第79話 前兆
傾きかけた日差しが緩やかな木漏れ日となり、森の中の佇む古い石碑を照らしている。
「やはり父上の言う通り、この石碑にはアメノハバキリのことが書かれていたのです……」
不意に木陰から出現したララが、消え入るような声でそう言ってきた。
「星魔導師は未来を読み解くことも生業としておりますが、まさかオミノスを倒すことが出来るなどということは考えたこともありませんでした。アメノハバキリ、そしてアグネアの槍が手に入れば、それが可能になるのですね」
アイルは逆に、ハキハキとした声でそう答える。長年解読が不可能だと思われていた碑文の内容が明らかになったことで、だいぶテンションが上がっているようだ。
「天之羽々斬は、うまくいけば向こうの世界で手に入れることが出来るかもね」
修馬は言う。現実世界で守屋伊織は、天之羽々斬を自分で造ると宣言していた。それが成功すれば、手に入れることは可能だろう。
「じゃあ後は、どうにかしてアグネアの槍を手に入れなくてはいけないのです……」
ララがそういうと、森の中に一陣の風が吹き抜けた。海側から吹く風が、木々をざわざわと揺らしていく。
「ところでそのアグネアの槍っていうのは、一体何なの?」
風が治まったところで修馬が質問する。アイルは揺れる梢を見上げ、そして柔らかな前髪を手でそっと整えた。
「アグネアの槍は、天魔族に伝わる神を討つための武器。その威力は魔道士100人分にも匹敵するというお話です」
槍の強さの例えなのに、魔道士を引き合いに出すのは何故だかわからないが、強力な力があることは間違いないと思われる。しかし天之羽々斬と同じ時代の武器なら、同様に腐食してしまっている恐れがある。
「その武器は今、天魔族が持っているの?」
「勿論です。龍神オミノスを討伐することは天魔族の天命。そのために必要なアグネアの槍は、間違いなく『魔王ギー』の手の元にあるでしょう」
確信を持った目でアイルは言い切る。
魔王ギー。その名はどこかで聞いたことがあるような気がするが、改めて聞くと何やら可愛らしい響きがある。たぶん恐ろしい奴なのだろうが。
「帝国は戦争に天魔族を利用しているみたいだけど、やっぱりその魔王とやらも帝都レイグラードにいるのかな?」
そう尋ねると、アイルは瞼を大きく開き感心したように柏手を打った。
「シューマさんは、帝国と天魔族が軍事的同盟を組んでいることをご存知でしたか。確かに魔王の側近を務める『四枷』と呼ばれる4人の天魔族は帝国にいるようですが、魔王ギー本人は目に障害を持っているので、基本的に自分の城から出ることは無いそうです」
唐突に告げられる、魔王の意外な事実。それは全盲ということなのだろうか? 城から出れないくらいの障害を持っているのに、龍神オミノスを倒すつもりだというのだから恐ろしい野心家だ。
「ちなみにその魔王のいる城は、一体どこにあるの?」
「確認したわけではないのでわかりませんが、伝わるところによると、ヴェストニアと呼ばれる辺境の海域に……」
アイルがそう話している途中で、また地面ががくがくと揺れだした。それほど大きくはなさそうだが、奇妙な揺れ方をしている。
地震の苦手なアイルは、頭を押さえてすぐにしゃがみ込んだ。
修馬は立ったままアイルの肩を抱き、地震の経過を見守った。周りの木々が、ゆっくりと左右に揺れている。すぐに治まるかと思ったが、その途中、突然地震とは別と思われる爆音が空に大きく鳴り響いた。
森の鳥たちは異常なまでに鳴き散らし、リスやイタチのような小動物が慌てた様子で森の中を駆け出していく。
「天変地異じゃな」
「天変地異なのです……」
その不可解な自然現象に、タケミナカタとララはいぶかしげな表情を浮かべた。
「この音……、もしかすると、まずいかもしれません……」
未だ揺れが続く中、アイルは何かに取り憑かれたように無表情で立ち上がった。
「どうかしたの?」
そう声をかけた時、アイルはすでに駆け出していた。
山の頂上に続く道を全速力で走るアイル。一瞬呆気にとられた修馬だったが、すぐに我に返り急いでその後を追いかけた。
「何? どこ行くんだよ!?」
傾斜のあるでこぼこの山道を、足元に気を付けながら走っていく。その時、揺れは治まっていたのだが、再び爆音が大空に鳴り響いてきた。
修馬は走りながらも、その音の正体を何となく気付き始めていた。
この地震と爆音。もしかすると、あれが始まったのか……?
やがて見晴らしの良い場所に辿り着くアイルと修馬。東の空、海の向こうに見えるのはどす黒い煙。あれは恐らく噴煙だ。強い地属性魔法の込められた『星の鼓動』と呼ばれる魔玉石が、レミリア海の海底火山に沈み、現在、世界中の火山が活発化しているというのは、虹の反乱軍の拠点にいた時に聞いていた情報。
これはどこの火山が噴火したのだろうか? 反乱軍隊長のアーシャ・サネッティは、世界最大の活火山、魔霞み山が噴火すれば世界は闇に覆われるだろうと発言していた。今、修馬たちの視線の先で、夕暮れの東の空が徐々に黒く染まっている。
「魔霞み山が活動を開始しました……」
真っすぐに空を見つめたまま、アイルは言った。修馬の顔から血の気が引いていく。
「やっぱり、この噴火は魔霞み山なのか?」
そう聞くと、アイルは黙ったまま静かに頷いた。そして彼女の背中から守護霊のララが這い出てきた。
「魔霞み山が……、お兄ちゃんが……」
そう言って海の向こうを見つめるララ。いつもに増して悲しげな表情を浮かべているが、目に涙はない。霊体は涙を流さないのかもしれない。
「凶事が起こることは占星術でわかっていましたが、まさかこんなにも早く魔霞み山が噴火するなんて……。昨日、星の鼓動を運ぶセントルルージュ号がレミリア海で沈没したという噂を聞きましたが、どうやらそれは本当だったようですね」
独り言のように極めて小さい声で、アイルは呟く。セントルルージュ号の沈没はウィルセントの街でも大きなニュースになっていると思っていたが、それは違うのだろうか?
「知らなかったの? 客船セントルルージュ号は天魔族の手によって、海に沈められたんだ」
そう言うと、アイルはようやくこちらに振り返り、赤く腫らした目を大きく瞬かせた。
「……そうでしたか。帝国による情報統制があるようですね。しかし帝国が天魔族を使って意図的にセントルルージュ号を沈めたとなれば、ユーレマイス共和国とグローディウス帝国の戦争は避けることが出来ないのでしょうが、それよりも魔霞み山に眠る龍神オミノスの封印が解けたとなれば、もはや戦争どころではないのかもしれません」
徳の高い聖人が神の啓示でも告げるように、アイルは神妙な面持ちでそう息をついた。
「戦争どころではなくなるようなものを蘇らせようとする帝国の意図は、一体何なんだろう?」
天魔族は龍神オミノスの討伐を本懐としているから、蘇らせる動機があるが、帝国にはその理由がないはずだ。
「きっとあの人たちは、オミノスの恐ろしさを理解していないのです。天魔族にそそのかされ、このような愚行を行っているのでしょう」
手を合わせ東の空を見つめるアイル。禍々しく沸き上がる黒い噴煙が、東の空の半分を埋め尽くしていた。
「オミノスの恐ろしさか……」
そう言われても、修馬自身、オミノスの恐ろしさも禍蛇の恐ろしさも理解出来ていない。討伐に有効な2つの武器を仮に手に入れたとして、自分たちで倒すことなど出来るのだろうか?
「わざわざ眠る祟り神を起こして討ち倒そうとは、無知の極みである」
いつの間にか肩の上にいた球体状のタケミナカタが、そう言ってきた。
「人間では神に勝つことは出来ないのか?」
修馬がそう聞くと、タケミナカタは己の体を横に傾けた。
「さあな。しかし、触らぬ神に祟りなしという言葉があるであろう」
それは、関わることがなければ災いは起きないという意味のことわざ。しかし、災いはすでに目の前で起きてしまっている。
「じゃあ、触ってしまった神はどうすればいいんだ?」
「最早どうすることも出来ぬ。まずは起こるであろう目前の災厄を回避することが先決。先程の地震の影響でこの辺りにも高波が来る恐れがあるからな」
タケミナカタの言葉を聞いたアイルは、何かを思い出したかのようにはっと口を開いた。
「地震の影響による高波の発生……。確かに古い文献の中に、そのような記載がありました。その脅威から逃れるには、山に逃げるか、もしくは船に乗って沖に出るかと書いてありましたが……」
「正しい選択肢じゃ。今夜はこの山の上で夜を明かした方が無難であろう」
タケミナカタは跳び上がると、修馬の肩の上から頭の上に移動した。神は高い位置にいるのが然るべきだと言わんばかりに。
「それでしたら、私が普段薬草取りの時に使用している山小屋が近くにありますので、そこに参りましょうか」
アイルはそう言ったものの、そこから動かずにじっと噴煙を見つめている。夕暮れの空は半分が闇に覆われ、赤と黒がせめぎ合うように大きな空を不吉に染め上げていた。
―――第18章に続く。