第二十一章(1)
わたしはいつの間にかハクトに戻ってきていた。
どうやって戻ってきたのか全く覚えていない。おそらく城の地下から救助されたアピスヘイルの人たちと一緒に船に乗せられて戻って来たんじゃないかと思う。
ハクトに着いてからもしばらくぼんやりとしていた。
ルカさんのいない家にひとり、いえ、心配してリンさんやニトさん、ウィスさんやアイシャさんが代わる代わる様子を見に来てくれたように思う。だけどわたしは曖昧に笑顔を向けて、大丈夫などと言葉を口にした以外は彼らに意識を向けなかったので、いつ誰がどのくらい家にいたかはよく把握していなかった。
虎白さまとランディスさまはしばらくアピスヘイルに滞在して救助や支援を行うらしい。口だけのわたしと違ってふたりは最後まできっちり仕事をするつもりのようだ。
わたしはふたりについて色々と不満を抱いていたように思うけど、彼らはとても責任感ある大人だなと今は尊敬していた。口だけのわたしとは違う。口だけのわたしとは本当に違う。
『あなたはアピスヘイルを救おうとしていたわ。立派よ』
マグノリアが表面を撫でたような意味のない慰めの言葉をかけてくれたのだけど、わたしは何の反応も返さなかった。
彼女はしばらく頑張って慰めてくれたけど、やがて諦めたように黙り込み、今では何も話しかけてこない。
静かな時間が流れた。それは病的なまでに静かな時間だった。
わたしが戻って来てから三日ほど経ったらしい。リンさんがダイニングに座ったままのわたしに語ってくれた内容に少し興味を引かれた。
「虎白様から名簿を預かりました。アピスヘイルで救助されて、ハクトに移送された人の氏名が書かれています。知り合いがいらっしゃるかも……」
わたしは名簿を受け取り、目を通した。そこには百人を越える人々の名前が書かれていた。知り合いと呼べる人の名前もいくつかあったけど、ほとんどが顔見知り程度の人で、わざわざ会う気にもなれない。
そんな中で、ひとりの名前にわたしの視線は釘付けになった。
"リリム・サナトリム"
「リリムが生きているんですか? ハクトに来ているんですか?」
わたしの興味を引けたことにリンさんは喜び、詳しい話を聞いてきますと家を飛び出していく。ほんの小一時間ほどで戻ってきて、息を弾ませながら彼女はこう言った。
「リリムさんは屋敷の地下室に隠れていて無事だったみたいです。どこにも外傷などはないのですが少し気持ちが落ち込んでいるようなので、町外れの療養所に滞在いただいているようです」
会ってみますか? と問われたので、わたしはつい頷いてしまった。
アリアト派の貴族はほとんどが処刑されている中で、初めて辿り着いた身近な人の生存報告だったから、わたしは少し舞い上がってしまっていた。
リンさんに案内されて辿り着いたのは見覚えのある四角い建物で、アスイさんが暮らしているあの病院であることにすぐに気が付く。
正門を潜り、階段を上っていくにつれ、わたしは段々と冷静な判断を取り戻し始めた。
わたしは一体、リリムに会って何を話すつもりなのだろう。わたしは彼女に何を期待しているというのか。
慰めあうこと? 思い出に浸ること? 友人との再会を抱き合って喜びあえるとでもわたしは思っていたのかしら。
冷静になった頭で、わたしはリリムの病室の前に立った。ゆっくりと扉を開くと、消毒用のアルコールのにおいが流れ出てくる。見覚えのある金色の髪の女の子が、ベッドから半身を起こして窓を見ていた。格子のはまった窓からは、穏やかな風と日差しがカーテンを楽しげに舞わせている。
「リリム」
わたしの声に、彼女は振り向いた。少し長めで切り揃えられた前髪がふわりと靡き、長い睫毛がまばたきと共に揺れる。
少しつり目の、気の強そうな顔はそのままで、わたしは一瞬だけ懐かしい気持ちに満たされた。
それは目蓋が見開かれ、ライムグリーンの瞳が恐怖に震えるまでの一瞬の出来事だった。
「こ、来ないで! いや、違うわ、許して! 私は何も悪いことはしていないわ!」
リリムは突然金切り声を上げる。そして金色の髪を振り乱しながらベッドから這い出て、窓の格子にとりついた。
「近付かないで! ごめんなさい、もう悪いことはしない、いえ、何もしていないんです! 私には何にも罪なんてない! そうでしょうお父様? 助けて、お父様! お父様! お父様はどこなの?」
格子をガタガタと揺らしながら泣き叫ぶ彼女に、わたしは何も言えなかった。身動きすることすら出来なかった。
看護師さんらしき人たちが慌てて部屋に入ってきて、リリムをベッドに引き戻している。
リンさんがわたしの肩を抱き、廊下に優しく押し出した。
「ごめんなさい、リリムさんがこんな状態だなんて……」
主治医の話だと面会に問題はないとのことでしたけど、などと言い訳が耳元を抜けていく。わたしは薄く笑って答えた。
「わたしのせいで、アピスヘイルはああなったんですから。リリムがこうなるのも仕方ないですよ……」
「カノンさんのせいじゃありませんよ、リリムさん、少し混乱しているだけです」
「わたしのせいですよ。少なくとも、アピスヘイルの人たちはそう思っています……」
わたしはリリムの金切り声を聞くのが辛くて、病室から背を向けて歩き出す。リンさんが何事か言うのが聞こえたけど、もはや耳に入ってこなかった。
もう何も聞きたくない。何も知りたくない。わたしは無心に家に戻り、再びダイニングの椅子に座ってぼんやりと壁を眺める生活を始めた。
二晩ほど経過した頃だっただろうか。ガタガタと玄関のほうで音がするのに気が付いた。
家を訪問してくる人は何人もいたけど、みんなわたしを配慮してか、できるだけ音を立てずに来て音を立てずに帰っていく。だからこんなに雑音が響くのは却って新鮮で、つい興味を引かれた。
「なんだい、カノン。いたのかい?」
ひょっこり顔を出したのはティカさんで、彼女はいつものずだ袋にいっぱいつまった食器やらなんやらをやかましく流しにばらまきながらわたしに話しかけ続ける。
「突然来なくなっちまうし、家にもいないから心配してたんだ。あのリンって女の子もあまり喋ってくれないし、みんな何だか辛気臭い顔してるし、何かあったのかい?」
「いえ、別に……」
「元気がないね。ちゃんとごはん食べてるのか? パンでも焼いてやろうか?」
どうやらティカさんは何も知らされていないらしい。わたしも何も言わずにアピスヘイルへ旅立ってしまったわけだから、彼女がこの事態を認識していないのは無理もない。
「大丈夫です。わたしは何も食べなくても平気な体なので……」
わたしは緩く笑ってやり過ごそうとしたけど、ティカさんはムッとした顔をわたしの目の前に付き出してこう言った。
「なんだい、ルカと同じようなことを言って! 人間なんだから物を食べなきゃ生きていけないんだ! 物を食べないなんてそれは、人間じゃないんだよ!」
彼女はブツブツ文句を言いながら、竈に火を起こしなにやら作り始める。
お芋のにおいかしら。少しだけハーブの香りもする。
しばらくして目の前に出されたそれは、ぶつ切りされたお芋が浮かんだ雑なスープだった。
「食べなよ。お塩を沢山いれたから美味しいよ。お腹にも優しいし」
「…………」
「ちゃんと食べな! せっかく作ったんだから」
誰も作ってくれなんて頼んでいないのに。勝手な人だわと思いながらも、わたしは勢いに押されてスプーンを手に取った。
無色のスープを啜ってみる。なるほど、お塩の味が強い。お塩とお芋と、少しだけバジルが入っている。特段不味くはないけど美味しくはないスープだった。
「美味しいだろ?」
「……えっと、そうですね……」
「馬鹿! こういうときは"美味しいです"と返すんだよ! 誰も本当のことなんて聞きたくないんだから」
「えっと、美味しいです……」
ティカさんはニカッと笑って、わたしの向かい側の椅子に座った。
「ルカは大分良くなったよ。少しだけだけど飯を食べるようになったし、良く眠る。うなされることはあまりなくなった」
「そうですか。それは良かったです」
「起きているときは、カノンのことばかり話しているよ。今どうしているのか、どこに行ったのかと」
「…………」
ルカさんは相変わらずだ。相変わらずわたしの心配ばかりしている。
今は自分の体を治すことだけ考えてくれていいのに。
ふとわたしの脳裏にルカさんの夢の内容が浮かんできた。
何にもない、枯れ果てた世界の片隅で、ひたすらイブちゃんのことばかり考えていたチャフさんの夢。
もしかしたらチャフさんは、ルカさんと良く似ている人なのかもしれない。いえ、ルカさんがチャフさんに似ているの? ふたりの関係性は、わたしとマグノリアの関係と同じはずだから、似ている必要性はないはずだ。わたしとマグノリアは全然違う性格をしているんだから、前世と今世の魂は別物のはずだ。
「ルカに会ってやってくれないか? とても寂しそうにしている」
「…………」
「もう会いたくないっていうなら、無理にとは言わないけどさ」
「そんなことはありません。会いたい……です」
そう言いつつも、わたしは迷っていた。わたしはルカさんとこのまま会わないほうが良いのではないかと感じていた。
ルカさんが前世のチャフさんにまつわる何かに巻き込まれた被害者なのは明らかだ。チャフさんと悪意との関係性は未だに良くわからないけど、悪意によってルカさんがテオドアの身代わりになり、わたしと共に藍の都へ行ったことで全ての災厄が引き起こされた。
わたしはすでに悪意に目を付けられている。ルカさんは今は落ち着いているけど、わたしを引き金に悪意を呼び起こしてしまうかもしれない。
虎白さまも言っていた。ルカさんのことを忘れて虎白さまに仕えてくれないかと。
完全にルカさんを忘れてしまえばルカさん親子はこっそりと殺されてしまうかもしれないけど、関わらないようにだけして影から見守っていれば彼らを守れるのかもしれない。
悪意を刺激しないように、ルカさん親子に穏やかな暮らしを与え続ければ、彼らもハクトも守れるのかもしれない。
『そうしたら、あなたは誰に守られるの? あなたに穏やかな暮らしは永遠に訪れないの?』
わたしは守られる権利のない魂だわ。アピスヘイルのみんなを不幸に追いやって、ぬくぬくと暮らすことはもうできないの。
『そんなことはない。あなたは貢ぎ物を食べてはいない。あなたはアピスヘイルを救おうとしていた。あなたは流されただけ。何も間違った選択はしていない』
流されたのが間違っていたのよ。わたしは知ろうとしなかった。何もしなかった。わたしはもう、救われる権利のない魂なのよ。
『そんなことはないわ!』
脳内に響き渡るほどの強い思念に、わたしは思わず耳を塞いだ。ティカさんが不思議そうな顔をしている。
『会いましょうよ。あなたにはルカが必要よ。ルカに会いましょうよ……』
驚いたことに、マグノリアは泣いているようだった。
どうしたのかしら。どうしてそんなに悲しんでいるのかしら。
このままわたしが虎白さまへの仕官を望んだら、わたしの体はマグノリアのものになるのに。どうしてマグノリアは泣いているのかしら。
「どうか、ルカに会ってやって欲しい。私からのたってのお願いだよ」
「……わかりました」
ティカさんの言葉にも後押しされ、わたしはようやく重い腰を上げる気になった。