日本の謎魔法【リアジュウ、バクハツシロ】に悩まされ続け、俺とリリはずっと手を握って過ごした。
「リア充爆発しろ……!」
「!?」
死に際、フライパンに落とした溶き卵みたいにペシャンコに潰れた転生者が、嗄れ声でそんなことを呟いた。
彼の血走った目は、虚空を彷徨い、やがて一人の少女を捉えた。俺の隣から、小刻みに少女の震えが伝わってくる。その少女……ニコラ・リリ・バクハは、彼と目が会った瞬間、握っていた俺の右手を固く握り返して来た。
□□□
その日を境に、俺たちの日常は音を立てて崩れ去った。
「おはよう」
「!」
静まり返った教室に引き戸の音が響き渡り、俺と、一緒に登校していたリリに一斉に注目が集まる。始業まであと五分。いつもの見慣れた教室の、妙にざわついた空気の中、手を繋いで現れた俺たちに注がれた視線は……みんな、恐怖に満ちていた。
【リアジュウ、バクハツシロ】
異界の者が残したこの未知の魔法の言葉が、一体何を意味するのか。魔法界の誰も分からなかった。
攻撃魔法の専門家・カタール先生すら知らなかったし、言葉の意味が分からない以上、無闇に解除魔法を試す訳にも行かない。もしかしたらその過程で、彼女の体が弾け飛ぶ、なんて事になってしまうかもしれない。付き合って半年の彼女・リリにかけられた【リアジュウ、バクハツシロ】の呪いは、たちまち全校生徒どころか、この魔法街全体に知れ渡る事となった。
呪いがかけられてから、俺は彼女の手を片時も離さなかった。発動条件が分からなかったからだ。
「もしかしたら、手を離す事で【リアジュウ、バクハツシロ】が起こるかも分からんからの」
カタール先生は真っ白になったフサフサのまつ毛の向こうから、真剣な眼差しで俺たちを覗き込んだ。その言葉に隣にいたリリはゆっくりと頷いたが、静かに唾を飲み込むのが俺には分かった。俺は、どんなことがあっても手を離すまいと、さらに硬く彼女の手を握りしめた。
彼女の気丈に振る舞う姿を見るたび、俺は悔しくて歯噛みした。呪いをかけられたあの日……庇う暇もなく、一瞬の隙を突かれた。
【日本】とアルカディアの交流は、約三年前から始まった。交流といっても、時空の歪みを利用してこちらの世界に一方的にやってくる者が現れたというだけで、別に貿易なんかをしているわけでもない。 まだ交流も浅く、お互いのことがよく分かっていない。ただし、俺たちの側は、変わらざるを得なかった。
似て非なる遠い異世界・【日本】からやって来たというあの転生者。このアルカディアに転生してくる者は、大体一日に二〜三人程度はいる。中にはこうして学校に迷いこんでくる者も少なくない。特に【日本】という地域からの来訪者は、みんな恐ろしいまでのデタラメな【チート能力】を持っていた。
転生者には、二種類いる。一つは我々にはあまり関与せず離れた地で友好的に暮らす者と、もう一つは我々の住む地を侵略せんと敵対する者だ。昨日、突然校庭にやって来たあの転生者は、敵対する者だったのだろう。そういった輩にどう対処するかが、アルカディアの悩みの種だった。
俺とリリがいるリッチフィールド魔法高等学校で学ぶ生徒たちは、みんな勇猛果敢だ。魔法が使える生徒は全員協力して敵意ある侵入者を退治するのが、今や習わしになっていた。防災訓練みたいなもんだ。だけど、未知なる能力故に対処法が分からない場合が多く、負傷者の数も少なくはない。それがまさか今回は、自分の彼女・リリだったなんて……。俺は頭を抱えた。
【リアジュウ、バクハツシロ】……一体どんな魔法なのか。
昨日はリリと一緒に帰った。リリの両親に説明し、【リアジュウ、バクハツシロ】に対抗するため、彼女の手を離さないように一緒に夕食を取り、それからその……お風呂とか……とにかくいろんな事を、共に過ごした。リリはだけど、ずっと震えていた。朝までずっとだ。当たり前だ。何の効果があるかも分からない、謎の魔法をかけられたのだ。俺は彼女をぎゅっと抱き寄せた。【リアジュウ、バクハツシロ】……【リアジュウ、バクハツシロ】……昨晩はずっと、俺の頭の中で木霊のように何度もその言葉が行き交い、離れなかった。
「おい! マイク!」
決して彼女の手を離さないように、俺はリリの席の隣に自分の椅子を持って来て座った。その時だった。クラスメイトの一人が、窓ガラスの外を見て俺を呼んだ。
「転生者だ!!」
「!」
叫び声が静まり返っていた教室に響き渡り、リリに集まっていた視線が一斉に窓の外に向けられる。俺とリリも当然席を立ち、急いで窓際へと向かった。
窓の外は、薄暗い暗雲が立ち込めていた。ちょうどその雲の下付近の空間が縦にひび割れ、時空の歪みを作っている。【転生】だ。歪みは不安定で、いつ何処に発現するか分からない。異空間と繋がった歪みの向こうから、俺たちと同い年くらいの若い青年が、ゆっくりとアルカディアに入ってこようとしていた。右の方で誰かが窓を開け、彼の言葉を聞こうとした。俺たちは息を飲んだ。
果たして友好者か、それとも敵対者か。
彼の第一声で、次の行動は大きく異なってくる。
真っ黒な髪をした青年は、教室の片側に集まる俺たちを見て、唇の端を釣り上げた。
「ふふ……」
彼は、笑っていた。対照的に、俺たちはじっと息を潜め彼の動きを見守った。彼は歪みから半分以上体を出し、何の魔法か……おそらく【チート能力】だろう……何もない空中に当たり前のように足をつけ、宙に立ち上がった。
「全く、異世界に来てまで……勘弁してくれよ」
何がおかしいのか、彼は笑いを堪えながら片手で自分の顔を覆い、それから確かに俺とリリを指差してこう言った。
「リア充は爆発してくれ」
「!!」
敵対だ。
教室の中に、雷のように緊張が走った。実際、攻撃委員のマチルダなんかは、彼の言葉を聞くなり間髪居れずに杖から得意のサンダーボルトをお見舞いした。俺たちも杖を取り出し、それぞれが交戦体制に入った。
「下がってろ、マイク、リリ! お前らが狙われてる!」
「おう……!」
クラスメイトのユーカが、俺たちを庇うように前に割り込んで来た。俺は頷いた。急いでリリの手を引っ張り、防御魔法をリリの周りに張りながら廊下側へと後退した。
「敵対者め、これでも喰らえッ!! 【サンダーボルト】ッ!!」
クラスメイトたちの、強力な魔法が宙を飛び交う。轟く爆音と破裂する閃光が背中越しに伝わって来た。俺は誰もいない廊下で震えるリリを力強く抱きしめた。
「大丈夫か!? リリ!?」
「分かんない……! 怖いよ、マイク……!」
リリは、目の端にうっすらと涙を滲ませながら俺にしがみついて来た。今度は、【リアジュウハバクハツシテクレ】だ。また新たな魔法を受けてしまった。あの、親の仇を見るような表情。攻撃の意思があったのは間違いない。こないだの【リアジュウ、バクハツシロ】と似ているが、派生魔法だろうか。【火の粉】と【地獄の業火】くらいの違いかもしれない。だけど、今の俺じゃ何もできない。それが悔しかった。俺はリリを抱き寄せ、決して離さないようにした。
しばらくして、背後で歓声が上がった。敵対者は、無事撃退されたようだった。
一体何故攻撃されたのかも分からない、と言った表情の転生者は、ご自慢のチート能力を発動する前に、哀れ生徒たちの総攻撃を食らって一瞬で消し炭になった。勝利の雄叫びが校庭に響き渡る中、俺とリリは蹲ったまま、震える肩を寄せ、お互いの涙を頬に零し合った。
□□□
「日本からの転生医師が、三年前から西のバーミヤン地方に住んどるらしい」
カタール先生からそんな吉報が届いたのは、俺たちが【リアジュウハバクハツシテクレ】を受けてから約一週間後だった。
自国の言葉でない以上、受けた魔法には手の施しようがない。だけど友好者なら、日本から来た転生者でアルカディアに移り住んだ者なら、きっと【リアジュウ、バクハツシロ】の意味も知っているに違いない。俺たちは必死になって、日本出身の、アルカディア語が分かる友好者を探していた。
あれから一週間。俺とリリは謎の魔法【リアジュウ、バクハツシロ】に悩まされ続け、ずっと手を握って過ごした。皮肉にも【リアジュウ、バクハツシロ】のおかげでお互いの仲がより近づいた気がするが、今はそれよりも魔法を解くことの方が優先だ。その医者なら、もしかしたら【リアジュウ、バクハツシロ】の魔法を解く術を知っているかもしれない。俺たちの胸は高鳴った。
残念ながら、バーミヤン地方にまで直接出向くにはちょっと遠すぎる。言語学のリュージュ先生に見てもらいながら、俺たちは必死に日本語を勉強し西に住む医師に音紙を作った。日本からの敵対者に、聞いたこともない呪いを受けたこと。そのせいで、俺とリリは身を寄せ合い、片時も離れていないこと。毎日一緒に過ごし、寝食を共にしていること……。
何か、少しでも治すヒントを知らないだろうか。
祈りにも近い願いを込めて、俺たちは二人で音紙を丁寧に録音した。
飛ばした魔法鳩は、それから一週間かけて長旅を往復して来た。鳩用の飼育箱の前で、咥えて合った返信を急いで開き、俺とリリは音紙を再生した。『拝啓、親愛なるマイクとリリへ』、そんな風に始まった音紙には、アルカディア語で医師からのこんな言葉が録音されていた。俺たちはそっと寄り添い、耳を澄ました。
『何も心配する必要はない。リア充爆発しろ』