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短編

呪いは極上の恋の味

作者: あざみの

 豪商ハイナッド氏の館の長い長い廊下を、マリヤは駆け抜けた。青いドレスはかぎ裂きだらけで見るも無残だ。靴は泥に汚れている。

 目当ての扉を開くと、そこには大勢の人がつめていた。医師や親戚、それに使用人まで。

 中心にあるのは、部屋の主、ハイナッド氏の一人息子ミハエルの寝台だ。寝台の上で、ミハエルは青白い瞼を閉じて弱弱しい呼吸を繰り返している。


「マリヤお前、どこへ行っていたの!」


 ミハエルの手を握り締めた奥方が、涙声で叫んだ。その膝元には、ミハエル愛用の弓矢が置かれている。

 一昨日、この弓でミハエルは一角獣を撃ち仕留め、まもなく人事不省に陥ったのだった。医師の言によれば、今宵が峠だという。


「奥様、これを。お薬です。これで坊ちゃまの呪いを解けます」

 マリヤは胸に抱えていた小瓶を差し出した。

「そんな得体の知れぬもの……!」


 奥方は差し出された手を振り払おうとしたが、もう後がないと知ってか、逡巡の後、それを受け取った。


 すぐに水が運ばれてきた。薬は無色透明だったが、水に落ちると黄緑色に変色した。

 奥方が匙で一滴だけ、ミハエルの色を失った唇にそれを流し込む。

 固唾を呑み見守る人々の沈黙が、室内を支配する。


「ミハエル!」


 奥方が声を上げた。若者の指が、かすかに、しかし確かに動いていた。

 歓声をあげる人々の中、マリヤはふっと微笑むと、誰にも気付かれぬようにそっと退室した。



☆★☆★☆★☆



「ほう……」

 ため息を漏らして、マリヤは本の頁を繰った。それも今は大仕事である。


 日の当たらないこの小部屋が、ミハエルの乳兄妹であるマリヤに与えられた私室だった。

 第一章を読み終えたところで、マリヤは机上に飾った小粒の紅玉の首飾りに目をやった。

「お母ちゃん、坊ちゃまはどんどん元気におなりだって」

 それは、あの夜の前日、長患いの末静かに息を引き取ったマリヤの母の形見だった。マリヤの母タリアは、ミハエルの乳母をしていたので、その恩恵でマリヤはこうしてこの屋敷に居場所を用意されている。


「早く、よくなってくださるといいよねえ」

 首飾りに話しかけて、再び本に向き直ろうとしたときだった。

「マーリーヤー! いるのは分かっているんだ、出て来い!」

 がんがんがんがんとすさまじい音を立てて、部屋の扉を叩かれた。あまりに驚いたものだから、マリヤは床に転がり落ちて、「ぶぺ」と間抜けな悲鳴をあげるはめになった。

 この声は、

「ぼ、ぼぼぼ、坊ちゃま?」

 まさかこんなに早くおとないがあろうとは。

 心の準備のないマリヤは、おろおろした。


「開けぬか! お前と来たら、いつになっても俺のところに顔も見せないで! ええい、忌々しい扉め、こうしてくれる」


 ばきんと派手な音がして、扉の蝶番がはじけとんだ。

 そこにはすっかり血色の良くなったミハエルがいた。しかしその美々しい顔はまるで仇敵を見つけたように怒りにゆがみ、扉を蹴り倒したらしい足は埃をまきあげて、どん、と扉ごと床に振り下ろされる。


 さながら、魔王の登場である。


 当然ながら、マリヤは震え上がった。

「マリヤ! 何を隠れる! 出て来い!」


 ミハエルはずかずかと部屋の中に踏み込んでくる。そして、ふと、日の当たらない窓際の机の上に目を止めた。彼の視線は、若干下を向き、そしてぴたりと歩を止めた。


「ひいいっ!」


 悲鳴を上げて、マリヤはその場を飛びのいた。驚くべき素早さで分厚い本をミハエルが振り下ろしてきたからである。


「な、何をなさいますぅ坊ちゃま!」

 抗議に、ミハエルが首筋に鳥肌を立てた。

「ね、ねね、鼠が喋ったっ!」


 頭を抱えて退避していたマリヤはおずおずと立ち上がった。

 その姿はどこからどう見ても――鼠である。

 素晴らしい速さで机から距離をとったミハエルは、指をさして叫んだ。

「こら! 悪しき鼠め! マリヤをどこへ隠した!」

「ですから坊ちゃま、これが私ですよう」

「馬鹿者! いくら根暗なマリヤとて、鼠ほどじめじめしてはおらん!」

「根暗……。坊ちゃま、あんまりですよう」

「ええい、マリヤのような話し方はやめろ、背中がむずむずする!」

「そう仰られましても本人ですから……」

「ならばマリヤを名乗る鼠よ。何故人間のマリヤがおまえみたいな灰色のケダモノに身を窶しているというのだ!」

「ひ、秘密です」

「やはりマリヤではないな。あいつは俺に秘密など作れぬ性質だ。ふん、一思いに叩き潰してくれる!」

「いーやーッ! 話します、話しますう! 魔女と取引したんです!」


 ミハエルの整った眉が寄せられる。

「気味の悪い魔女なんかと取引だと? 何故? どんな?」

「それは言えません……」


 すっと、ミハエルが本を手に取る。


「いいますいいます! お薬が欲しかったんですよう!」

 頭を抱えてびくびくしながら、マリヤは叫んだ。

「それはあの晩、俺が飲まされた薬か」

 マリヤが恐る恐るミハエルの顔を伺うと、彼の顔は真赤だった。――怒りで。


「ばか者ーっ!」


 ばちーんと強烈な衝撃が鼻先に走って、マリヤはもんどりうって転がった。指で弾かれたらしい。

「誰が頼んだ! ありがた迷惑だ!」

「申し訳ありません申し訳ありません~! ひぎゃあ!」

 ひたすらに恐縮していたマリヤは、急に視界が真っ白になって驚いた。そして、

「あいたたたたたあ!」

 頭に猛烈な痛みが走る。ハンカチで包まれた上に頭をつままれて持ち上げられているのだ。両手足をばたばたさせるが、意味がない。


「誰か虫かごを持て!」

 ミハエルが大声で命じ、やがて持ってこられた虫かごに、マリヤは放り込まれる羽目になったのだった。

 


☆★☆★☆★☆




 鬱蒼とした森は昼間でも薄暗い。カンテラを翳して道を確かめながら、ミハエルが馬の手綱を慎重に引いた。


「坊ちゃまあ、お屋敷を抜け出すなんて、奥様が心配なさいますよう」

「森の魔女なんかに会いに行くだなんて言ったら、父上も母上も許すはずがないだろう」

「それつまり、行ってはいけないっていうことでは。それに魔女に会って、どうするんですか誰か呪うんですか?」

「阿呆! お前の呪いを解くんだ、お前の!」

 馬の首につけた虫かごを爪先で小突かれ、中のマリヤはひっくり返った。


「いらぬ世話をかけさせおって。これだからお前は周りの連中に馬鹿にされるんだ。俺の乳兄妹なんだ、もっと堂々としていろ」

「乳兄妹なんて言っても、お母ちゃんも死んでますし、今はただの穀つぶしなわけで……。お屋敷に置いて頂けているだけで御の字ですよう。ですから坊ちゃま、帰りましょう。鼠になっていたほうがご飯少なくてすむから、迷惑かかりませんでしょう」

「そういう問題じゃない! よりによってなんで俺が一番嫌いな鼠なんだ! これじゃあお前の顔を見に行くたびに悪夢を見るわ!」

「大丈夫ですよう。もうじき坊ちゃまも御結婚なさる年齢でしょう。そしたら私なんか構っている暇もなくなりますから。あいた!」

 またかごをがつんとやられて、マリヤは転がった。ミハエルはむっつりと手綱を引く。


 紫色の不気味な葉を茂らせた大樹を右に折れると俄かに開けた場所に出た。草地の真ん中に、ぽつんと小さなぼろ家がある。

 三角屋根や木の壁は補修の痕だらけで、扉は斜めだ。だが煙突から煙がたなびいている。

 中にはたしかに人がいるらしい。

 マリヤには覚えのある場所でもあった。


「ここか」

 下馬したミハエルが、虫かごを持って家の扉を叩くと細かい木屑がぱらぱら落ちた。

「誰かおらぬか。尋ねたいことがある!」

 返事はない。青年の眉間にしわが増えた。

「ああっ坊ちゃま、短気はいけませんよう」

「うるさい! ええい、いるのはわかっているのだ、さっさと出てこぬか!」

 マリヤの忠告を無視して、貴公子は拳で扉を叩いた。すると、扉はぐらりと傾いで、派手な埃を舞い上げて、屋内に倒れこんだ。


 もうもうと立ち込める埃に、マリヤたちは咳き込む。

 やがて晴れてきた煙幕の向こうに、黒尽の女が一人、気だるげに椅子に腰掛けて本を読んでいた。年の頃なら三十前後。赤い口紅を引いた、妙に扇情的な顔だちの女だ。真黒なローブを着ている。


「無作法者のおとないは御遠慮願いたいね」

「ならばすぐに出てくればよいではないか」


 女は本をぱたんとたたんで立ち上がった。唇は笑みの形になっている。

「こっちの都合ってもんを考えないのはいかにも都人だねえ。それで、何の用」

「こいつを元に戻せ」

 ずいと突き出されたかごの中でマリヤがこてっと転がる。眼を細めた魔女は手を叩いた。

「あら、いつかのお嬢ちゃん。てことは、こちらは例のハイナッド家の跡取り息子ね。なるほど、男前じゃない。ああでも、この娘を元に戻すのはだめ」

「金はある。言い値を出そう」

 ミハエルが懐から取り出した皮袋を卓上に置いた。じゃらっと金属が擦れ合う音がする。

「気前のいいこと。でもね、いくら金を詰まれても駄目なものは駄目なんだよ」

 ずいと魔女は指を突き出して、

「契約は完了しちまった。この娘の姿はもう別の奴のものなんだよ。出ておいて、アン」


 堆く本が積まれた棚の前の空間に突然、紫の炎が吹き上がった。中からワンピースを纏った少女が忽然と現れる。その手には盆に載せられた紅茶のカップがあった。

 アンと呼ばれた少女は、穏やかな笑みのまま青年に紅茶を差し出した。それは、寸分違わぬ、マリヤの笑顔だった。


「私の顔ってこんなだったんですねえ。なんだか変な気分です。鏡で見るのとは違うわあ」

 また虫かごを引っぱたかれマリヤは口をつぐんだ。ミハエルは受け取ったカップを優雅に口に運んで紅茶を飲み干す。

「何があればその姿を返してもらえる」

「だから、駄目だって言ってるだろう」

「駄目と言っただけで無理とは言ってない」

「ぼ、坊ちゃまあ……」

 睨みあう二人の下で、かごのなかのマリヤは身を小さくする。迫力についていけない。


 笑い出したのは魔女の方だった。

「その通り。できなくはない。でもやる気が無い。儀式に材料が必要なんだ。私はその材料を集めに行く気はないのさ、危険だもの」

 ミハエルもにやりとした。

「ふん、そんなもの俺がいくらでも集めてきてやる。そしたら儀式をすると約束しろ」

「また、大きく出たねえ。いいさ、やろうか。代金ももらうよ。でもできるかな? 必要な月水晶は、この先の洞窟にあるけれど、洞窟には巨大蛇が住み着いているからね」

「蛇が怖くてハイナッドの後嗣が務まるか」

「鼠は駄目で蛇は平気なんです? いた!」


 虫かごを抱えると、青年は立ち上がる。彼に魔女が、小振りの剣を差し出した。革製の鞘をはらうと、青みを帯びた刀身が現れる。

「餞別。呪いをかけたから切れ味は最高だよ」


 柔らかな笑顔でアンが手を振る。

 頭上のミハエルが一瞬、切なげな顔をした。

 マリヤには、なぜ彼がそんな顔をするのかわからなかった。

「行ってくる。おい、娘。それまでマリヤの姿を預けておいてやる」

 びしりと指を指されたアンは、笑顔のまま、

「チュー」

 嬉しそうに返事をした。

「アンがお嬢ちゃんになったんだ、お嬢ちゃんがアンになって不思議じゃないだろ」

 意地悪く笑む魔女に背を向け、青年は口を押さえた。鼠が淹れたお茶を飲んでしまったことを後悔しているようだ。

「坊ちゃまあ、顔が真っ青ですよう。やめときましょうよう」

「お前は黙っていろ!」

 ずかずかと大股で歩くミハエルを、マリヤは心配して見つめるほかなかった。



☆★☆★☆★☆



(なんでこんなことになったんだろうなあ)


 揺れる虫かごの中でマリヤは考える。今や日も暮れ、森の中は本物の闇が凝固している。

 あちこちで獣の動く音が聞こえては、彼女は身を震わせていた。


 ミハエルはカンテラから松明に持ち替え、獣が嫌がる臭いの油を燃やしつつ進んでいる。

 その顔はいつも以上に厳しくて、うかつに話しかけられない。だからマリヤは一人で答えの出ない思考の迷路に迷い込んでいた。


 ミハエルが倒れたとき、彼女は真っ先に本を開いた。文献によれば、一角獣の角を手に入れた者は同時に呪いを受けるとあった。角の恩恵は煎じて飲めば万能薬となり、削りだして身に着ければ万難を避けるお守りになるという。だが呪いも強力で一角獣を殺すと、三日三晩のうちに狩人も必ず死ぬという。

 人々はミハエルが呪いを信じずに『幻獣を仕留めた』という名声を求めたのだと噂する。


 マリヤは、もちろん彼がそんな人物ではないと知っていた。彼には、きっと一角獣の角が必要だったのだ。でなければ、わざわざ危険な古代遺跡の奥まで踏み込みはしない。


 ミハエルが倒れた翌日、母が息を引き取った。マリヤは泣いた。同時に戦慄した。もう一人の大事な人が、自分の数少ない友人までもが、死んでしまうかもしれない。そのことを考えると、むしろマリヤ自身が死んでしまいそうな気分になった。だからマリヤは無我夢中で、一人森の奥に住まう魔女の元まで行ったのだ。


『代償はお前の姿。それでもいいんだな』

 問う魔女の言葉に、迷い無く頷いて、小瓶を胸に抱えて馬で駆けた。助けたかったのだ。


 ――やはり、洞窟なんかに行きたくない。


 彼に危険な目にあって欲しくなかった。

「坊ちゃまあ……」

「着いたぞ」

 呼びかける声を掻き消して、ミハエルが馬から降り立った。虫かごの網につかまって、マリヤも眼前の洞窟を見上げる。


 真っ暗だ。しかも深そう。生ぬるい風が奥から吹いてきている。身震いして、彼女は虫かごの中で身を小さくした。


「やっぱり止めましょうよ坊ちゃまあ。また坊ちゃまが怪我でもなさったら、旦那様や奥様に合わせる顔がございませんよう」

 必死に訴えると、また虫かごをばちんとやられた。もんどりうつ。

「俺のためにお前は呪いを受けて、それで俺が怪我をするのは嫌だというのか」

「そうです。大事な御子息が怪我したら、ご両親が心配なさいますよう」


 またばちんとやられるかと思ったが、身構えていても衝撃は来なかった。

 恐る恐る上を見ると、翡翠色の目がじっとマリヤを見下ろしている。暗がりだからはっきりは見えないが、なんだか苦しそうな顔をしていた。


 もしかして、まだ体調が万全でないのでは。


 マリヤが問いかける前に、ミハエルが口を開いた。

「娘がそんな姿になって、死んだ母は浮かばれるか。それに、誰も心配しないだなんて決め付けるな。自分を否定するような物言いをするから、周りから軽んじられるんだ」

 いつもの有無を言わせぬ調子ではなく、静かに説かれて、思わずマリヤは頷いていた。

「行くぞ。蛇の餌にならないよう気をつけろ」

「この中じゃどうしようもありませんよう」

 瞬時にいつもの強引な調子に戻って、ミハエルが洞窟内に踏み込んだ。


 マリヤは自分の胸に手を当てた。つるりとした指で胸に触れても硬い毛の感触しかないけれど、たしかにほんわりと温もりがあった。


☆★☆★☆★☆



 獣の唸りのような低い風鳴りが聞こえるたび、かごの中でマリヤは身をすくませた。ミハエルの靴音が反響する。松明の明りを頼りに進んでいくと、分かれ道があった。

 大して迷った様子無く、ミハエルは右へ向う。しばらく進むと、一筋の光が見えた。

「わあ……」

 マリヤは感嘆の声をあげた。


 月光だった。洞窟の天井に小さな穴が開き、空に浮いた満月の白い姿が窺える。そこから差し込む光が、天への階のように見えるのだ。

 光は地面で煌く透明な石に降り注いでいる。


「あれが月水晶だな。よし、採集する」

 他の水晶と違って、透明な柱の中にきらきらと動く光の粒子が見えた。閉じ込められた月光が、水晶の中で乱反射しているのだ。

「なるほど、これは珍しいな」

 宝石など見飽きているだろうミハエルでさえも唸る。水晶を袋に大事にしまいこんで、彼は辺りをうかがった。


 成長しきっていない月水晶がそこここに顔を出している。何十年かすると、立派な柱になるのだろうか。それはきっと壮観だろう。

「またここへ来たいものだな」

「ええっ。ど、どうしてですかあ! おかしなことを言わないでくださいよう」

 その言葉にまたばちんと虫かごを叩かれた。訳が分からず、マリヤはよろよろ身を起こす。

「次に来るときはせめて、まともな人型のお前を供にすることにしよう」

「私、こんなところで死にたくないです」

 マリヤの頭の中には最早、美しい月水晶などなく、洞窟に棲むという大蛇の脅威しかないのだった。

 頭上で、眉間にしわを寄せたミハエルが何故か重々しいため息をついたので、彼女は小首を傾げた。



☆★☆★☆★☆



 帰り道、異変に気づいたのはマリヤだった。

 姿だけではなく、嗅覚や視覚も鼠並みになったのかもしれない。嫌な臭いをかぎとって、マリヤは叫んだ。

「……坊ちゃま!」

 彼女はかごにしがみついた。ミハエルが素早く剣把に手をかける。


 二人が出てきた穴の横、並列している左の分かれ道に、四つの赤い輝きがあった。


「ち、せっかくここまで来たというのに!」


 剣を抜き放ち、ミハエルが飛び退る。

 松明を突き出すと、揺れる明りのなかに、舌をせわしなく動かす大蛇がいた。白い表皮はぬるりと光り、赤い双眸が凶悪な光を放っている。しかもこの大蛇――。

「双頭か! 魔女め、大事な情報を忘れたな」

 ミハエルが半身になって剣を構えた。二つ首の大蛇は、反応するように鎌首をもたげる。

 ミハエルの肩から襷がけにされた虫かごのなかで、マリヤは震えていた。


「め、珍しい蛇ですね、頭が二つだなんて」

「良かったな、珍しい体験ができた」

「ちっともよくありません! きゃああ!」

 二つの首が交差して降ってくる。

 後ろに跳んで避けた後、ミハエルの右腕が翻った。大蛇の右側の頭に、一閃が走る。しかし、表皮は岩のように硬く、魔女のまじないがかかった剣ですら、かきんと弾かれた。

 ミハエルの顔が引きつる。

「効かぬではないか!」

「あわわあわ」


 瞬時に脱兎と化した青年の背で、紐でつられた虫かごががたがた揺れる。揉みくちゃにされて、マリヤは情けない悲鳴を上げるしかない。

 蛇が洞窟全体を振動させて追いかけてくる。


「ひいい! ぼ、坊ちゃま! 死ぬ前に一つ聞かせてください! どうして一角獣なんて狙ったんですかああ!」

「死ぬとか、不吉なこと言うな! 死んでも教えてやらん!」

「あー! やっぱりこのまま死ぬんだあ!」

「死なないし、お前は人間に戻るっての! この馬鹿鼠女!」

「もとはといえば、坊ちゃまが一角獣なんて仕留めちゃうからいけないんですよう!」


 叫びながらも、ミハエルは走っていた。

 出口が見える。マリヤの入ったかごを大蛇の牙がかすっていく。

「きゃあああ!」

 あまりの恐怖に、マリヤの視界は暗くなった。



☆★☆★☆★☆




「おい、マリヤ。おいってば」


 何かとがったもので腹をつつかれ、マリヤは目覚めた。見ると、ミハエルが小枝でかごの外からマリヤの腹をつついている。


 どうやら、ちょっと気絶していたらしい。


 振り返ると、恐ろしい光景が広がっていた。

 後を追ってきた蛇が、巨大な体を出入り口に生えた天然の石柱にぶつけ、雄叫びを上げている。長い首を伸ばしてのたうつが、どうやら外へは出てこられないようだ。


「た、助かりましたあ」

「命からがらとはこのことだな」

「もう洞窟はこりごりです」

「ああ。……水晶も手に入れたし、急いで戻るぞ」



☆★☆★☆★☆



 魔女の家につくと、魔女は先ほどと変わらぬ態度で二人を出迎えた。

 マリヤを虫かごから取り出して、魔女がミハエルに向かって笑む。

「いい度胸してるよ。約束どおり、呪いを解いてやろう。アン、おいで」

 アンが、すっと魔女の前に跪いた。彼女の額に、爪の長い魔女の手が触れる。魔女の指先が淡く発光し、その赤い唇が、呪文を唱えようと開いたときだった。

「あの……やっぱり、私このままでいいです」

 ミハエルの眦がつりあがる。

「お前、まだそんなことを!」

「だって、坊ちゃま。私がこんな姿になったのは私の勝手です。自分で納得しているから、それでいいんです。坊ちゃまを危険な目に合わせてお金まで払わせてまでもとの姿に戻りたいとは思わないんです」


 自覚していないが、マリヤもミハエルに劣らず頑固である。頑として譲ろうとしなかった。


「どうする、お坊ちゃま。私は基本的に術を受ける側の意思を尊重するんだけれど」

 それはつまり、マリヤが首を縦に振らない限り、魔女は動かないという宣言だった。


 ミハエルがぐっと顔をしかめた。

「マリヤ、お前なんでそんなに聞き訳がないんだ? どうしたら元に戻るっていうんだ」

「坊ちゃまこそ、どうして私なんかをそんなに構うんですか?」

 マリヤの黒い瞳と青年の翡翠の瞳が見つめあう。


「私、知ってます。坊ちゃまが一角獣の角を手に入れようとした理由。……お母ちゃんのこと、助けようとしてくださったんですよね」


 ミハエルの目が見開かれる。鼠姿のマリヤはぺこりと頭を下げた。


「ありがとうございました。でも、私は……、お母ちゃんだけじゃなくて坊ちゃままで死んじゃうかと思って、本当に、恐かったんです」


 俯いたマリヤの目から、ぽろぽろ涙が零れ落ちて、魔女の掌に小さな水溜りを作った。


「だから今日は、本当に嫌だったんです。洞窟に行くのも、全部。坊ちゃまに何かあったらどうしようって。なんとか無事に帰ってこられたけれど……」

「だったらそれでいいだろうが! お前はもとの姿に戻って」

「嫌です。私がいると坊ちゃまはまた何か無茶をするでしょう。だから私をここに置いてください、魔女さん」

「何を言い出すんだお前!」


「私は別にいいけれどー?」

 いきりたつミハエルを尻目に、魔女はマリヤの頭を指先でなでてくる。

「こんな聞き分けの無い男のところより、私のところのが住みやすいってもんだろ」

「ふ、ふざけるな! マリヤ、俺は……!」


 言い募ろうとするが、鼠姿のマリヤを見て、ミハエルはぐっと言葉に詰まった。

 生理的嫌悪感には抗えないようで首筋が粟立っている。

 魔女が肩をすくめた。


「やれやれだわ。仕方が無いから、ほら」

 その一言だけだった。ぼわんと白い煙が立ち込めると、魔女の掌の上の鼠は、鼠らしい鳴き声を上げて彼女の肩に走っていった。


 気がつくと、マリヤは床に座り込んでいた。両手を見ると、鼠のつるりとした手ではない。ちゃんとした人間の両手である。


 彼女はきょとんとミハエルと魔女を見上げた。

「えっ? おま、今、水晶……」

「あ、これ? 別に使わなくても解呪くらい出来るけど、それが何か」

 顔面を真赤に染めたミハエルだったが、頭をがしがし掻くと怒鳴るのをやめてマリヤの前に跪いた。


「……その地味な顔を見るのは久しぶりだ」

「いきなり、ひどいですよう」

「ほら立て。帰るぞ」

「帰りません」


 ため息をついて、ミハエルは懐から白い石の様なものをとりだした。紐の部分を、マリヤの首から提げてやる。

「これって……一角獣の角?」


 ミハエルの顔は、これ以上ないほど赤かった。ずいっと突き出された彼の手を、マリヤは反射的にとってしまっていた。

「お坊ちゃん、ちゃんと言葉にしないとわからんことだってあるんだよ」


 魔女がせせら笑うのに「うるさい!」と怒鳴り返して、ミハエルは傾いだ扉を蹴り開けて外へ出た。引っ張られたマリヤは脚をもつれさせながらついていく。

 魔女がにんまり手を振った。



☆★☆★☆★☆



「いいか。この角は、お前とお前の母親の為のものだ。だからお前はこれを付けて、一生俺の傍にいるんだ。俺が命をかけてとってきてやったんだぞ、名誉に思えよ!」

「名誉にはおもいますけど、別に今でも傍にいるじゃないですかあ、坊ちゃま」

「お前、絶望的に鈍いな!」

「ぜ、絶望って……」

「とにかく、お前はもう二度と鼠にならなくていいし、お前の母がいなくてもうちにいていいし、……理由なんかなくても俺の傍にいていいんだよ!」


 顔を真っ赤にしたミハエルが怒鳴った。

 声に驚いた鳥達がぎゃあぎゃあと騒いだ。

「ほんとうですか? 意地悪で後になって『嘘だった』なんておっしゃいませんか?」

 ミハエルが、額を押さえて長大息をつく。その口元には、苦笑。


「言うか、馬鹿。さあ、帰るぞ。きっと母上はかんかんだ」

「うう、奥様になんてお詫びすれば……」


 二人を乗せた馬は、嘶くと、夜道をのんびり歩き出した。

 満月の綺麗な夜空が、広がっていた。

 



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