第二十章(3)
わたしはリンさんが来てくれたタイミングで牢屋を出て、虎白さまのもとへ向かった。ルカさんはもう大丈夫だと思ったから、わたしはもうひとつの問題を対処しないといけないと考えたのだ。
虎白さまと会うのはほんの二週間ぶりだったけど、随分と長く離れていたように感じる。虎白さまのほうは、忙しくてそれどころじゃなかったんだろう。特に何のしがらみもなさそうないつもの顔で、わたしを出迎えてくれた。
「どうした、カノン。何の用だ?」
ルカさんについて聞いてこないのは、聞く耳を持たないということなのか、興味すらないということなのか。
リンさんからある程度は伝わっているだろうけど、ちゃんと説明をした方がいいと思ったのでわたしはこう口火を切った。
「いくつかご相談があります。まずはルカさんのことですけど……」
ルカさんが悪意という化け物に取り憑かれているのは事実だけど、それはわたしたち司彩に憑かれたものと同じようなもので、充分抑えることが可能であること。ティカさんという、ルカさんの母親を連れてきたこと。彼女がルカさんを落ち着かせる方法をいくつも知っていること。ルカさんはルカさんのまま意識を取り戻して、今後もきっとルカさんのままだということ。そして、ルカさんに憑いているもの、わたしが悪意と呼びティカさんが悪魔と呼ぶものは、彼ら一族にしか憑かないから、彼を閉じ込めておく必要はないことなどを、わたしは虎白さまの顔色を伺いながら説明した。
「ルカさんを解放してもらえませんか。わたしたちが住んでいたもとの住居に、ふたりを住まわせてもらえませんか」
ルカさんはともかく、ティカさんは普通の人だから、ずっと地下の牢屋に閉じ込められていたら色々と不便だ。リンさんとニトさんは様子を見に来てくれるけど、ティカさんに食事を運んでくれたりはしない。
虎白さまは静かにわたしの話を聞いていたけど、少しだけ眉をひそめて、目を閉じた。
「カノン。それは無理だ」
「何故ですか? ルカさんはもう危険ではありません。彼が危険というならわたしだって……」
「司彩はある程度対処法がわかっている。しかし″悪意″とやらについてはよくわからん。わからんものを、危険でないと判断することはできん」
「でも、司彩は永久に死なず他の白子に乗り移っていきますけど、悪意はルカさんがちゃんと抑えていれば移っていく危険もないんですよ。彼ら一族にしか憑かないんですから……」
虎白さまはわたしの言葉にあからさまに顔をしかめて、ゆるゆると首を振った。
「カノン。お前はその情報を外に出すべきではない。俺は聞かなかったことにする。だから金輪際、そのことを口にするな」
「何故ですか? わかりません。説明してください!」
「それを聞いてしまうと、俺は一番にこう命令しなくてはならない。……『その親子を殺せ』と」
わたしは絶句する。だけど一瞬にしてその意味を把握してしまった。確かにそうだ。その通りだ。わたしはなんて馬鹿なことを言ってしまったんだろう。
「その一族にしか乗り移らないのなら、それが一番安全な方策だ。しかし俺はそこまでしたくない」
「…………」
「そんなことをすれば、間違いなくお前の心が俺から離れてしまうだろう? それは避けねばならん」
「……ハクトのためにならないからですか?」
「そうだ」
わたしは溜め息をついた。虎白さまはそういう人だ。ルカさんを殺したくないというのも、結局はハクトのためにならないから。彼がルカさんの幸せを考えてくれることは決してない。
塞ぎ込むわたしを見て、虎白さまは困ったように口を開く。
「俺のことを非道と思っているかもしれんが、俺はお前の要求なら可能な限りは叶えるつもりでいる」
「ルカさんの件は、可能の範疇に入らないんですね」
「そうだ。……なあ、カノン。無理を承知で頼みたいんだが」
「なんでしょう」
虎白さまは目を泳がせた。まっすぐに送ったわたしの目線をかわして、少しだけ言葉を躊躇った。
こんなにも弱気な虎白さまを見たのは初めてのような気がする。きっと次の言葉が、今までで一番わたしに頼みたいことなんだろう。
これまで彼はいくつかわたしに頼んできたけれど、もしわたしが断ったとしても虎白さまは大して痛手を被ることがないものばかりだった。彼はいつでも複数の代案を頭に置いてシナリオを進めていたから……。
でもきっと今回は、良い代案を提示できないんだろう。だからわたしに断ってほしくない。そんな雰囲気をひしひしと感じる。
「なんですか? 虎白さま」
もう一度問いかけたわたしに、虎白さまは深く息を吐いてからこう言った。
「ルカのことはもう忘れてしまって、生涯俺の腹心として仕えてくれないか。そうしてくれるなら、俺はお前の望みを何でも叶えてやる」
わたしはその言葉に戸惑いを覚えた。どうしてそんなことを言うのだろう。どうしてわたしだけをそんなに特別扱いしようとするのか。
理由はなんとなくわかっている。わたしに藍猫と橙戌が憑いているからだ。そしてわたしは、虎白さまの期待に応えてイグニアで兎緋を討つ手助けもできた。
虎白さまがわたしを大事にしたい理由はわかる。
でもそれはわたしじゃない。彼が腹心にしたいのはきっとマグノリアなのだ。わたしはただの十四の普通の女の子で、ただ大切な人を守りたいだけ。虎白さまの隣に立つ能力も意欲もない。
「……それなら、ふたつの望みを叶えてください。虎白さま」
わたしは息を大きく吸って答えた。
「わたしが望むのはふたつだけです。ひとつは、ルカさんを自由にしてもらうこと。ルカさんは普通のかわいそうな男の子なんです。彼はお母さまとふたりで人生をやり直す権利がある。彼は巻き込まれただけなんです。
もうひとつは、アピスヘイルを救っていただくこと。今すぐにです。もう待つことはできません」
このふたつを叶えてくれるなら、わたしはマグノリアになっても良いと思った。マグノリアに体を譲ってしまって、わたしは意識の底に沈んでも構わないと思った。
わたしの言葉を受けた虎白さまは、とても悲しそうな顔をしてこう言った。
「一つ目については、今は無理だ。しかし状況が変われば許す可能性もある。二つ目については今すぐ叶えよう。用意はほぼ完了したから、明日にでも現地に向かえる」
「本当ですか?!」
「ああ。待たせて悪かった。ランディス殿にもすぐに使者を送る」
良かった。ついにアピスヘイルの人たちを救うことができる。
虎白さまはわたしへの頼み事について、明確な答えを要求しなかった。だからわたしはとりあえず、二つ目の望みを叶えてもらうことに決めた。
ルカさんの件はアピスヘイルが落ち着いてからもう一度議論すれば良い。
翌日、十月十六日。ハクテイの庭に集められたのはイグニアに赴いた兵の半分ほどの部隊。
そこにはリンさんとニトさんの姿はなく、ほとんどが彩謌を使えない有色の歩兵だった。
「アピスヘイルまでは私たちの部隊が先導します。国民には、首都を救援する目的の部隊だとよく伝えてあります」
ランディスさまが兵たちに今回の作戦について説明している。
概要はこうだ。アピス国は長らく藍猫による洗脳を受けていたから、白子に対して強い恐れを抱いている。だからできる限りの有色の民で救援に向かう。大きな武器は必要なく、荷は救援のための道具や支援物資を優先させる。首都以外は武装解除させているから危険はない。首都は連絡が取れていないから仔細はわからないが、平民が徒党を組んで政権を奪取するなど非常に攻撃的になっているという噂が流れている。
「彼らは藍猫様を怒らせたことが災害の原因だと思い込んでいます。異教の外国人に救われることを喜ばないかもしれません。できるだけ彼らを刺激せず、ただひたすら救援に来たという姿勢に徹してください」
「すみません。質問なんですが、藍猫が襲ってくる危険はないんですか。藍猫が怒っているからアピスヘイルが荒れているというのは事実だと認識していたのですが」
有色の部隊の部隊長らしきおじさんが挙手してそう尋ねる。ランディスさまは困ったように虎白さまを見て、回答を求めた。
「藍猫が襲ってきたとしても、大した害はない。俺ひとりで叩ける。問題ない」
虎白さまはきっぱりと言い放つ。兵隊さんたちは互いに顔を見合わせていたけど、特に疑問の声も上がらず辺りは納得の空気に包まれた。
虎白さまはわたしやスイさんのことをどれだけの人に明かしているのだろう。わからないからわたしはこの件についてはずっと沈黙を保っている。
少なくともファイさんを初めとしたカミノタミ派の上層部には伝えているようだけど、サイグラム派のリンさんは知らなかった。
知らなくても特に、ハクトの民にとっては問題がないのだろう。ハクトのことはほとんど、虎白さまが決めてしまうのだから。ハクトの人たちは、自分に与えられた仕事さえこなしていれば、恙無く生きられるのだ。
このシステムは、虎白さまが信頼されているから上手く回っているといえる。
虎白さまは断続的にだけども合計で百年以上の間、民から信頼される王さまであり続けている。
それは虎白さまがそれをこなせてしまえる能力があったからに他ならないけど、一歩間違えたらすぐに壊れてしまう脆さを秘めているようにも思える。
だって、虎白さまの代わりが居ないのだ。虎白さまがいなくなったら、虎白さまが抱えていた全ての秘密を誰が管理するというのだろう。
きっと一代目と二代目の虎白さまが亡くなった後はカミノタミ派の人が治めていたのだろうけど、彼らにそれほどの求心力があるとも思えない。単なる一時凌ぎにしかならない。
彼は気の遠くなるほどの長い間、ハクトのほとんど全てをひとりで抱えてしまっている。そして今ではクラウディアも、イグニアも、そのうちハルムやアピスまで抱えなければならなくなる。
彼はたくさんの人に信頼されながらも、ルカさん以上に孤独なのだ。
わたしの脳裏にイグニアでの出来事が浮かんでくる。
マグノリアに体を預けたわたしに、虎白さまが送ってくれた感情。あれは"心からの信頼"だった。虎白さまがあんな感情を送れる人間が、この世に果たしてどのくらいいるのだろう。
虎白さまにはマグノリアが必要なのかもしれない。わたしでなく、マグノリアが。
船に物資が積み込まれ、着々と準備が整うのを見ながらわたしは考えていた。
アピスヘイルを救ったあとの自分について。わたしはずっとそのことを考えないようにしていた気がする。アピスヘイルを救って初めて、わたしの義務はなくなる。しがらみから解放される。
解放されたわたしは、一体何をするつもりなの?
一体何がしたかったんだっけ……。