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空想的拝金主義

作者: 鈴木美脳

 人生は、たった一度きりのものだから、豊かで幸せなものにすべきだ。

 そのためには、お金持ちとして生きたほうがいいと思う。

 お金持ちにならず生きている人達は、お金持ちになったほうがいいと思う。

 なぜ、お金持ちにならず生きている人がいるのか、不思議なくらいだ。


 もし貧乏だと、生活のために働かねばならない。

 つまり、自分自身のために生きるのではなく、人の道具として苦労せねばならない。

 逆に、お金持ちなら、世間の人々は自分を価値あるものとして扱ってくれる。

 ただお金持ちだというだけで、たくさんの好意が向けられ、笑顔が向けられる。


 もし貧乏だと、たくさん勉強するか、たくさん稼ぐことによって、自分の価値をひねり出さねばならない。

 自己肯定感を得るために、馬車馬のように走りつづけなければならない。

 でも、生まれつきお金を持ち、お金がお金を生むお金持ちなら、努力する必要がない。

 そうして、自分自身の価値、言わば人権を、主観的に確信できることが、絶対的な幸福を形成するのだ。


 もし貧乏だと、常に損得を考えて工夫して生きることになる。

 人間関係の派閥の中で生きていくことは、欺瞞的な小細工の塊になるから、人としての器は自己中心的で小さな物になっていく。

 しまいには、他者が苦しむのを喜ぶようになってしまう。その時にはもう、自分自身の幸せを完全に見失っている。

 悪しき物のすべては邪悪な心に発し、邪悪な心のすべては貧乏に由来する。

 お金持ちだけが、本当に綺麗な心を持って生きられる。


 本当のお金持ちになるには、お金持ちに生まれなければならない。

 世の中は階級社会で、貧乏に生まれた人達は貧乏に生まれた人達同士、永遠に争っていて、金持ちにはなれない。

 逆に、お金持ちに生まれれば、良い環境と正しい知識を与えられて正しい努力をすることができるし、お金自体がお金を生むから、強いて争う必要がない。

 貧乏だと、頭を使って出し抜くことに夢中になり、長期的な信頼関係を築くことを忘れて、金持ちに挑むたびに叩き潰され、金持ちの道具として人生を終えることになる。


 人間という生き物にとっての幸福とは、自分自身の価値が確信できることだ。

 一生懸命に努力している人というのは、一見美しいようだけど、努力しなければ自分の価値がないという強迫観念に追い立てられていることがほとんどだ。だから、頑張っている人は不幸である。

 お金持ちは、自分自身の価値を自然に自覚させられる。貧乏に生まれれば、自分の価値を日々否定されているようなものだ。


 ただし、世に言うお金持ちのほとんどは、実際には紐つきのお金持ちだ。

 例えば、お金持ちの子供や妻や夫がそうである。その時、本当に自由に使えるお金は意外と少額だ。あるいは用途が限られている。

 そうやってコントロールされて生きると、自分がされたように他者をコントロールしようとする価値観になる。貧乏人以上に貧乏なパラダイムに陥ることが少なくないのだ。お金の権威によって他者を道具にしているようで、自分自身がお金の権威の道具として人生を送ってしまう。自分自身の価値を感じることなく、不幸に生きることになる。

 だから、紐つきのお金持ちは、ここで言っているお金持ちではまったくない。


 本当のお金持ちに生まれれば、本当に自分の価値を自覚できる。

 自分の価値を本当に自覚したなら、どんな属性の何を失ってもその幸福を傷つけることはできない。

 貧乏な人達がお金持ちに何をしても、貧乏な人達が貧乏な人達であり、お金持ちがお金持ちであることは変わらない。

 侮辱の嵐の中で名声を失っても、怪我や病によって死に至っても、お金持ちとしての自己肯定感によって心はつねに安らかに満足している。


 多くの人が、同じことを、自分の人間性を磨くことに注目して実現しようとするけど、それは間違っている。

 つまり、豊かな人間性を備えた美しい性格が価値だと考え、貧乏によってそれが傷つくことはないと思っているけど、それは間違っている。

 なせなら、世間がそうは考えないから。

 自己中心的に生きている人々の間に入って、一つの嘘もごまかしもせず誠実に慈悲深く生きたとしても、便利な馬鹿として消費されるだけだし、助けてあげた人達にもたいてい少しも感謝されない。つまり現代社会にとって良心は価値ではないから、良心が価値だというような内面的な信念をいだきつづけても、果てしない葛藤に追い込まれるだけだ。

 じゃあ、何が、現代社会にとっての価値だろうか? お金であって、お金以外ではないよ。


 お金の価値。それが、世間と認識を共有できる、圧倒的に強い言語なのだ。

 今の世の中にどんな優れた人を連れてきても何にもならない。釈迦やキリストを連れてきても一瞥もされない。

 澄み渡る空のように穢れない心を持った人であっても、汚れた服を着て汚れた髪をしていれば、ホームレスとして蔑まれる。

 一方で、お金をかけて外見を整えたお金持ちがいれば、内面はどうあれ、ホームレスのようにあからさまに邪険にはされない。お金こそが力であり、恐いのはヤクザよりもお金持ちだと、世の人々は知っているから。

 現代人というのは、良かれ悪しかれ、自分より貧乏に感じられる人達に対して横柄な態度をとり、自分よりお金持ちに感じられる人達に行儀よく丁寧に、しばしば卑屈にまで振る舞う装置である。

 お金の多寡を見て横柄と卑屈を切り替える習性を学び、身につけることが、現代という時代で大人になるということだ。


 だから、世間と共有できない価値観のもとで葛藤に追い込まれないためには、究極的には、お金持ちとしての自尊心に立つしかない。

 殺されてなお自分にこそ優位な価値があると感じる自我を得なければならない。

 自分の価値を本当に感じられていれば、生きることはそれだけで一秒一秒が楽しい。意味もなく笑ってしまうほど、人生は楽しい。

 だから、どうしても生きる必要はないのだけれど、勉強や労働は世の中のためのボランティア活動として取り組んでみるべきだろう。

 仕事をすればお金がもらえるけれど、それは本質的なことではなくて、お金をもらえるボランティア活動をしているという程度のことだ。

 そうして、人が互いの尊厳を尊重できる社会を築いていく。人が互いの尊厳を尊重して働ける社会になれば、人々は本当の意味で自分の価値を信じられるようになり、つまり、本当のお金持ちが増えていく。


 多くの人が、親や社会からの虐待によって、条件つきの愛の価値観に洗脳されてしまっている。

 例えば、勉強ができたり、稼ぎが多いこと、さらには家族を養っていることを自分の価値の根拠にしてしまう。しかしそうして捏造した自尊心は、同時に他者への蔑みを伴っている。そのように備えた残忍な心は、人を小心で利己的な存在にする。内側に愛情が詰まったような人間ではなくなり、身内同士ですらいがみ合い争うようになって、栄えない。貧乏な家は貧乏なままだ。

 逆に、自分の価値を理由なく信じられることが幸福だ。そのために最も盤石な発想は、生まれつきお金持ちだという自尊心だ。

 もちろん、誰もが生まれつきのお金持ちではない。でも、自分は生まれつきのお金持ちなのだと「空想する」ことはできる。

 空想的社会主義ならぬ、空想的資本主義、あるいは空想的拝金主義と言うべきか。


 人生は、たった一度きりのものだから、豊かで幸せなものにすべきだ。

 そのためには、お金持ちとして生きたほうがいいと思う。

 お金持ちにならず生きている人達は、お金持ちになったほうがいいと思う。

 なぜ、お金持ちにならず生きている人がいるのか、不思議なくらいだ。

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