第85話 狂気の剣
ザンッ!!
繊維を斬り絶つ音が道場に響く。修馬の目の前の巻藁が中央から横に真っ二つに割れ、畳の上にボトリと落ちた。
伊織はその落ちた巻藁を拾い上げると、斬られた断面をしげしげと確認する。
「素晴らしい。ここまで斬れるようになったなら免許皆伝……、とまではいきませんが、あの剣をお渡ししても問題ないでしょう」
「あの剣?」
そう聞き返したものの、検討がついていないわけではない。恐らく、昨日目にした剣のことだろう。
「これです。初代守屋光宗『贋作』」
伊織は、道場の床の間に飾られた黒鞘の日本刀を手に取った。やはりそれは、天魔族のウェルターを倒した時に使用した刀だ。何でも伊織の高祖父が天之羽々斬を再現しようとして造った中の、最高傑作の剣だとか。
「それは、天之羽々斬に匹敵する強さなんですか?」
単純な疑問をぶつける修馬。だが、伊織はそれに対して、首を横に振った。
「いえ、切れ味で言えば大業物と並ぶ品物ではありますが、禍蛇を討つ程の力は間違いなくないでしょう」
持っていた刀を手渡そうとする伊織。だが修馬はその申し出を固辞した。
「その刀は伊織さんが持っていてください。俺にはこういう特技があるから」
そして修馬は右手を前に出し構えると、その手の中に一振りの刀が幻影のように出現した。それは伊織の持つ刀と同じ黒い鞘に白い柄の刀だ。
「なんと……?」
黒縁眼鏡を指で持ち上げ、奇異な目を向ける伊織。修馬は鞘を抜き、彼に刃を見せた。
「これはタケミナカタが俺にくれた能力です。一度目にした武器は、この手に召喚することが出来るんです」
「ほう、これが珠緒さんが言っていた修馬くんの力ですか。お見事です」
伊織は音も立てずに静かに手を叩く。
少しだけ気を良くした修馬は抜刀するポーズで構えてみせたのだが、不意に大きな頭痛と耳鳴りに襲われ、持っていた刀を畳の上に落とした。ボトッという音と共に、初代守屋光宗『贋作』は泡のように消え去った。
「これはまさか……」
呟く、伊織。見ると、彼も頭が痛いのか側頭部を手で押さえていた。同時多発的な頭痛? 嫌な予感が脳裏を過ぎる。
「……破られたか?」
そう言うや否や、外にを飛び出す伊織。緊急事態だと悟り後に続くと、庭の周りに怪しい影が幾つか潜んでいるのが見えた。ただならぬ気配が、辺りを支配する。
「あれは?」
木陰に潜む謎の赤い目と視線がぶつかる。間違いなく、この世の生き物ではないだろう。
「よくわかりませんが、昨日斬った方のお仲間のようですね」
はっきりと姿は確認できないが、しばしの睨み合いが続いた。そして「ギェッ!!」という鳴き声が合図となり、庭の木陰から複数の魔物が一斉に飛び出してきた。
伊織は持っていた初代守屋光宗『贋作』を振り、躊躇なく斬り捨てる。修馬も、初代守屋光宗『贋作』を今一度召喚し向かい討った。その魔物は人の子供くらいの大きさで、蛙とイタチが合体したような特徴の魔物だった。動きは素早く、中々剣で捕らえることが出来ない。
「河童か何かの仲間のようですね」
すでに数匹を斬った伊織は、落ち着いたように言う。だが周りには、まだ7、8匹が「ギェッ、ギェッ」と声を上げている。
「カッパ!?」
その深緑色の魔物の姿をまじまじと見る修馬。確かにくちばしのようなものはあるが、頭に皿はないし、背中に甲羅も持っていない。一般的に想像する河童とは、だいぶ形状が異なっている。
河童と思われる魔物が、腕を伸ばしてきた。というのは比喩ではなく、骨格を無視して実際に数メートルほど腕が伸びてきたのだ。
修馬はその伸びる腕を横に避けると、下から刀を振り上げた。河童の腕は半分で切断され、紫色の体液がほとばしる。
「ギュエッ!!」
悲鳴のような声を上げる河童に、続けざま勢いよく刀を突き刺した。目の前でびくりと大きく痙攣すると、河童は目を虚ろにして地面に横たわる。
感情の高ぶった修馬は、血走った目で河童の体から刀を引き抜いた。
ようやく1匹……。
周りにはまだ6匹の河童がいる。だが何故か恐怖はあまり感じない。ただ目の前の敵を殲滅させたいという気持ちだけが、心の中を支配していた。
強靭な脚力で飛び掛かってくる河童。修馬は狂気を込めた刃で、それを上から叩き斬った。頭部の割れた河童は、地面に落ちて力なく崩れる。
「……くん。修馬くん?」
何度か伊織はその名を呼んだが、修馬はそれに気づかない。気づかないまま、立て続けに残りの河童も次々に斬り伏せた。
そして遂には残り1匹。一太刀で勝負を決めようと刀を構えたが、それより先に伊織の刀が、残った最後の河童を斬り裂いた。声も出さずに地面に崩れる。そして息絶えた河童たちは、溶けるように色を失くし、その姿を消してしまった。
「これで全部倒しましたね」
満足げに言う修馬。だが伊織はまだ警戒するように辺りに視線を動かしている。
「わかりますか? 修馬くん。屋敷に張られた結界が破られてしまったようです」
「結界が?」
そういえば昨日ウェルターが言っていた。強力な結界も、時間があればどうにでもすることが出来るのだと。
「只ならぬ邪気が、辺りに溢れています。僕たちも邪念に支配されないように気を付けなければいけません」
伊織はそう言って、刀を鞘の中に収めた。梅雨時のような生温かい風が、建物の周りを包み込む。
「ドイツの哲学者ニーチェの言葉に、深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ。というものがありますが、意味はわかりますか?」
唐突にそう聞かれ、少し考える修馬。勿論その言葉は聞いたことはあるが、意味を問われると答えが難しい。
「この言葉の前には、怪物と戦う者はその過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。という文章が入ります。修馬くんも魔物と戦うにあたり、自分自身が魔物のようになっていませんでしたか?」
「俺自身が魔物……」
修馬は心の興奮を抑える。自分ではよくわからないが、そう言われると悪しき心が渦巻いていたように感じられる。
「魔物に対し、恐怖を払拭出来たのは素晴らしい。ですが、剣の道に重要なのは明鏡止水。それは何の邪念もなく、落ち着き清く澄み切った心のこと。相手を映す鏡にさざ波が立ってしまえば、本来見えるものも見えなくなってしまいます。この程度の妖魔であれば、倒すことも出来ましょうが、昨日お会いしたレベルの方が相手となると、今のままでは勝つことは難しいでしょう」
伊織の戒めを受け、自省する修馬。
明鏡止水。それは修行中、再三に渡って言われていた台詞だった。
大きく息をつき、天を仰いだ。今日は薄曇りの空が広がっている。
教わったことを全て実戦で引き出せるわけではない。もっと自分を鍛えなければ、己が魔物と変わらぬものになってしまうだろう……。
沈んでいる修馬の肩を、伊織は優しく触れた。
「人間、体験することが一番の成長です。頭では理解していても、実際には中々うまくいかないもの。それよりもまだ邪気はなくなっていません。一度、家の中に戻りましょう」
玄関から家の中に入る伊織。修馬は先ほどの言葉を心の中に刻みながら、思慮深く玄関の扉を潜った。