第二十一章(5)
意識を浮上させたわたしは、ルカさんの赤い瞳と目が合った。
起こしてしまった。いえ、チャフさんの一喝でルカさんも同時に目を覚ましたのだ。
わたしは気まずさにおののく。夢を覗いていたのがバレてしまったと思った。
「何をしてる?」
「いえ、何も……」
咄嗟にそう答えたけど、無駄なような気もした。
ルカさんの方が多分、何枚も上手なのだ。彩謌だったり、それ以外の不思議な術も全部、彼はわたしよりも把握している。
ルカさんにバレている。ルカさんの秘密を覗いてしまったことがバレている。わたしはバツの悪さを誤魔化すために開き直った。
何が悪いと言うの? わたしは散々ルカさんに翻弄されて、悪意に唆されて人生をめちゃめちゃにされてしまった。わたしがルカさんを知ろうとするのは、正当防衛のためだ。彼の夢を覗くのは、これ以上ルカさんに振り回されないために必要な行為だったんだ!
「ルカさんはズルいですよ」
わたしは、彼がわたしを責めているという前提のもと、先制攻撃を仕掛けるつもりで口を開いた。
「ルカさんはズルいです。ルカさんはイブさんのことを今でも悪いと思っているのでしょう。贖えない罪を償うために、自傷行為をしていたのでしょう? わかりますよ、わたしには。今のわたしにはわかる……」
「…………」
ルカさんは何も言わなかった。ただ冷たい目でわたしを見ていた。
そんな目で見られるなんて、おかしいわ。わたしはそこまで悪いことをしたかしら。
わたしは不安と焦りに任せるままに口を開く。
「ルカさんはズルいですよ。あなたの罪は贖えないんです。わたしと同じです。何をしたってもう駄目なんですよ! なのにあなたはすり替えようとしている。問題をすり替えようとしている。イブさんに似た状況のわたしをイブさんの代わりに救えば、許されるのだと思っている」
「………………」
「ルカさんはズルいです。楽をしようとしている! そんなことで罪はなくならないのに、なくなることにして逃げようとしている! 平穏を得ようとしている! 許されない罪を犯しているのに、勝手に救われようとしている!」
「……………………」
ルカさんが何も言わないのを良いことに、わたしは胸に溜まった鬱憤を吐き散らしていた。
そんなことを本気で思っているわけじゃない、なのにわたしの言葉は止まらない。
ひとりで普通に戻ろうとしているルカさんへの嫉妬心が止まらない。
「ルカさんはイブさんとわたしを重ねているだけなんですよ。わたしはイブさんじゃない、わたしを救ってもイブさんは許してくれません。勝手に罪をすり替えて、勝手に許されようとしている! そんなのズルいです。ズルいですよ。死よりも辛いこの人生から逃げようとしているだけです! 卑怯なやり方ですよ!」
「……ズルくてなにか悪いことがあるのか?」
「え……」
わたしは間抜けな声を出した。
急に反撃してきたルカさんに、わたしは驚いて言葉に詰まってしまった。
「お前には関係ないだろう。これは俺のやり方だ。そもそも俺にはイブのことは関係ない。あれは前世の話だ。俺がイブのことを責められる謂われもないし、俺がイブのことで気に病む必要もない」
「…………」
「お前を救おうとするのは、俺のせいでお前が不利益を被ったからで、俺の責任だからだ。イブのことは関係ない。チャフがどう思っているかは知らねぇが」
ルカさんは淡々としていた。感情を見せずに語る様子に、わたしは恐怖を感じた。
激昂してくれたほうがどんなに楽だったか。反射的に泣いて謝ったら、きっとすぐにルカさんは許してくれただろう。
だけどルカさんはその手を封じ込めるように、淡々と語った。多分ルカさんは、わたしの態度に心底落胆したのだと思う。
「お前はお前であって、俺は俺だ。お前の物差しで俺を測るんじゃねーよ。お前の問題はお前が解決しなきゃいけねぇんだし、俺の問題は俺が解決する」
ルカさんはわたしを冷たく見下して、吐き捨てるように言った。
「人の粗なんて探してねぇで、いい加減自分と向き合えよ。お前は一体どうなりたいんだ。これからどうしたいんだ。それが決まらないと、俺はお前にどう接すればいいかわかんねぇし、俺たちはどこにも進めねぇんだよ……」
ぷいと背中を向け、ルカさんは再び眠ろうとし始める。きっと眠れないだろうけど、まだ辺りは暗い。
彼は頑張って寝ようとする。眠れなくても、悪夢にうなされても、頑張って寝ようとする。それが彼の選んだ道だ。わたしにとやかく言う権利はない。
それなのにわたしは、平穏に続く道を選ぼうとする彼を妬んで、浅ましくも足を引っ張ろうとした。
わたしは馬鹿だ。馬鹿で愚かだ。わかっていたのだけど、わかっていなかった。
わたしはルカさんと仲良くなりたかった。その気持ちは出会った頃から変わらない。
なのにどうして、こんな態度を取ってしまうんだろう。どうして素直に言えないのだろう。
『わたしはルカさんの幸せを願っているし、わたしも一緒に幸せになりたい』と。一緒に、暖かくて穏やかな暮らしをしたいのだと、どうして言えないのだろう。
わかっている。わかっているわ。それはわたしの中にいる、姉さまやリリムやサリーの怨念が、わたしの幸せを望んでいないから。
わたしは彼女たちを振り切ることができないし、振り切ろうとしない。ルカさんがイブの怨念を振り切ろうとしているように、わたしも振り切るべきなのだ。彼女たちはわたしが作った幻影なのだから。本当の彼女たちはもう亡くなってしまったのだから。
わたしの思いとは裏腹に、その日からわたしたちはギクシャクするようになった。
ルカさんは朝日が昇ると仕事に出て、日が暮れるまで戻ってこない。
帰ってきても、わたしに笑顔を向けることもなくなり、ひたすらにランプの下で本を読んでいる。
わたしは何度も謝ろうと思ったけどできなかった。またあの冷たい目を向けられるのが怖くて、何も言うことができなかった。
わたしはどうすれば良いかわからなかった。どうしたいのかわからなかった。だけどそれは傷付きたくない一心で取り繕った言い訳でしかなく、とうの昔にやるべきことはわかっていた。
わたしの首には、パルフィートと緑の石がぶら下がっている。たったふたつになってしまったわたしの持ち物だ。
緑の石を手に取ってわたしは想いを馳せた。スイさんがかつてわたしに語ってくれたことを思い出す。
『自分がどうありたいか、明確に思い浮かべてそれを実行し続ける。その意志が強ければ、結果は必ず付いてくる』
『自分というものはね、自分で創って行くものなんだよカノン』
成りたい自分になるためには、努力をしないといけない。それは辛いものかもしれない。血の滲む思いをしなくてはいけないのかもしれない。
だけどスイさんはわたしに語った。
望まずに司彩になってしまったわたしでも、今からでも、成りたい自分になることができると。努力さえすれば、希望を取り戻せるのだと。
わたしはルカさんと仲良くなりたい。ルカさんと穏やかな暮らしをしたい。
そのためにわたしは努力をすればいいだけだ。理想を描いて、努力をすればいいだけだった。
それだけだったのに。
いつもわたしは気付くのが遅い。行動するのが遅い。
そのせいでいつも、幸せな選択肢を取り逃してしまうのだ。
とあるお昼間のことだった。
コンコン、と不自然な音が聞こえた。気のせいだと思って無視しようとすると、もう一度音がする。
ノックの音だと気が付くのに、それほど時間はかからなかった。
誰だろう。こんな辺鄙なところに人が訪ねてくるはずがない。
わたしたちがここに隠れ住んでいるなんて、いくら虎白さまでもまだ知らないだろう。
コンコン。コンコン。再びノックの音がする。
もしかして、遭難した人が助けを求めているのかもしれない。外は一面の雪原だ。ルカさんが雪かきをしてくれているので、この小屋に誰かが住んでいることは一目瞭然だ。
旅人が暖を求めて来訪しただけかもしれないわ。わたしは立ち上がり、恐る恐る扉を開いてみる。すると、そこにいたのは……目を疑うような容貌のお客さんだった。
「こんにちは」
わたしを見てニコリと微笑んだのは、小さな女の子。
前髪とサイドの髪が綺麗に切り揃えられた、艶のある濃紫の長い髪の美少女。
切れ長の瞳は明るい紫をしていて、吸い込まれるような美しさだ。
わたしは呆気に取られ、何も喋ることができないまま彼女に見とれた。
「ようこそ、イリスへ。カノンと言ったかな? 楽しく暮らせていたようで何よりじゃ」
少女にしては低く良く通る声で、彼女は語った。
何を言われているのかは、頭が麻痺して良くわからない。
クスクスと笑う声が、とても不気味で背中が寒くなった。
「出会ったばかりで申し訳ないが、カノン。妾の望みを叶えてくれはせんかのう」
望み? あなたの望みを叶える? わたしは嫌な予感に震えながら、彼女を見た。
彼女は醜悪な笑顔を浮かべながら、楽しそうに語る。
「なに、大したことではない。妾と一緒に来てほしいだけじゃ。彼は一緒に来てくれると言っておるぞ」
「か、彼……?」
わたしは震えながら、彼女が振り返る方向を、彼女の視線の先を目で追う。
庭に一台の荷車が停まっていた。車輪はなく、そりのようになった簡素な荷車が、立派な角を生やした真っ白な獣にくくりつけられている。
その荷車には、大きな塊がひとつだけ乗っていた。
わたしはそれがなんなのかすぐに気が付いて、ヒッと喉から声を出す。
「ルカさん……!」
わたしは思わず駆け出した。雪に足を取られながら、よたよたと情けなく歩を進める。
やっとたどり着いた先で、わたしは塊に手を触れてギャッと悲鳴を上げた。
熱い! いえ、冷たいの? わたしの皮膚は一瞬で火傷のように皮膚が捲れあがり、水ぶくれができてしまった。
手を押さえながら、わたしは塊を眺める。塊は半透明だった。空気を噛んでいるのか、ところどころが白く霞んでいて、表面からヒヤリとしたモヤを出していた。
「ルカさん……」
わたしはもう一度、彼の名前を口にする。塊はわたしの胸ほどの高さだった。しゃがむと中が良く見えて、彼の顔がすぐ側にあった。
固まっている。ルカさんは左膝を地面に付けた格好で、右手をこちらに差し出したまま固まっていた。
きょとんとした顔で、何かを語りかけようとする様子で固まっている。
きっと困っている振りかなにかをしていたあの子に声をかけたのだろう。
ルカさんは優しいから。優しいから……。
「それで、カノンよ。共に来てくれるかのう? 妾はこれから家に帰るのじゃ。この氷と一緒に帰るところでの」
「ルカさんをどうする気なんですか」
「ん? こやつか? 別に、どうもせんよ。ただ妾はお前に共に来て欲しいだけでの」
「じゃあルカさんは……」
わたしのせいで、またトラブルに巻き込まれてしまったの? わたしのせいで……。
「はよう乗れ。出発じゃ。はようせんと、この男、死んでしまうぞ。普通ならもう死んでいてもおかしくないが、こやつは特殊な体質をしておるようじゃな」
少女はのんびりとこちらへ歩みながら、わたしを急かした。わたしは彼女の言うことを聞くしかなく、震えながら荷車に乗り込む。
ポカンとした顔のルカさんを見つめながら、わたしは燃えるような痛みの手のひらを握りしめた。
ルカさん、ルカさん。どうか、どうか、無事でいて。
無事でいて……。