第74話 二大超国家
目が覚めた修馬は、硬いベッドから下りるとのそのそと歩き部屋の外へ出ていった。そのまま薄暗い通路を通り急な階段を上って、甲板への扉を開ける。何故だか外の風景がぼやけて見えた。重い目を擦りもう一度目を凝らしたのだが、やはり目の前は真っ白だ。何やら海上で濃い霧が発生しているようだ。
誰かいないものかと捜してみると、船首近くに何者かの存在がぼやけて見えた。足元に気をつけ近づいていく修馬。霧の中から薄らと現れたのは、隊長のアーシャ・サネッティだった。
「おはよう」
声をかけると、霞み越しのアーシャが腕を組んだまま振り返った。
「ああシューマか、おはよう。昨日は遅くまで飲んでいたのに、随分早いな。気分は悪くないか」
修馬は辺りを見回してから、小さく頷いた。
「この天気程は悪くない」
それを聞いたアーシャは、にやりと笑みを浮かべる。
「確かに天気は悪い。だが、霧ならもうすぐ晴れるさ」
「……何でわかるの?」
「元々この辺りは、朝方霧が発生する場所なのさ。それを抜けたらいよいよ、ユーレマイス共和国の首都ウィルセントに到着する」
船は濃霧の中をゆっくりと進んでいく。海が凪いでいるため、雲の中を飛んでいるような気分だ。
そしてアーシャの言葉通り、霧は徐々に薄くなっていく。やがて晴れてきた視界からは、小さな湾状の島影が見えてきた。防波堤のように突き出た2本の細い半島の奥に、大きく栄えた港町がある。あれが千年都市と謳われるウィルセントの街のようだ。
だがリーナ・サネッティ号はその湾の中には入らずに、半島の手前をそのまま通り過ぎていった。
「港は湾の中にあるんじゃないの?」
修馬が聞くと、アーシャは半島の端に見える港町に視線を向けた。
「先日の、セントルルージュ号沈没の一件。あたしたちは、あれの濡れ衣を着せられているからな。セントルルージュ号は共和国の船会社が所有する船。証拠がないとはいえ、この船をウィルセントの港に停泊するのは、あまり賢い選択とは言えないだろう」
修馬自身も始めは疑っていたことだが、世間的にも客船セントルルージュ号の沈没は虹の反乱軍の仕業ということになっているらしい。
「やっていないのに、こそこそしなくちゃいけないのは癪に触るな。証拠だってないんだから、堂々としてればいいのに」
「証拠はないが、証言があるのさ。帝国政府の役人による一方的な証言だがな。全くもって忌々しい奴らだよ」
無実の罪を負わせたのも帝国なら、その証言をしたのも帝国。これでは、罪から逃れることが難しいということか。
「それじゃあ、どうするの?」
修馬が尋ねると、アーシャは風が吹いてくる西の方角に目を向けた。
「ここから少しいった所に、漁船用の小さな港がある。そこなら今でも停泊が可能なはずだ」
「そうなんだ。けどもしも捕まったらどうするの?」
「その時は、その時さ。だが幸いなことに、共和国と帝国がそれほど良好な関係でないという事実もある。共和国は恐らく、帝国側の言い分を鵜呑みにしてはいないだろう」
「ふーん」
腕を組み、思いを巡らす修馬。共和国側が帝国の証言を信じていないのなら、それこそ堂々と大きな港に泊めれば良いような気がするが、このリーナ・サネッティ号はそもそも反乱軍の船。反社会的勢力のこの船は、そもそも大手を振って港を利用することが出来ないのかもしれない。
「それにしても、帝国と共和国は仲が良くないんだ」
何となく気になり修馬が質問すると、アーシャは失望したように顔色を曇らせ「何だ、そんなことも知らないのか?」とため息をついた。だが、こればっかりは仕方がない。
まだ異世界歴の浅い修馬に、アーシャは世界情勢を教えてくれた。掻い摘んで説明すると、こういうことらしい。
元々超大国であったユーレマイス共和国は世界に対し大きな影響力を持っていたのだが、それに対抗するべくグローディウス帝国が周辺諸国を次々に支配していき、軍事的にも経済的にも引けを取らない程の国家をここ数十年で造り出した。
表面上は帝国のことを静観している共和国だが、一方の帝国は、共和国の占領統治も企てているのではないかというのが、世間で一般的な見解だそうだ。
「アーシャたちの国も、帝国に支配された国の1つ何だっけ?」
「……ああ、そうだ」
アーシャはゆっくりと帆柱を見上げた。手すりの一部が壊れている見張り台の上には、今日もマール・アンジェロが立っている。先日の話では、彼の両親は帝国政府に殺されたと言っていたし、この船の名前にもなったアーシャの祖母、リーナ・サネッティも、帝国軍の攻撃で命を落としたと、昨日の夜聞いていた。
「けど、セントルルージュ号の沈没が反乱軍じゃなくて実は帝国政府の仕業だとばれたら、流石に共和国も静観してる場合じゃなくなるよね?」
「まあそうかもしれない。船はまた造ればいいが、人命はそうはいかない。……だが共和国にとって一番問題なのは、星の鼓動が船と共に沈んでしまったことだろう。あれは『ユーレマイスの至宝』とも言われていて、値段をつけることが出来ない唯一無二の物だからな」
「またあの魔玉石か……。あれは人の命よりも大事なのか?」
「無論だ。あの石の持つ大いなる魔力のせいで、世界はこの先天変地異に見舞われるだろう。最早2つの超国家の間で、戦争は避けられない事態だ」
アーシャがそう言って口を閉じると、進行方向の左手に岩山に挟まれた入り江が見えてきた。船はゆっくりとした速度でその中に入っていく。
「この先が目的の漁港だ」
真っすぐに入り江を進んでいくと、奥の海岸に舟屋のような建物が幾つも建っていた。漁師たちの集落のようだ。
帆を閉じたリーナ・サネッティ号が、朽ちかけた木製の桟橋の横に停泊すると、素早く船から下りた船員たちが桟橋の杭に縄を結んで船が移動しないように固定した。手慣れたものだ。
後に続いて、修馬も掛けられた縄梯子を使って、桟橋の上に降り立つ。久々の陸地だが、まだ体が揺れている気分がする。
ベックたち船員たちは、慌ただしく船の積み荷や樽を下ろし、近くの大きな建物に運んでいる。食糧や水を補給しているとのことだ。修馬もそれを手伝うべく樽を担いで建物へ行き、中の水を綺麗なものに移し替えた。
これらの作業を素早く終わらせると、皆、次々と船の上に乗り込んでいった。すぐに出航するようだ。
「シューマ、ここでお別れだな」
最後に握手を交わす修馬とアーシャ。妙な出会いだったが、彼女たちには本当に世話になった。
「この漁村から南に山を一つ越えれば、千年都市ウィルセントに辿り着く。街の目抜き通りの十字路の角にある『星屑堂』、そこに大魔導師の弟子、アイル・ラッフルズがいるはずだ」
そう言って、山の奥を指差すアーシャ。先程海から見えていた街だ。そう遠くはないだろう。
「ありがとう、何から何まで」
頭を下げると、アーシャは首を横に振り、垂れさがる縄梯子に掴みかかった。
「何、礼を言われるまでもないさ」
再び帆を張ったリーナ・サネッティ号が、ゆっくりと動きだし桟橋から離れた。
「あたしたちはこのまま北に向かう。ベルクルスという国に向かう予定だ」
船上に辿り着いたアーシャがそう声を上げる。それに対し、修馬は頭を下げ大きく手を振った。
「皆さん、お気をつけて。旅の無事を祈る!」
船上のアーシャは笑みを湛えたまま、右の拳を高く突き上げた。
「シューマ、お前とあたしたちは同志だ。共に帝国と戦おう!」
風を受け海面を進む、リーナ・サネッティ号。修馬はその姿が見えなくなるまで、港の先端に佇んでいた。