第二十一章(4)
わたしはそれからも悪夢を見続けた。
毎晩のようにたくさんの人がわたしの夢枕に立って、わたしへ呪いの言葉を吐いていった。
わたしは相変わらず毎食に食器を体に突き立てたい衝動に駆られたけど、ルカさんを泣かせたくない一心で思い止まった。
イリスはとても寒い国のようだ。この山小屋に来て一月しか経っていないような気がするけど、どんどん積雪が増していき、今や辺りは見渡す限りの大雪原に変わっている。
ルカさんが毎日雪掻きをして、麓の集落までの動線を維持していたようだけど、一人の手であとどのくらい保持できるのかはわからない。
わたしは手伝いを頼まれなかったし、手伝う気力も湧いてこなかったので、ただルカさんの毎日の報告を頭にインプットするだけだった。
何のイベントもない、静かで穏やかな日々はわたしにとって毒なのか薬なのか全くわからない。
呪いの言葉を吐く人々に混じってわたしは変な夢を見るようになった。
わたしは船に揺られている。わたしのまわりにはたくさんの果物やお酒、乾物など保存食の類いが積まれている。宝飾品の類いもたくさん積まれていた。
わたしはその中を這うように移動し、食べ物を掴み、むさぼり食べる。
お腹がすいた。お腹がすいたの。どうしてもお腹がすくの。苦しい。耐えられない。喉も乾いた。お水が飲みたい。
わたしは食べられるもの、飲めるものは全て口に入れ、食べられない宝飾品は海へと投げ捨てた。
船を軽くするのよ。そうしたらわたしの手でも流れに逆らえるかもしれない。
陸に戻るの。村に戻るの。家族の元に戻るの。
帰りたい戻りたい死にたくない、助けて、わたしを助けて、助けて……。
わたしの脳裏に、崖の上で叫んでいる少年の姿が浮かぶ。
彼の声が頭に響く。
『マグノリア! 行くなよ。どうして行っちゃうんだ……』
「カノン! 大丈夫か?!」
わたしは喉の奥からこみ上げてきた液体を目の前にぶちまけ、ゴホゴホと咳き込んた。
口の中が酸っぱい。ほとんど何も食べていないのだから、胃の中から出てくるものは液体だけだ。
ルカさんが背中をさすってくれ、ぼろ布を手に持たせてくれる。
「だ、大丈夫です、ごめんなさい、ごめんなさい……」
わたしはパニックになりながら体を拭きつつ、吐気の続く口を布で押さえた。しばらく気持ち悪さが続いたけど、食器を見えないように遠ざけたら次第に治まっていった。
わたしはこの日から、物を食べようとするごとに吐くようになってしまった。食べ物をどうしても受け付けない。食器や食材を見るだけで気持ち悪くなってしまう。何故だかわからない。理由を考えようとすると、何者かに頭をもみくちゃにされた。
「無理なことを言って悪かった。食べろと言われても、すぐには無理だよな……」
ある日ルカさんは悲しそうにそう言って、食事を作るのを止めてしまった。料理を止めてしまうと、暖炉に火を灯すのもあまり意味がなくなってしまう。わたしたちは何故だか寒さを感じなかったから、もはや火は明かりとしての役割しか果たさなかった。
わたしは面倒になり、任されていた日中の暖炉の世話をやめてしまう。すると部屋にも霜が下りるようになり、井戸水のポンプも固まって動かなくなってしまった。
ひと月かけてルカさんが作った普通の生活は、わたしのせいでものの三日で駄目になってしまった。
「ごめんなさい、ルカさん。せっかくルカさんが色々頑張ってくれたのに……」
「いいさ。時間はたっぷりあるんだ。俺たちのペースでやっていこう」
ルカさんは日中の雪掻き仕事から帰ると、ランプにだけ火を灯して夜に備えた。
冬が近づき、だんだんと日が短くなっていた。
ルカさんの読書好きは相当なもので、どこからか拾ってきた本で小さな本棚はいつの間にか賑やかになっている。
「どこから本を持ってくるんですか?」
「麓の集落で買ったんだ。意外と色んなものが流通してる。面白い村だぞ」
遠目に見えたあの村は、エルツという名前らしい。近場の山で鉱石が採れるらしく、見た目よりは裕福な村らしい。
「仕事ももらえそうなんだ。若い働き手が欲しいんだと」
「白子でも雇ってくれるんですか?」
「帽子を被ってるし、厚着もしてるから。髪の色なんてわかんねーよ」
「そうなんですか……」
毎日が新しい情報に溢れているルカさん。わたしは段々と焦りを感じるようになった。
わたしも外に出た方がいいのかしら。ルカさんは着々と普通の人になろうとしているのに、わたしは未だに動き出せない。
ポケットの中でいつの間にか止まってしまった懐中時計が自分と重なる。わたしの時間はずっと歩みを止めたままだ。無理にでもゼンマイを巻かないといつまでも動き出せない。
わたしはある日思い立ち、鍵を差し込みゼンマイを巻いてみたけど、残念なことに時計は動かなかった。すでに壊れてしまっていたのだ。わたしの人生と同じ。
悲しくなったわたしは、時計を布でくるんで物置の奥に押し込み、もう二度と見ないと心に誓った。
食事を摂らなくなってから、わたしは再び眠れなくなり、長い夜に退屈するようになる。ルカさんは相変わらず隣で寝息を立てている。幸せそうな様子にわたしの胸はモヤモヤで溢れかえったけど、彼の様子を観察しているとその気持ちが薄れていく。
ルカさんは完全に元に戻れたわけではないようだ。安らかな顔をしていたかと思うと、急に眉を寄せて苦しそうに寝返りを打つ。わたしが気付いていなかっただけで、彼は今も悪夢に悩まされているのかもしれない。
わたしは筵から起き上がり、彼の横に正座した。再び安寧な表情に戻った彼を眺めながら、額に意識を集中する。
わたしはなんとなくわかっていた。他人の夢の中に入り込む方法を。マグノリアがやっていたことのごく一部を、わたしは自分の意思でできるようになっていた。彩謌の使い方とかはまだわからないけど、動かないルカさんと意識を繋ぐことくらいならできる。
額からゆっくりと意識の糸を紡ぎ、彼の額まで繋ぐ。
焦らず、ゆっくりと。どうせ夜は暇なんだ。失敗したところで、いくらでもやり直せる。
何度か集中力が切れ、糸は霧散してしまったけど、わたしはこの夜のうちにルカさんまで辿り着くことができた。
瞼を閉じたわたしの目の前に、いつか見た光景が広がる。
「ねぇねぇ、チャフ。次はあっちに行ってみようよ」
赤毛の少女がルカさんの手を引っ張る。見渡す限りの泥だらけの廃墟で、ふたりは楽しげに冒険をしている。
性懲りもなくこんな夢を見ているのか。わたしは少し呆れながらも、ふわふわとした夢の世界を散策した。
以前は気付かなかったいくつかのことに気付くことができた。
ひとつめは、言葉について。わたしはすでに神さまの言葉を不自由なく理解することができるようになっていたから意識しなかったのだけど、ルカさんの夢の中の人たちはみんな神さまの言葉を喋っていた。
ルカさんが神さまの言葉を完璧に操れていたのは、もしかしたら前世がカミコトバを喋る世界の人だったからなのかもしれない。
ふたつめは、ノギスについて。以前は影も形も見つけることができなかった彼女だけど、今回はほんの一瞬だけだけど見つけることができた。
ノギスはチャフさんのことを恩人だと言っていたけど、特にふたりは会話などすることもなく、そこまで接点があったとは思えない。どうしてノギスはチャフさんをそこまで慕っていたのだろう。わからないままだ。
カミコトバが公用語であるこの世界は、一体どこにあった世界なのだろう。ここに住んでいた人たちは、果たして何者だったのだろう。
わたしの疑問が解消することはないままに、イブとの穏やかな日々が終わり、夢は悪夢へと足を伸ばしていく。
森で恐ろしい獣に追いかけられて、木のウロに逃げ込むルカさん。震えながらイブの悲鳴を聞く。何度見ても嫌なシーンだ。
死にたくない一心で大切な人を見捨ててしまう。そして死ぬよりも辛い事実を突きつけられてしまう。それはわたしにも身に覚えのある出来事であり、ルカさんの苦痛が手に取るようにわかる。
ルカさんが死を恐れない理想の自分にならんが為に、自殺行為を繰り返していた理由が、今では良くわかる。
わたしは吐き気に襲われた。夢の中だから吐くことはなかったけど、これ以上イブの悲鳴を聞き続けるのは無理だと思った。
もう目を覚まそう。そう思ったとき、ふと悲鳴が止む。何事かと首を傾げていると、背後から声がした。
「何をしているんですか? ルカさん。一緒にクッキーを食べましょうよ!」
なんとも場違いな、明るい声だった。
ルカさんは顔を上げて、後ろを見る。いつの間にか辺りは森ではなく、懲罰房の中に変わっていた。
背後にいたのはわたしだ。間の抜けた顔でこちらに手を伸ばしている。
「ルカさん! 一緒にお祭りに行きましょう」
わたしが立っている場所は何故だかとても眩しかったから、ルカさんは少しだけたじろぎ、身動きできないでいた。
するとわたしは悲しそうな顔をして、情けない声でこう言った。
「わたしと、お祭りに行って欲しいんですけど……」
あまりにも情けない顔。哀れみの気持ちに晒されたわたしは手を伸ばした。ルカさんも同様に、手を伸ばした。
わたしは彼をものすごい力で暗闇から引っ張りあげて、日の当たる世界へと連れ出した。
そこはわたしがルカさんと仲を深めた、地下の祭壇がある場所だった。
不思議な光景だった。わたしは自分の記憶と似通った光景を、ルカさんの視点で追うことになった。
祭壇の部屋でのわたしたち。旧約の書の原本やテオドア消失の謎を追った。ワクワクとした気持ちに満たされながら、場面は再び懲罰房に戻る。
熟睡できて機嫌が良くなったルカさんと、文字の勉強をしたりした。わたしは先生面をして得意気に黒板を叩いている。なんだか恥ずかしい。なんて偉そうなの。
お祭りにも行った。わたしは見るからに舞い上がっていて、ルカさんを引っ張って色んな場所に連れていく。パルフィートの音色は夢の中でも綺麗だった。"ゆりかごの歌"はルカさんの心にも染み渡ったようだ。夢の中が懐かしい気持ちで溢れかえったのは、わたしだけの感情ではなさそうだ。
夢の中はすっかりわたし一色に染まっていた。イブ一色だった前半と同じように、穏やかで幸せな時間が流れていた。
ルカさんの中でわたしの存在がこれほどまでに大きいとは知らなかった。
わたしは嬉しい反面、なんだか恥ずかしい気持ちにも晒された。目に映るわたしはあまりにも幼稚で、能天気で、間抜けな顔だったから。
むせ返るような幸せな日々は、唐突に終わりを告げる。
イブを襲ったあの獣が突然現れて、ルカさんは慌てて逃げ出す。森の中を走る。逃げる。一心不乱に駆けていき、再び木のウロに滑り込む。
同じようにガタガタと震えるのだけど、外から聞こえるのはイブの声ではない。わたしの声だ。
「ルカさんのせいですよ! 全部! ルカさんのせいです! 全部あなたが悪いんです! あなたのせいです! あなたがちゃんとしないから! ひどい! ひどい! 助けてください! 助けて! 助けて! 助けて! ……」
なんて身勝手な言い分だろう。わたしは胸が締め付けられた。
ルカさんはガタガタと震えている。なおも外のわたしは叫んでいる。恨み言と助けを求める声がめちゃめちゃに混ざりあって反響している。
聞くに耐えない。わたしはイブの声以上に胸が掻き乱されて、吐き気に耐えられなかった。
もう限界、起きよう。そう思ったときに、声が聞こえた。
誰の声? あまり聞き覚えのない声だったけど、なんとなくわかった。
これは、多分……チャフさんの声だ。悪意とも、ルカさんとも違う声で、彼はこう叫んでいた。
「馬鹿! なにやってんだよ! その子はまだ生きているだろ? 目を覚ませ、ルカ!」