歴史のオススメ
私は今まで多くの歴史小説を読んできた。主人公は現代に名を残した英雄であり、始めから理想を志している。戦いに勝ち、あるいは負けながら階段を掛け上がっていく。そこには成功や挫折、成長もありドラマがある。
だが、ふとあるとき違和感を覚えるようになった。始めから理想を描けるものだろうか?むしろ逆ではないか?理想とは、多くを経験し学んだ先にあるのではないか?と。
私は新しい歴史小説を描いてみたいと思った。そこでは読者に3つを問い続けたい。
1つ目は、英雄とは何か?との問いである。
この問いを読者に考えてもらうため、私はあえて英雄を主人公としないことにした。なぜならば、世界は英雄を中心に動いていたわけではなく、いかに英雄といえども1人の人間に過ぎず世界を思い通りに動かせるものでもなかったからである。その時代を生きた全ての人にも物語があり、英雄もまた、時代に、人に、そして目に見えぬ何かに翻弄されて生きたことを忘れて欲しくない。
また、英雄は最初から英雄だったわけではない。英雄を英雄足らしめたのは、その人の実績である。その実績は行動により生まれ、その行動は意思や決断により生まれたものである。
しかし、いかに決断し行動しても実績に結びつかず歴史に名前を残せなかった人、あるいは戦いに敗れ歴史の汚点として名を残した人も数多いる。無数の実を結ばぬ行動の中でたった一握りの光輝く実績があることを思うと、英雄は無数の屍の上に立っているのかもしれない。
だが、その光輝く実績も時間が経てば色褪せ、腐り、新しきものに取って代わるのである。英雄の物語といえども虚しいものなのか、あるいは永遠の理想郷もどこかにあるのだろうかとの思いに至らざを得ない。
2つ目は、英雄は特別な人なのか?との問いである。
英雄の物語はスケールが大きいゆえに世の中に与えた変化もまた大きく、かつ戦争が付き物のこともある。英雄が行動した動機として、「世の中を変えようとした」あるいは「大勝を狙って大博打を打った」などの批評を読むと、英雄の物語はまるで非日常的であり、冒険者やはたまた異常者の物語のように扱われているのではないかと感じてしまう。確かに、「平和な世に生き、スケールも違う私達の物語が日常であり、英雄の物語はあまりにもかけ離れていて非日常だ」と考えるなら、英雄の物語はエンターテイメントであるとも言えるだろう。
だが、果たして英雄は本当に私達とかけ離れた人間だったのだろうか?
全て先々を見通して結果を予測し行動し得ただろうか?
いや、むしろ目前の危機を解決すべく必死に取り組む中で進むべき道を見出だしたに過ぎず、偶数にも影響力を持つ立場にあったがためにスケールが大きくなったとは考えられないだろうか?
3つ目は、最も大事なことである。
全ての人間には物語がある。動物にはない。
ならば人間とは何者で、人間らしい生き方とは何だろうか?
この問いの答えを、歴史から導きだしてみたい。
英雄も私達と同じ普通の人間であるならば、英雄の物語を追うことでヒントを得ることはできないだろうか?
繰り返すが、英雄は自ら進んで行動する者のみがその資格を得られるものである。常に前面に立つために過ちを犯す度に傷がつき、いつしか傷だらけになっている。スケールの大きさが災いし過ちも大きく目立ち非難もされるだろう。
では、自ら行動しない、つまり前面に立たなければ過ちは犯さずに済むのだろうか?
視点を変えると、行動せずに済む、前面に立たなくて済むということは他の誰かが前面に立っており、結果守られているとも言えないだろうか?さらに言えば前面にいなければ事実は見ることはできず誰かに聞くしかない。当然、百聞は一見にしかず、である。
もしこれを忘れ、自分の身を安全な場所、それどころか高見にすら置いてあれこれと批評し中傷し誰かを傷付け、さらに事実でないことに振り回されあろうことか自分以外の人間もミスリードしてしまうとすれば、それもまた過ちではないだろうか?
その過ちも、故意に犯すのもあるが、ほとんどは悩み、迷い、分からない中で結果的に過ちとなったものだと思う。
動物は感情があり他者を理解したり寄り添うことはできるが、良心はないと聞いたことがある。だからこそ動物は悩み、迷い、分からないために過ちを犯すことがない。ここになぜ人間に物語があるかの答えがないだろうか?
人間は良心あるがために過ちを自覚し反省し、繰り返さぬよう努力することができる。これは人間の一つの形、一つの生き方であるかもしれない。歴史もまた、悩み、迷い、分からない中で過ちを犯し、反省し、努力することの繰り返しである。加えて書物がないためか過去の過ちを知らず同じ過ちを犯すことも度々である。だが私達には歴史がある。歴史を学ぶことで、過ちを犯す前に自分が過ちに向かっていることに気付き未然に防げるならば、それは素晴らしいことではないだろうか?