白隠禅師坐禅和讃~異世界転生ver.~
あなたにとっての「なりたい自分」は、あなたの周りの人たちの姿の中にあるんだよ。
それは水と氷のような関係だから、水の無いところに氷は無いように、周りの人たちから離れたら、
たとえ異世界に行ったって、それは見つからないんだよ。
近くにいる、周りの人たちのことを知ろうとしないで、異世界に理想を求めても、虚しいだけじゃない。
異世界転生を望むのは。
溢れるほどの水の中にいるのに、「喉が渇いた。水が欲しい」と言っているようなものなんだ。
異世界転移を望むのは。
お金持ちの家に生まれたのに、選んで貧乏暮らしを望むようなものなんだ。
前世の業だとか、死後の世界だとか、生まれ変われば何か変わるかも、とか。
そんなことはね、今のあなたの悩みを愚痴っているだけなんだよ。
その愚痴を乗り越えて、いつかは「生まれ変わり」なんていう現実逃避を忘れようよ。
その為にはどうすれば良い? どうすれば、この嫌な日常を乗り越えられる?
そう考えることはね。考えること自体が、いつかあなたの支えになるんだよ。
「良いことしなさい」「悪いことはしちゃ駄目です」「頑張ろうよ」
色んな人が、色んなこと、言うよね?
だけど、それはみんな、この「嫌な日常」を乗り越える為の助けになるんだよ。
落ち着いて、色んなことを考えてみると良いよ。自分の苦しみの、大本はどこにあるんだろう、って。
そうするとね、意外に無意味でくだらないことに悩んでいる自分に気付くんだよ。
そうしたら。それが無意味でくだらないってわかったら、ほら。嫌なことなんて、どこにあるっていうの?
あなたが幸せになれる場所を、わざわざ異世界に求める必要なんかないじゃない。
ね? こういったことをちゃんと聞いて、受け止めてごらん?
偉そうな説教に聞こえるかもしれないけれど、でもその内容を「なるほど!」って思えたら、あなたは簡単に幸せになれるんだから。
まして、真剣に自分の本当の姿を、建前や虚栄や柵に惑わされることなく、真直ぐに見つめることが出来たのなら。
「自分はこういう人間だ」「こういう風にしか生きられないんだ」なんていう思い込みは、それこそ思い込みに過ぎないって気が付く筈なんだ。
だって、「本当の自分の形」なんて、本当は無いんだから。
自由自在に、成りたい自分に為れる筈なんだから。
なら、あなたは一体何を悩むというの? 何を悩むことがあるの?
そんなモノは無いんだから、ただ真直ぐ、あなたの選んだ道を歩めば良いんだよ。
何にでも成れるのなら、わざわざ異世界に行く必要なんかないよね。
悩む必要もないのなら、生まれ変わりに可能性を見出す必要もないよね。
ただ、自分の『法の声』に従えば、謠うも舞うも、自由自在だよ。
ただ一心に、雲一つない空のように、曇りなく、
欠けることのない月のように、ただ真直ぐに、
「成りたい自分」を心に描けば良いんだよ。
ほら、もう異世界に転生する必要も、異世界に転移する必要も、無いでしょう?
だって、ここが、あなたの求めていた場所なんだから。
だって、あなたはもう、あなたの成りたい姿を形作っているんだから。
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衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
譬えば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏みそえて いつか生死を離るべき
夫れ魔訶衍の禅定は 称嘆するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
その品多き諸善行 皆この中に帰するなり
一座の功をなす人も 積みし無量の罪ほろぶ
悪趣いずこに有りぬべき 浄土即ち遠からず
辱なくもこの法を 一たび耳にふるる時
讃嘆随喜する人は 福を得ること限りなし
況んや自ら回向して 直に自性を証すれば
自性即ち無性にて 既に戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として うたうも舞うも法の声
三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん
此の時何をか求むべき 寂滅現前する故に
当処即ち蓮華国 この身即ち仏なり
白隠慧鶴。諡は神機独妙禅師(後桜町天皇より賜る)、正宗国師(明治天皇より賜る)。
生年1686年1月19日(貞享2年12月25日)
没年1769年1月18日(明和5年12月11日)
駿河の国に生まれた禅僧。当時衰退していた臨済宗を復興させ、その中興の祖と言われる。「悟後の修行」(悟りを得たと師匠に認められた後の修行)の大切さを説き、本人は「大悟十八回、小悟その数を知らず」という言葉を残している。
その教えは平易な言葉を多用し、特に民衆に対する布教に努めた。死後100年以上経ってから、既に与えられている「禅師」(高徳な僧侶に対する諡号)を「国師」(天皇の師にあたる人物に対する諡号)に格上げされていることからも、時代を超えて尊崇されていることがわかる。
なお、「白隠禅師坐禅和讃」は、一般には「坐禅和讃」とのみ言われるが、「白隠禅師」或いは「白隠和尚」とその名を冠する呼び方も多くされている。