天子さまの貢ぎ物を食べた罰なの? わたしは許されることなく永遠を生きることを求められているの? 永遠に苦しむことを神さまは望んでおられるの?』
マグノリア。わたしはあなたに教えてもらっていない。あなたはそれほどまでに悪いことをしたの? 永遠に苦しむことを望まれるほど、愚かなことをしでかしたの?
そろそろ教えてくれてもいいんじゃない、マグノリア。
『カノン』
ヒヤリと心にすきま風が吹いた気がした。頭の中でマグノリアが、無表情な瞳をこちらに向けて口を開く。
『藍猫に体を与えましょう。カノンの名を捨てましょう』
カノンの名を捨てる。それは、わたしであり続けることを諦めるということ?
『わたしがわたしであることを捨てたなら、わたしはもう苦しむことはない。ルカのことも、虎白のことも忘れられる。全ては無かったことにできる』
無かったことにはできないわ。マグノリア。わたしが逃げてもルカさんは苦しみ続けるし、虎白さまには迷惑がかかり続ける。
無かったことにはできないわ、マグノリア。
『できるわ。無かったことに、できる。できる。できる。できる』
壊れた蓄音機のように、マグノリアは頭の中で同じフレーズを繰り返した。
できる。できる。できる。できる。できる。
頭が割れそうに痛い。見たこともない風景が目まぐるしく脳裏を駆け巡っては消える。
わたしはもう駄目なのかもしれない。そう思ったとき、入り口からやかましい奇声が聞こえてきた。