第8話 楽園の入口
城下町レングラータを出た修馬とサッシャは、グローディウス帝国との国境がある『魔霞み山』と呼ばれる霊峰に向けて歩いている。方角的には、昨日朝食を御馳走になった山小屋へと続く道だ。天気は快晴。気温も日本ほど暑くなく、山歩きをするには丁度よい気候かもしれない。
2人が目指す町はグローディウス帝国のバンフォン。個人的にはそこに何の目的もないのだが、強いて言えば同じグローディウス帝国の帝都レイグラードというところに日本人らしき男性が向かったとの情報があるので、もし可能であればバンフォンからそこに行こうかと思っている次第だ。
「ところでサッシャは、何の目的があってグローディウス帝国に行くの?」
拾った木の枝を杖がわりにした修馬は、景色を眺めつつ歩を進める。半歩前を歩くサッシャは、少しだけ空を見上げ目を細めると、ゆっくりこちらに振り返った。
「私は魔法修行の一貫として、世界各地を旅しているのです。グローディウス帝国のバンフォンという町には『龍の渦』と呼ばれる自然のエネルギーが湧き出る洞窟があるので、寄ってみようと思ったわけです」
「魔法修行か、そういえばサッシャは水の魔法が使えるんだっけ? いいなぁ。俺も魔法が使えるようになりたかった」
修馬は朝食を頂いた山小屋で、アシュリーに魔法の才能がないと断言されていた。これは何とも哀しい事実。
「けど、シューマも私の『流水の剣』を模倣していたじゃないですか。あれには驚かされました」
サッシャは言う。しかし修馬は、あの後すぐに気を失ってしまったため記憶が曖昧だ。どうやって出したのか、まるで覚えていない。
「俺、魔法使いになれるかな?」
「いや、魔法の素質はありませんよ。ただ、素質がないのに私の技を模倣したから驚いているのです」
サッシャは感心しているか馬鹿にしているのか、よくわからない言い方をしてくる。まあ、恐らく後者だろう。
「魔法の才能がないっていうのは、魔法を使える人から見たらすぐにわかっちゃうものなの?」
「いや、何となくわかる感じですね。ですが、このペンデュラムという道具を使用すれば、魔法が使えるかどうか簡単に確認することができますよ」
サッシャはピラミッド型の道具をポケットから出した。アシュリーが魔法の相性を調べる時に使っていたものより一回り程小さいが、ほぼ同じ物だろう。
「昨日それ使って調べられました。魔法の才能は0だって言われた」
素直にそう伝えると、サッシャは「でしょうね」とでも言いたげな顔をして、ペンデュラムをポケットにしまった。やっぱり、魔法の才能がないということだけは覆らないようだ。
「では、何で流水の剣が使えたのでしょうねぇ?」
山道を歩きながら首を傾げるサッシャ。それに関してはこっちが聞きたいくらいだ。
その後、しばらく歩いていくと道辻にぶつかった。別れた2つの道の間には朽ちかけた看板が立っており、何か案内が記されていたが、謎の文字だったため修馬は読むことができない。
「これは何て書いてあるの?」
修馬は看板を指差す。サッシャはその古い看板に近づき、消えかけた文字を読んでくれた。
「右に行くと斎戒の泉、そして左に行くとアルコの大滝と書いてあります」
アルコの大滝とは、黒髪の巫女が身投げしたという場所。そして、斎戒の泉はタヌキ顔の美少女と金髪の女戦士がいたあの泉のことだろう。
「どっちも魔霞み山ではないのか……」
思うところあり、首を傾げる修馬。しかし文字は読むことができないのに、何故会話をすることは可能なのだろうか? これは異世界あるある。もとい、異世界七不思議の1つとして、記憶に留めておくことにしよう。
「魔霞み山にはどちらからでも行けます。ですが今回は左の道を行きましょう。滝口の近くに小さな集落があるので、そこで腹ごしらえでもしていきますか?」
「腹ごしらえっ!?」
食べることに貪欲な修馬は、その言葉に高速で反応する。最早そんな七不思議はどうでもいいとばかりに喜んだのだが、すぐに文無しだったことを思い出し、微妙な顔で固まってしまった。肩透かしを喰らった胃袋が、抗議するようにグーと音を立てる。
「ふふふ、お金の心配なら無用ですよ。バンフォンに着くまでの旅費は、全て私の方で賄いますので」
修馬の心の声を読み取り、笑顔でそう答えるサッシャ。この銀髪、マジイケメン。今、彼の背中には後光が差して見える気がする。
「何から何まで、すみません。どっかで恩返しができればいいんだけど」
「いえいえ、気になさらないでください。それにシューマにはいずれ、くっくっくっくっくっ……」
急に怪しげな笑い声を上げるサッシャ。差していた後光が、どす黒い何かに変化して見えた。
「えっ! ど、どうしたんですか?」
「申し訳ない。急にしゃっくりが出て、くっくっくっくっくっ」
「何、その変なしゃっくりっ!?」
今まで聞いたことがない、トリッキーなしゃっくりに戸惑う修馬。だがとりあえず脅かすのがベターかと思い様子を窺っていると、サッシャはおもむろに両耳の中に人差し指を差し込み始めた。何でそんなことをするのかはわからないが、その状態では脅かしたとしても効果が半減してしまう。
「あー、治まってきました。よかった」
しばらくして耳の穴から指を外したサッシャは、晴れ晴れとした表情で息をついた。
「そんなんでしゃっくり治るんですか?」
「そうですねぇ。私は昔から、こうやって治してましたよ」
サッシャは言う。所変われば品変わる。色んな民間療法があるのだなと感心した修馬は、いつかしゃっくりが出たら絶対に試してみようと心に決めた。
そして道辻から左の道、アルコの大滝方面に歩きだす修馬とサッシャ。これから飯が食えると思うと、自然に気持ちが浮足立ってくる。
少し湿った地面を踏みしめ、静かな山道を粛々(しゅくしゅく)と歩いて行く。そしてしばらく行くと、修馬は辺りの匂いが変化したことに気付いた。先程までは晴れた森の木々の香りが漂っていたのだが、今は、広い水辺のような爽快な香りが広がっている。
「もうすぐですね」サッシャが呟く。
やがて木漏れ日のトンネルを抜け出ると、前を歩いていたサッシャが振り返り子供のようにはにかんだ。
「見てください。この崖からの景色が最高なんですよ」
修馬もそこから歩み出る。遮るものが何もない高台に足を踏み入れた瞬間、修馬は思わず感嘆の息をついた。
眩い日差しと小さな雲が浮かぶ果てしない空。そして視線を落とすと、空の下には紺碧の海が一面に広がっていた。
「おおおっ、何だ、ここはっ!?」
その高台の端には申し訳程度の手すりが設置されていたのだが、その手すりに手を掛けると、更にとんでもない景色が視界に飛び込んできた。
そこは正に断崖絶壁。高さ500メートルはあろうかという奈落の底に目が眩み、修馬は腰を抜かしたようにへなへなと座り込んでしまった。
「どうですか、この景色? ここは『楽園の入口』と称される景勝地ですよ」
サッシャは平然とその景色を眺めている。何故彼は平気で立ってられるのか?
「いや、楽園の定義!? 落ちたら天国に行けるってことか?」
「まあ、それもさもありなんですが、下を見たらよくわかりますよ」
サッシャはそう言って、崖から身を乗り出した。ギシギシと軋む劣化した手すり。この人、アホだろ。
特殊な地形のせいなのか海方面からの風が強く吹きつける中、修馬は勇気を振り絞り、もう一度景色に目を移した。2人がいる場所から、弓状に続く長い長い岩肌。その崖の長さは、数キロメートルに及ぶかもしれない。そしてその途中には巨大な滝があり、そこから発せられる水しぶきが光を受け、崖の中腹には世にも美しい大きな虹が弧を描いている。
「確かにこれは、綺麗な景色だ……」
巨大な滝の下には飛沫が雲のように広がっており、その雲が途切れた辺りから海に至るまでの間に、沢山の建造物が並んでいるのが小さく見えた。この崖の下に町があるのだ。
「あの下の町が楽園ってことですか?」震える修馬は大きく鼻をすする。
「さあ、どうでしょうねぇ。崖の上に住んでいる人たちが下の町を楽園と思ったのか、それとも下の町に住んでいる人たちが上の村を楽園と呼んだのか?」
その由来には諸説あるようだが、もはやそんなことはどうでもよかった。景色は充分堪能したので、早くここから立ち去ろうではないか。
杖を握り、生まれたての子鹿のように健気に立ち上がる修馬。それを見たサッシャも、そろそろ出発しようと先の道を歩きだした。
「この先しばらく崖沿いの道が続くので、落ちないように気を付けてくださいね」
耳を疑うようなサッシャの言葉。
この世界の先人たちは、何をもってこんな恐ろしいところに道を作ったのだろう?
道の先に目を向ける修馬。取り付けてあった手すりは10メートル程しかなく、後は崖っぷちがむき出しの細い道が遥か遠くまで続いていた。