第二十章(5)
船は『旅立ちの岸』に流れ着いた。
そこはわたしが三ヶ月ほど前に旅立った場所であり、アピスヘイル都民が普段から水葬の儀で棺を流す場所だった。
見覚えのあるままの、閑散とした風景。出迎えは誰もおらず、わたしたちは静かに船を降りて整列した。
みんな無言だったけど、異変を感じていたと思う。今までも長雨特有のじめじめした臭いが国中に充満していたのだけど、アピスヘイル周辺はそれに混じって変な臭いがしていた。
岸に着き、船を降りるとその異臭はさらに強まった。わたしはひどく不安を感じていた。その臭いをわたしはよく知っていたから。
この臭いは、わたしが毎週のラピス・ユニアンの日に不平を漏らしていたあの臭いによく似ていた。長く置いた遺体から発せられる、あの独特の臭いに……。
「『縮地』で確認したが、都民は城前の広場に集まっている。平民区に生者はいない。あの壁の内部に全ての生存者がいる」
虎白さまが大鏡に映し出された風景を眺めながら、ランディスさまたちと最終確認をしている。
「今は城の前の広場に大多数が集まっているようだ。何をしているんだ? よくわからんな……」
「武器を持っている者はあまりいないようです。民兵でしょうか? 武装している集団はいますが、正規兵ではなさそうですね」
「雨が止んだことに皆、動揺しているようです」
船上で打ち合わせられていた通りに、所々のガレキを撤去しながら進軍することになった。
わたしはランディスさまたちアピスヘイルの数名と、虎白さまの部隊にくっついて最前列を歩いた。
周りの景色は、わたしの想像していたものを遥かに凌駕したおぞましいものだった。地面は陥没し、家屋は崩れ、すべてが泥にまみれている。
生物の息遣いはほとんど感じない。ただ、見たこともないくらいの大きな野鳥がそこかしこに止まっていて、ギラギラした目でこちらの動きを観察している。
その黒い鳥達が何かを奪い合うようにつついているのを見かけて、わたしは身を縮ませた。彼らが何をしているのかを考えないように、わたしは必死で前だけを見て足を進めた。
大通りの坂を上り、外城壁の門まで辿り着く。門と言ってももはや何の機能も果たしていない、ただのガレキの山だ。味方の兵士さん達が道を作ってくれ、わたしたちは泥だらけになりながらも先に進むことができた。
貴族区前の広場に着いて、ようやく人の姿が見つかった。広場には布と鉄の骨組みだけで作られた簡易の住居がたくさん並んでいた。武器を持った平民が何人か歩いていて、彼らが一様に驚いた顔を向ける。
「何だ、お前ら……」
何事か騒ぎ立てようとしたので、すぐに味方の兵士さんたちが彼らを取り押さえた。
それを見届けた後、ランディスさまが近くに座っていたお婆さんに話しかける。
「ミレーニアさんですね。私です、ランディス・アルベルト・アピスリムです。皆さんを救助に参りました」
「ああ、ランディス様! お待ちしておりました、お待ちしておりました……」
ふたりの会話で現在の状況が少しずつわかってきた。
この場所は平民のうち、怪我や病気で動けない人や老人が待機している場所であること。元気な若者は現在、大教会前広場で集会に参加していること。武装している平民は、数ヶ月前からアピスヘイルを統制していて、怪我人の救助や治療、配給、仮住居の建設など、さまざまな仕事をしてくれていること。
「彼らは『恩赦兵』と名乗っています。藍猫様は現在私たちに平等に罰を与えておられますが、それを哀れんだ彼らが藍猫様の代わりに、比較的罪が軽いものに救いをもたらしているのです」
「誰が指揮をしているのです? オズワルドですか?」
「いいえ。オズワルド様は真っ先に処刑されてしまいました。彼らを指揮しているのはローディア様です」
「ローディア様ですと?!」
アルベルト派の面々に戦慄が走る。わたしも彼らと同じく、ぞくぞくと悪寒を覚えた。
なにか異常なことが起こっている。オズワルドくんが処刑されたとはどういうことなの。
わたしはローブの上から懐中時計を握りしめた。随分前から時間あわせをしていない。ゼンマイも巻いていないのでもうとっくに針は止まっているだろう。
「なぜローディア様が? アリアト王はどうされたのですか」
「王も側近の方々も、ことごとく処刑されました」
「それは一体何故ですか」
「ローディア様の発案です。あの方は今や、藍猫様の代行者。藍猫様の代わりに神民を裁いているのです」
わたしの頭の中で、ローダさまの華奢な姿がぐるぐると回る。確かに彼女は人よりも藍猫さまに傾倒している所があった。信仰心が強く、正義感が強く、平民から絶大な人気があった。
「ローディア様は、この災害は藍猫様の怒りによるものだと語りました。アピスヘイルの民すべてに罪があるけども、その罪には大小がある。罪深いものから順に裁いていけば、いつか藍猫様の怒りは収まり、罪の軽いものは救われるのだと語りました」
「それで、王とオズワルドは殺されてしまったのですか?」
「はい。ふたりが一番に裁かれました。それから順番に側近の方々が裁かれ、密告や自己申告で神民全ての罪を洗い出し、罪深いと認定された順に毎日十数名ずつ処刑が行われています」
「何故皆はローディアなどに従うのですか」
「ローディア様は狼狽するばかりの頼りない城の方々を早々に見限り、おひとりで平民の前に現れ指揮をしてくださいました。災害に巻き込まれた民を救い、国庫から食糧を配給してくださいました」
そして絶大な支持を得た彼女は、平民の数の力であっという間に政権を奪取し、好き勝手を続けているのだという。
「まさか今、広場に集まっているのは……」
「はい。処刑が行われています」
「それはいかんな」
側で話を聞いていた虎白さまが呟き、ランディスさまたちも立ち上がる。
「止めなければいけません」
「すぐに向かおう」
虎白さまの指示のもと、私たちは進軍を再開した。
目指すは大通りの先の、大教会前広場。お城の正門を出たすぐ先にある広場だ。標高が高いこのあたりは比較的水害も少ないようで、多くの建物が無事であり、道にガレキや土砂が積もっていることはない。
広場に近付くにつれて、声が聞こえた。凛とした女性の声。それはとても懐かしい声で、わたしの脳裏にローダさまの可愛らしい笑顔が浮かんできた。
「雨が止んだのは、罪を清算すべき罪人の数が減ってきたからです。わたくしたちのやってきたことは正しかったのです」
広場の様子がだんだんと明らかになっていく。
たくさんの人たちがお城の方向を向いている。正門前に木製の舞台が作られていて、そこに数人の黒い人影が並んでいるのが見える。
並んでいたのは黒猫の格好をした人だった。ひとりの黒猫が民兵に引き立てられて、舞台のさらに上へと上がっていく。
「もう一息ですわ、皆さま。この罪深い黒猫たちを裁いたら、きっと藍猫様のお許しが得られます」
歓声が上がる中、舞台の一番上にいる黒猫のマスクが取られた。ボサボサの髪と、だらしなく伸びたヒゲに覆われた壮年の男性。
誰なのかはさっぱりわからなかったのだけど、続いて聞こえてきたローダさまの声にわたしは仰天した。
「この者の名はルーク・トムソン。聖なる白子の旅立ちの儀を汚した罪人です。言葉を交わしてはいけないという規則を破り、白子カノンと会話をしたという申告がありました。間違いありませんね? ルーク」
「間違いありません……けれど、ローディア様、私は……」
「申し開きは結構です。藍猫様は全てをご存じです。あなたはただ、死をもって罪を詫び、藍猫様の審判に臨めばよいのです」
ローダさまの言葉には一点の迷いもない。彼女はルークさんたち罪人のいる舞台から少し離れた高台の上にいた。木製の骨組みだけの質素な台には、最低限の範囲の屋根がつけられているだけで、あとは小箱程度の小さな椅子が置かれている。他に何の飾りもない。
その椅子に腰かけたローダさまの装いも、白いブラウスに紺色のワンピースという質素なもの。王権を譲渡されたことを表しているのだろうか。頭にビーズと紐で子供が作ったようなチャチな冠を着けている。それ以外はわたしが見知ったローダさまと変わりがない。
だからこそ、その光景は異様だった。
ローダさまの合図でふたりの民兵がルークさんの首に縄をかける。絞首刑が行われるようだ。わたしは思わず虎白さまに言った。
「ルークさんを助けてください! 彼はわたしに優しくしてくれた人です。そのせいで殺されるなんて……」
「わかった。助けよう」
虎白さまは大きく息を吸い、前方に向かって超音波を発する。それは以前イグニアヘイルの手前の砦で放った彩謌と同じもので、群衆のど真ん中を中心に炸裂したようだ。
中央からバタバタと人が倒れていき、人々の八割くらいがあっという間に眠ってしまった。
虎白さまは続いて石を砕き、『縮地』のルオンで忽然と姿を消す。同時に味方の兵士さんたちが舞台に向けて駆け出した。
あっという間の出来事だった。虎白さまの術がかからなかった一部の平民が逃げ出す波に揉まれながら、わたしは舞台の一部始終を見ていた。
虎白さまはルークさんの左右に立つ民兵を殴り倒し、彼にかけられた縄を切った。
並んでいた黒猫たちは逃げ出す者、呆然と立ち尽くす者の二種類にわかれ、立ち尽くしていた黒猫は虎白さまにすぐに戒めを解かれたようだった。
民兵たちは武器を手に、ローダさまの舞台の周辺へ集まっていた。味方の兵士さんたちが続々と足元に集まり交戦が始まった。
平民の多くは眠るか逃げるかしてしまったけど、一部はどうしてよいかわからずにただぼんやりと舞台を眺めていた。
わたしもそんな中のひとりだった。
ローダさまは少し動揺したように足元の交戦を見ていたようだけど、品のある仕草で立ち上がってこう言った。
「神聖なアピスヘイルの地に土足で入り込んだ愚か者がいるようですわね」
彼女は処刑台にいる虎白さまを一瞥する。
「なにか邪教の術を使うようですけれど、そんなものをこの地で使うのはお止めなさい。藍猫様の怒りに触れてしまいますわ」
「愚か者は貴様だ、小娘。一体何人殺した? 一体何の権限があって人を裁いている?」
「まあ。藍猫様の代行者であるわたくしに、なんてことを仰るのでしょう」
ローダさまはクスクスと笑っている。民兵はただの素人の兵だから、ハクト兵に押されてどんどん数を減らしている。
何故この状況で笑っていられるのだろう。
ローダさまは今度はわたしたち傍観者の方を向き、こう宣言した。
「わたくしは、皆さまに最大の奇跡をお見せいたしますわ。わたくしの命と引き換えに、藍猫様をこの地にお呼びいたします。全ての愚か者に滅びを、救われるべき魂に救いを!」
彼女は両手を天に掲げる。その手には小さなナイフが握られていた。
日の光を反射して怪しく光るそれを、彼女は思い切り自分の喉に突き立てる。
真っ赤なシャワーが舞台下に降り注ぎ、悲鳴がそこかしこから聞こえた。
「ローディア様!」
「しっかりしてください、ローディア様!」
地上に落下した姫を、民兵たちが取り巻いている。
傍観者たちは悲鳴を上げながらも、祈りのポーズを取りながら天を見上げていた。
彼らは奇跡を待っているのだ。藍猫さまの降臨を待っているのだ。しかし、いつまで待っても奇跡は起こらない。
わたしは今更ながら、舞台の方へと足を進める。虎白さまがルークさんを支えて地上に降りてきていた。
「カノン。城の地下にたくさんの人が捕えられているようだ」
「地下……無事なんでしょうか」
「あまり無事ではありません……。早く、早く助けてください……」
ルークさんはまだガタガタと震えていた。近くで見ると彼はとても痩せていることがわかる。
手足は枯れ枝のような細さで、血色も悪い。歯が半分くらい抜けてしまっていて、直視できないほど酷い状態だった。
「カノンはここで待っていろ。クロム、側に付いていてやってくれ」
虎白さまは、有色の兵士の隊長さんにわたしとルークさんを任せて、ランディスさまや他の兵士を引き連れて城へと向かった。
わたしは驚くほど何の役にも立てず、置物のようにぼんやりと周りの景色を眺めていた。
ひとり、ふたり、さんにん……と担架に乗せられて怪我人が運び出されてくる。意識を取り戻し始めた民衆たちは、ランディスさまによって少しずつ状況を把握し始めている。
ハクトから持ってきた物資が配られ始めている。民兵たちは捕えられて、どこかへ連れていかれた。ローダさまの遺体はまだ舞台の下に放置されていて、誰にも見向きもされていない。
わたしは感覚を麻痺させたまま、とある話を耳にした。
貴族区の人たちは、優先的に捕えられて裁かれていった。
オズワルドくん……オズワルドさまの一族は、かなり早い時期に処刑されてしまった。その中には、イリア母さま、シノン姉さま、ばあやが含まれていた。
彼女たちが処刑されたのは、わたしがちょうどハクトに到着したすぐくらいのことだった。
全ては遅すぎた。わたしが大切だと思っていたものは、とっくの昔に失くなっていたのだ……。