第86話 ヤロカ水
家の中は、じっとりと生臭い臭いがした。
前を歩く伊織もそのことに気づいているはずだ。家の中にも先程の河童が侵入してしまっている恐れがある。
早足で廊下を歩いていくと、どこからかあの「ギュエッ!!」という鳴き声が聞こえてきた。慌てて駆け出す伊織と修馬。そして先にある茶の間の鴨居を潜ると、婆ちゃんと向かうあう河童の姿があった。
「ああ、遅かったねぇ……」婆ちゃんは言う。
するとこちらに背中を向けた河童は、上を向いて派手に吐血すると畳の上に仰向けに倒れた。
「大丈夫だった? 婆ちゃん」
伊織が問いかけると、婆ちゃんは深く顔をしかめさせた。
「もう、うんざりするほど始末したよ。倒しても倒してもきりがない」
どういう戦い方をしたのかはわからないが、仰向けに倒れる河童は腹が八つ裂きの状態だった。そのまま見ていると、河童は空気に溶けるように姿が消えていった。畳に染みた紫色の血も、一緒に消え失せる。
「この河童たちは、山から来ているのでしょうか?」
伊織は河童の消えた畳の上に目を落とす。
「千曲川ならともかく、戸隠山に河童がいるなんて話は聞いたことがないねぇ。それよりも、もっと近いところに発生源があるみたいだが……」
婆ちゃんはその場所がわかっているかのように、一点を見つめた。母屋と道場を繋ぐ渡り廊下の方だ。
伊織は小さく頷き、そちらに向かって歩いていく。修馬も気合を入れ直し、その後を追った。
歩いていくにつれ、生臭さと不穏な空気が強まっていく。そして渡り廊下に続く木戸を強く開け放つと、廊下の途中にある瓢箪型の池の水面が突然ドーム状に大きく盛り上がっているのが見えた。
「おっ!?」
思わず声が漏れると共に、池から竜巻のような水流が立ち昇った。
「こ、これは水の精霊!?」
刀を前にして身構える伊織。そして後ろにいた修馬は、まじまじとその水流を見上げた。これに似た光景は、以前目にしたことがある。それは学校のプールに液状の魔物が出現した時だ。
だが、こいつがあの時の魔物と同じだというのなら好都合。何故ならその魔物の弱点を知っているからだ。修馬は手のひらに力を集中させた。
「出でよ、振鼓の杖!」
その場に召喚したのは、先端にでんでん太鼓がついたココ・モンティクレールの魔法杖。この杖に宿る稲妻の力で、前回は魔物を追い払うことに成功したのだ。
するとその時、今度は背後に大きな気配を感じた。
「だからその武器は危険だと、何度も何度も言っておるのに……」
後ろにいたのは人型の姿をしたタケミナカタだった。理由はわからないが、彼はこの武器のことを心底毛嫌いしている。
「うるさい! あの魔物には、この武器が最適なんだよ!」
タケミナカタの姿を見て驚いている伊織を尻目に、修馬は振鼓の杖を天に構えた。「喰らえ、サンダーボルト!!」
爆音と共に、細い閃光が目の前の池に落ちる。
全身の毛が逆立つような衝撃に一瞬目を瞑るも、再び目を開けると、池の水流も握っていた振鼓の杖もどこかに消えてしまっていた。
「えっ!? 杖は?」
だが足元を見ても振鼓の杖はどこにもなく、タケミナカタも人型から黒い球体に姿を変えていた。
「こ、これが修馬くんが宿している守護神、建御名方神のお姿ですか……」
伊織は池から湧いてきた河童を叩き斬ると、身を正して腰の高さまで最敬礼した。大袈裟過ぎる。そんな大層な神様ではないし、今はそれどころではない。
とりあえず倒したかどうかの確認が出来ていないのと、未だに河童が這い出てくるので、修馬は再度、振鼓の杖の召喚を試みる。だが、念じたところで杖は一向に出現しなかった。
「おい、小僧。その武具は二度と使うなと言うたではないか!」
小さな体を何度も跳び上がらせ、怒りを主張してくるタケミナカタ。そうこうしているうちに、また水面が盛り上がり、大きな水流が天高く立ち昇った。やはり、先程の攻撃では倒せていなかったようだ。
「……これは、『ヤロカ水』のようじゃな」
たった今現れた婆ちゃんがそう言うと、その水流の中心に青白い女の顔が現れた。それは人形のように無表情な目で、こちらの様子を伺っている。
やろかみず?
それって何だろうという思いで伊織の顔を見たが、彼もこちらと同じくよくわからないような顔をしていた。
「ヤロカ水は、水害が実体化した水妖。体はほぼ水で出来ているので、刀の類は通用せんのかもしれぬな……。恐らく」
不確定ながら、そう教えてくれる婆ちゃん。よくわからないが、やはり稲妻を叩きこむのが有効だと思われる。
修馬はとりあえず守屋光宗『贋作』を召喚し、下から湧く河童を薙ぎ倒した。
「タケミナカタ、刀じゃ駄目みたいだ。振鼓の杖を召喚させてくれ!」
「儂の話を聞いていたのか? 無理じゃ、無理。大体水属性の魔物なら、天地の大槍が有効だと何度も言うておるじゃろうっ!」
天地の大槍。それは天魔族、クリスタ・コルベ・フィッシャーマンが使っていた武器。戸隠神社中社でエイの化け物を倒した長槍だ。
「成程、それかっ!」
有効な手立てを見出した修馬は少しだけ笑い、表情無く水に浮かぶヤロカ水の顔を強く睨みつけた。