第91話 戸隠神社奥社参道
ドアを開け、軽のSUVから降りる修馬。奥社入口の駐車場には夏の朝の日差しが照りつけ、八方から重なるように蝉しぐれが響いてきた。
運転席に座ったままの伊織は窓を開け、こちらに顔を向けてくる。
「婆ちゃんのことが心配なので、僕はこのまま帰ります。九頭竜社に着きましたら珠緒さんの指示に従ってください。本来であれば巫女としての力が強い葵と茜がその役割を果たしてくれればいいのですが、残念ながら彼女たちはまだ幼いので」
「あおいとあかね?」
修馬が聞き返すと、伊織は少しだけ顔をほころばせた。
「はい。今年で5歳になる双子の娘です」
そこでようやく修馬は、毒の治療をしてくれた幼女のことを思い出した。生意気そうで、少々サディスティックな性格の女の子。修行に明け暮れていたので特に気にしていなかったのだが、あの時の子は伊織の子供だったようだ。しかし双子ということは、あんな感じの子がもう1人いるのか?
「とはいえ珠緒さんも、2人に劣らない力を持っています。友理那さんと力を合わせれば、必ずや禍蛇の力を抑えることが出来るでしょう」
力強くそう言われたが、よくわからぬ修馬は何となく空気を読んで頷いてみせた。
「わかりました、ありがとうございます。帰り道も気を付けてください」
「修馬くんも充分に気を付けてください。もはや神域でも魔物が出現することは、証明されてしまったので」
伊織はそう言って窓を閉め、車を静かに走らせていく。修馬は頭を下げ、元来た道を走る車を見送った。
やがて車が見えなくなると、木々を揺らす風が山から吹きおろし、夏とは思えない冷たい風が辺りに吹き抜けていった。
さて、じゃあ行こうか。
森の奥に見える切り立った山を眺め、修馬は自分の気持ちに「うん」と声を出して返した。
小学校の遠足で戸隠神社の中社までは行ったことがあるのだが、この先にある奥社と九頭竜社に行くのはこれが初めてだった。
途中掲げられた熊出没注意の看板に怯みながらも、神域の境界を示す大きな木の鳥居を潜る修馬。だがよくよく考えると、今は魔物が出現するかもしれない状況なので、熊ごときに怯えている場合でもないような気がしてきた。何だかいろんな感覚がおかしくなってきている。
鬱蒼と生い茂る森の木々と、程よく整備された砂利の道。今が8月であることを忘れてしまうかのような涼やかな気候のため、歩いていく速度も自然と速くなった。一刻も早く友理那に会いたい。
そして20分程歩いていくと、随神門という苔の生した茅葺き屋根の朱色の門が前に見えてきた。随身と呼ばれる守護神像を左右に配置した境界を守るための門だ。
観光で来ているわけではないので、特に興味を示さずに2体の像が見守る門を潜り抜ける。だが、そこを通り過ぎると世界が一変した。
真っすぐに長く続く一本道。その両脇には、生命力に満ち溢れた杉の巨木が列をなして並んでいる。
修馬はその光景を目の当たりにして、足の先から首筋にかけて一気に鳥肌が立つような思いがした。異世界的な風景とも、懐かしい日本の風景ともとれる不思議な景色。あれほど賑やかに聞こえていた野鳥や蝉の声が、今はどこか遠くからゆっくりと聞こえるような感覚がする。
神域の清らかな空気を吸い込み、修馬はその道を歩き出した。歩いても歩いても、どこまでも続く長い道。この杉の巨木は樹齢何年くらいなのだろうか? ふと見上げ、その先端に視線を向けてみる。天に向かって一直線に伸びる杉の大木。高さはせいぜい50メートルくらいなのだろうが、修馬にはそれが、人の手では決して届かない高さのように感じていた。ここは神の通り道。
「成程、神域にふさわしい見事は道じゃ。儂の力も何となく強くなった気がするのう」
修馬の左後ろに、人型のタケミナカタがいつの間にか湧いていた。両手を腰に当てて、奇妙な体操をしている。
「流石にここに魔族が現れることはないかな?」
修馬が尋ねると、タケミナカタは体をひねるように森の方に向けた。
「さあな。元々戸隠山には鬼が存在するというのは聞いたことがある」
「鬼!? 戦鬼はもう勘弁してほしいけど」
修馬も木立に目を向ける。しかしそこには夏の草木が生えているだけで、鬼も熊もいなかった。
「そんな粗暴な鬼ではない。鬼女が住んでいるとかいないとか」
「どっちだよ?」
修馬がつっこむと、タケミナカタは不満げに口をへの字に曲げた。
「まあ、それも昔の話じゃ。今は居らんじゃろう」
それはタケミナカタが得意とする、いつものどうでもいい情報だったようだ。だが前を向き直し先に進もうとすると、彼は更にこう言葉を続けた。
「しかし、猿の妖怪がおるという話は聞いたことがなかったなぁ」
ましらと言われ、一般的なニホンザルを頭に思い浮かべる修馬。すると次の瞬間、道から外れた斜め左上にある小さな石鳥居の上に、真っ白い毛色の大型の猿が佇んでいることに気づいた。前に進む足がぴたりと止まる。
大型の猿は真っ赤な目を大きくさせ、こちらをじっと睨んでいる。完全にロックオン状態。
「あれは野生の猿じゃなくて、魔物だよね……」
「そうじゃな。頑張って相手してやれ」
他人事のように適当に返事をするタケミナカタ。こっちは緊張感で胃が痛むというのに、相変わらずの冷ややかさだ。
戦闘態勢を整え、腕に力を込める修馬。指の関節がパキッと小さく鳴った。
「あの猿の弱点は何だ? 有効な武器はあるか?」
「あれは狒々の類。大地に根付いた妖怪じゃろうから、風属性の武器が有効かもしれぬが、しかし……」
「しかし何だ?」
涼風の双剣を召喚しようとした修馬だが、その手前で呼び出すのを中止した。
タケミナカタは修馬の顔をじっと見つめている。
「異世界の武具に頼らずとも、今のお前なら神通力の無い武器、つまりあの日本刀でも倒すことが出来るであろう」
「日本刀? 初代守屋光宗『贋作』でか?」
それは伊織の高祖父が造り上げた中の、最高傑作の日本刀。先日の河童レベルの魔物であれば倒すことが出来るだろうが、この大きな猿に対して、魔力のない武器で対抗することが出来るのだろうか?
不安げに瞼を震わせる修馬。だがそれとは正反対に、タケミナカタは得意気な表情を浮かべる。
「たまには自分の力を信じてみるがいい。今までやってきた剣術修行が無駄だったわけではないであろう」
確かにそうかもしれないが、いきなり刀1本でのソロデビューは時期尚早な気がする。
未だに心の準備が整わない修馬であったが、当然魔物がそれを待っていてはくれることはなかった。
狒々はその場で爪を立てると、牙を剥きだしにして強襲してきた。
森にこだまする狒々の鳴き声。修馬は無意識の内に初代守屋光宗『贋作』を召喚すると、鞘を走らせ、閃光を如ききらめきで刀を一気に振り抜いた。
ザッと肉を絶つ音が鳴り、地面に何かがぼとりと落ちる。
振り返ると、先程の狒々が赤い血を流し、牙を剥きだしにしたまま地面に横たわっていた。
「ぐっ……、ヘリオスさま……」
痙攣しながらそう呟くと、狒々は空気に溶けるようにその場から消え失せてしまった。
「ほう。人語を解するだけの知能はあったようじゃな」
どこか感心したようにタケミナカタが言う。修馬としては特にどうでもいいことだが、天魔族以外にも喋る魔物がいるということは頭の片隅にでも置いておこう。
「……けど、ヘリオスって誰だ?」
ふと思い浮かんだ疑問。それに対しタケミナカタは、あくびをしながら答えた。
「それは勿論わからぬが、もしかすると奴の親玉が一緒にこちらの世界に来ているのかもしれぬなぁ」
「親玉かぁ……」
緊張感の無いタケミナカタに釣られ、修馬も自然とため息をつく。だがよく考えると、それってまずいんじゃないのか?
「おい。その親玉って、どこにいるんだ?」
「言わずもがな、奥社か九頭竜社じゃろうな」
それを聞いた修馬は急に背筋が伸び、道の先を遠くに見つめた。すぐに行かなきゃ。
そして修馬はこれまでの疲れがどこかに吹き飛んでしまったように地面を蹴り、全速力で細い山道を駆け上がっていった。




