第二十一章(3)
わたしたちが転移してきたのは、とても寒い地域のようだった。まだ秋のはずなのに、雪がくるぶしくらいまで降り積もり、見渡す限りが白く染まっている。
耳が痛いほどの静寂に包まれた林の中にわたしは立っていた。吐く息は白いけど、特に寒さを感じない。袖がないワンピースを着ていたのだけど、わたしは気温を気にすることはなく、ただ不自然な服装で目立ってしまうことだけを恐れて剥き出しの腕を抱き締めた。
「寒かったか? ごめんな、ここが一番安全に暮らせると思ったから……」
「いえ、寒くありません。大丈夫ですよ」
ルカさんはサイグラム風の簡素な白いシャツを着ている。多分、イグニアから帰るときに簡単な治療を受けるために上着を脱がされただけの状態だ。
長袖ではあったけど、この雪国ではわたしと大差なく、おかしな格好をした人間だと思われてしまうだろう。
ルカさんは歩きながら語ってくれた。
ここはイリス国の真ん中くらいにある、寂れた農村の近くだという。
イリス国とは龍紫という司彩に治められた国で、アピス国の西に位置する。アピス国とクラウディア国に挟まれた位置にある貧しい国で、あまり表舞台に上がることのない静かな国だという。
「ハクトで歴史の本を買っただろ? それに書いてあった。龍紫は昔からハクトと敵対していたから、ここは一番ハクトと関わりがない国らしい。今やどこも虎白の息がかかっているだろ? この国ならしばらく安全だ」
安全……。虎白さまと離れることが、安全……?
わたしは少し引っ掛かりを覚えながらも、大空にのびのびと腕を伸ばすルカさんの姿に喜びを覚えていた。
ずっと不自由だったルカさんが、この日初めて解放された。彼は自分自身でここに来ることを選び、そしてわたしを一緒に連れてきてくれた。お母さまでなく、他の誰でもなく、供としてわたしを選んでくれた。
相変わらず赤い目をしていたけど、わたしは深く考えることは止めた。良いじゃない、彼が誰であっても。わたしがルカさんと信じていれば、彼はルカさんだ。
ティカさんも言っていた。『誰もほんとのことなんて聞きたくないんだから』。わたしもそう思う。真実に何の意味があるのだろう。
世の中には知らなくて良いことのほうが多く、多分わたしのような凡庸な魂には、受け入れることができないことがたくさんある。
わたしはルカさんと、普通の人として生きたい。そして普通の人として死にたい……。もう何も辛いものは見たくない。苦しいものは欲しくない。ただひたすらに穏やかで、暖かな揺りかごの中で眠るように生きていたい。
ルカさんはなおも右手の指で宙にある何かを弾き、足元に奇妙な模様を付けながら歩いている。
ダリアの花びらのようにも見えるその模様は、雪の上にくっきりと黒く刻まれて、まるで雪が焦げてしまったかのようだった。
何をしているのかはわからないけど、わたしは深く気にしないことにした。多分、わたしが踏み込んではいけない領域のものなんだろう。
わたしは真実を知ることに疲れてしまった。ルカさんがすることはきっと、わたしに害のないことだろうし、たとえ害があっても構わない気もしていた。
わたしはたくさんの人に害を与えてしまったから。今からどんなひどい罰を命じられたって、大して驚きはしない。
ルカさんはわたしを一軒の山小屋に案内した。小さな木造の家で、中には暖炉と炊事場とテーブルがひとつだけあった。
「ここで暮らそう。俺たちの家だ。俺たちの家にした」
家にした、という言い方に少し引っ掛かりを覚えたけど、わたしは静かに頷いてみせた。
窓からは薪が積んである倉庫と、小さな畑が見える。そしてその先にある短い草と雪がまぜこぜになった原っぱの向こうに、ゴツゴツした岩が目立つ山と小さな集落が見える。
暖炉に薪をくべて、火打石と油で火を灯そうとしている彼をわたしはぼんやりと眺めた。
ルカさんはとにかくてきぱきと働いてくれた。わたしたちが目立たないように、暖かそうな毛皮の外套をどこからか調達してきた。食器や掃除用具やら、生活に必要そうな雑貨もどこからか持ってきてくれた。
必要なものがあったらなんでも言ってくれと言われたけど、わたしには何も思い付かない。
ルカさんは材木に釘を打ち簡素な本棚を作り、懐から取り出した本を一冊差し込んで満足そうにしていた。
ルカさんは何をやるのもとても楽しそうだった。
わたしにくれたものと同じ外套を着こんで外出したと思うと、食材やら雑貨やらを持ち帰って料理などを始める。作る料理はティカさんと似ていて、芋がメインの塩味ばかりするスープや煮物だ。作ってはテーブルに並べ、お前も食べろと勧めてくれる。
わたしは食べようとしたのだけど、いつも一口しか食べられずに残してしまった。
「大丈夫だ。規則的な生活をしてればそのうち食えるようになるさ」
ルカさんはそう言って笑い、自身も大してたくさん食べることなくほとんどを庭の畑に撒いて捨ててしまう。
だけど毎日朝と夕に二回、彼は懲りることなく芋料理を食卓に出し続けた。
暗くなるとテーブルを立てて空いたスペースに筵を敷き、柔らかい毛布にくるまって横になる。
お休みと言ってルカさんは背を向けてしまうので、わたしも眠りにつこうと頑張って目を閉じてみたりした。
初めは全く眠れずに、長い夜を静かに過ごしていたのだけど、芋を一欠片食べられた日には眠くなり、わたしは夢を見た。
恐ろしい夢だった。シノン姉さまがローダさまによって処刑されるのをわたしはただぼんやりと見ていた。処刑台から落ちた彼女はむくりと起き上がり、呻き声をあげながらわたしに近付いてくる。
『カノン。よくも、私の幸せを奪ったわね。テッドを返して……テッドならアピスヘイルを救えたのに……』
わたしはごめんなさいと泣きわめきながら目を覚ました。実際声は上げていなかったらしく、ルカさんは隣で静かに眠っていた。
次の夜にはリリムの夢を見た。カーミィとアイリスの骸にしがみついて泣いていた。
『カノンのせいなの。全部カノンが悪いのよ! カーミィもアイリスも何もしていない、ふたりは私よりも八戒を守っていたのに、どうして? どうして?』
わたしは脂汗をかきながら目を覚ました。ルカさんを起こすことはなく、隣からは規則的な寝息が聞こえた。
次の夜にはサリーの夢を見た。サリーはオズワルドさまの亡骸に寄り添ってわめいていた。
『オズワルドくん! オズワルドくん! 起きてよ、オズワルドくん! 私はあなたのために頑張ったのに……次の白子がこんなにもポンコツなんて思っていなかった……ごめんなさい、ごめんなさい……』
サリーの顔は何故かわたしの顔をしていた。わたしは恐ろしくて心臓をばくばくとさせながら目を覚ました。
「何をしてるんだ! カノン!」
ルカさんの鋭い声に、わたしは意識を浮上させる。
「やめろよ、血が出てるじゃねぇか」
わたしは右手に握ったフォークの先を、左手の手首に突き刺していた。
痛い。痛くて頭の中が真っ白になる。その感覚が小気味良くて、わたしは食事中についフォークを体に突き立てるようになっていた。
「別に、良いじゃないですか……どうせすぐに治るんです」
「駄目だ、そんなことをしたら。普通の人間から遠ざかっちまう」
ルカさんはすぐにフォークを取り上げたけど、わたしは次の食卓でも同じようなことをした。
「やめろ、カノン。こんなことはするな」
「どうしてですか? ルカさんもしていたじゃないですか」
わたしがそう口答えをすると、ルカさんはぐぅと言葉を詰まらせて俯く。だけど彼は諦めず、すぐに顔を上げて言った。
「俺がお前に迷惑をかけたことは謝る。謝るからやめてくれ」
「わたしはこうすると落ち着くんです。罪深い自分のことを忘れられるんです。これをやめたら、わたしはどうやって自分の罪と向き合えば良いんですか……」
「お前に罪なんかない。全部周りが勝手に自滅しただけだろ! お前は何も悪くない」
「わたしに罪がないわけがない、わたしが悪いんです、全部わたしのせいなんです!」
わたしはフォークの先をズブズブと腕に埋め込み、ルカさんに奪われないようにめちゃくちゃに抵抗した。
「落ち着けよ、どうしてそんなに自分を責めるんだ? お前は悪くない! お前は無茶なことを言われ続けて、それを投げ出さずに頑張っていただけじゃないか」
「出来ないならさっさと投げ出してしまった方が良かったんですよ! いつもわたしは、身の丈以上のことに首を突っ込んではぶち壊していくんです。身の程知らずの愚か者です! すべての災厄の元凶ですよ!」
「違うだろ、お前はずっと逃げ出したいと思っていたのに、周りがそうさせなかったんだろ。お前は期待に応えようとしていただけだ。お前は悪くない!」
「だったら、ルカさんのせいですよ!」
フォークを取り上げられたわたしは、ガンと拳で机を叩いて叫ぶ。
「全部ルカさんが悪いんじゃないですか! アピスヘイルの伝統を理解せず、めちゃくちゃに荒らして、わたしに甘いことを言って逃げ腰にさせたのはルカさんです! わたしはルカさんがいなかったら、ちゃんとお役目を果たせていたんですよ!」
しんと静まる部屋の中。ルカさんはショックを受けたような顔をして固まっていたけど、わたしはそれが小気味良くて、さらに言葉を続けた。
「ルカさんのせいですよ! ルカさんがちゃんとしていれば何も起こらなかった! テオドアはいなくならなかったし、エリファレットさまと橙戌だって殺されなかった! 世界が混乱することはなかったし、虎白さまは安心してハクトを治めることができた! わたしがこんなに苦しむことはなかった! わたしはサリーのように英雄として永遠にみんなの記憶に残れたんです!」
ドンドンと机を殴りながら叫ぶ。ずっと胸の奥にしまいこんでいたドロドロを吐き出すように叫ぶ。
「全部ルカさんのせいです! ルカさんのせい! ルカさんのせいなんです!」
目の前にある、陶器の食器を拳で砕いた。
破片が刺さって痛い。痛い。痛い。だけど、痛みが続いているときは余計なことを考えないでいられる。
わたしは大きな破片を拾って手の甲を刺した。痛い。痛い。だけどわたしは、痛みを感じるごとに自分の罪が少しずつ許されていくような気がしていた。
あと何回痛みを感じれば全てが許されるのだろう。わたしは穏やかな生活が送れるようになるのだろう。
痛い。痛い。痛い……。
指がぬるぬるして滑る。生暖かい液体が手のひらに広がり、破片が滑って飛んでいった。
右手も左手も真っ赤だ。でもこの傷もすぐに治ってしまうだろう。わたしは人間じゃないから。司彩とかいう化け物なんだから。
わたしはルカさんと違って臆病だから、首を刺したりはできない。だけど首を刺した方が効率的なのかもしれない。効率的に罪を清算して、穏やかな生活に早く辿り着けるのかもしれない。
そうだ。早く許されて幸せにならなきゃ。いつまでルカさんと二人きりの生活ができるのかもわからない。虎白さまにバレて怒られるかもしれない。早く幸せにならなきゃ。早く早く。
わたしは代わりの凶器を探すために立ち上がる。炊事場に向かおうとして進路を塞がれた。
「ルカさん、どいてください!」
わたしがそう怒鳴ると、ルカさんはわたしを引き寄せ抱き締める。
突然塞がれた視界に、わたしは虚を付かれてしまった。
「俺のせいだ。全部俺が悪いんだ。だからカノン、自分を責めないでくれ」
腕の力が強い。わたしは息苦しさを覚えながら、もぞもぞと顔を上げた。
ルカさんの頬がすぐそばにあって驚いてしまった。
「俺が全部責任を取るから、許してくれ、カノン。時間がかかるかもしれないけど、お前の幸せを探してやるから。だから、自分を傷付けるのはやめてくれ。お願いだからやめてくれ……」
ルカさんの頬には一筋の線が光っていた。
泣いているの? ルカさん……。わたしは急に後悔の念が沸き上がってきた。
ルカさんに酷いことを言ってしまったと、罪深さに押し潰されそうになった。
「カノン。お願いだから、普通の生活をしてくれ。俺たちにはそれが必要なんだよ……」
ルカさんの震える声を聞きながら、わたしも涙を流した。
我慢できなくなって、声を上げてわんわん泣いた。
いつもわたしは泣いてばかりだ。ルカさんの前で泣いてばかり。
わたしは泣きながら思った。
わたしには無理なんだ。罪を受け入れることも、罪を清算することも。
ルカさんを守ることも、虎白さまを助けることも無理なんだ。
わたしはただ、誰かに守られて泣くことしかできない。
それがわたしだ。余計なことはしない方がいい。
わたしはルカさんに守られて泣いているのが一番お似合いな生き方なのだ。
泣いている間、ルカさんはずっとわたしを抱き締めてくれた。
わたしは少しずつ落ち着いていき、いつの間にか泣き疲れて眠ってしまった。