第6話 ミステリアスガール
本日の終業式が終われば、いよいよ明日から夏休み。無駄に高まるわくわくした気持ちが教室中に伝わっていき、ひと月振りに登校した修馬のことなど、気にする者は誰もいない様子だった。
山、川、花火。バーベキューに夏祭り。海水浴をしに新潟の沿岸部まで行ってもいい。夏のイベントが大好物のイケてるグループは、どこに行くかで大いに盛り上がっている。くそ暑い中、ご苦労なことだ。
そんな中、伊集院は「フェス行かね?」とか言っていたが、残念ながら誰からの賛同も得られていなかった。あいつはきっと、背伸びしすぎなんだと思う。
いやがおうにも聞こえてくるイケてるグループのうっとおしい会話を聞き流しながら、窓際席の修馬は何気なく外の景色を眺めた。校舎の形状がL字型をしているため、直角に曲がった反対側の校舎が校庭を挟んで見ることができる。
「あれ?」
思わず声がでた修馬の視点は、そこで固定され動かすことができなくなった。それが何故かと問われれば、視線の先の屋上に1人の女が佇んでいたからだ。あれは登校時にも目にしたポニーテールの女。
制服姿のその女生徒は基本空を眺めているようだったが、時々風で乱れた前髪を手で直したりもしている。はっきりと目に映っていることから生身の人間で間違いないと思われるのだが、どこか一般的な高校生にはない浮世離れした空気感も醸し出しているように見える。
さて、彼女はもうすぐ朝礼が始まるというこの時間に、一体屋上で何をしているのだろうか? 視線を外すと消えてしまいそうだったのでしばらく見つめていたのだが、彼女はフェンスにもたれかかったままいつまでも空を眺めていた。
「どうかしたの?」
不意の呼び掛けが横から聞こえ、どきっとした修馬は目を思いっきり泳がせながら右に目を向けた。
声を掛けてきたのは隣の席の守屋珠緒というおかっぱの女。彼女は取り乱している修馬を見て大変申し訳なさそうな顔を浮かべている。修馬は自分のおかしな挙動を反省しつつ、そっと窓の外を指差した。
「今、屋上に変な女が立って……」
だがそう言った時には、もうすでに屋上からポニーテールの女が消えてしまっていた。
守屋はあからさまに表情をしかめる。屋上から女が飛び降りるという事件があったばかりなのにそんなことを言えば、さすがに皆難しい顔になるだろう。
「まさか。気のせいじゃない? だってあの事件以来、屋上は閉鎖されてるはずだよ」
「閉鎖? ……だよね」
まあ、言われてみれば当然の措置だ。では、あの女は一体どうやって屋上に侵入したのだろうか? 何故かはわからないが、修馬はあのポニーテールの女のことが気になって仕方がなかった。
どうしよう? もうすぐ朝礼が始まる時間だが、屋上の扉が開いているか確認しに行ってみようか? もしも本当に閉鎖されているならば、さっきのポニーテールの女が幽霊である恐れが出てくる。
そんなことを考えていると、教室の前の引き戸がガラリと開いた。朝礼のチャイムはまだ鳴っていなかったが、前乗りで先生がやって来てしまったのだ。
「はい、皆、おはようっ!!」
「おはようございます」
まばらな挨拶が教室に響く。教卓の前にやってきたのは、このクラスの担任、望月さやかではなかった。「お前の底力を見せてみろ!」が口癖の熱血学年主任、大河内博信その人だった。
「何だ、元気ないな。お前らの底力を見せてみろっ!」
そう言って教卓を叩く大河内。早速でた。というか、これを言わせるがためにわざと一致団結して小さな声で挨拶しているというところもある。
その後、小学1年生のような大きな「おはようございますっ!!」が聞こえると、大河内は満足そうに何度も頷いた。最早ここまでがセットのネタである。ちなみに余談だが、この学校の校長はアリストテレスの名言を日頃からよく口にしている。先輩たち曰く、スローガン好きの校風なのだそうだ。
「先生、望月先生は今日も休みですか?」
イケてるグループのリーダーが手を上げて質問すると、大河内は眉を八の字にして大袈裟に申し訳なさをアピールした。
「そうなんだよ、御免なぁ。望月先生、今日も警察署に呼ばれちゃってさぁ。そんで俺も終業式の準備で忙しいから、申し訳ないけど今日は朝礼なしね。終礼はくるから。うん、うん、うん。あっ、委員長、悪いけど9時になったら式が始まるから、それまでに第1体育館に移動させてね。うん、うん。よろしく。はい、よろしくー!」
そう一気にまくし立てると、大河内は前の引き戸から教室を出ていった。嵐のように去っていく教師。
「えー、何だよ。モッチー、今日も休みかよ!」
教室の中心で誰かが言った。続けて「だったら、もう帰ろうかなぁ」などと言っている奴もいる。男子における望月先生の人気は、相変わらず絶大だ。
そんな中、修馬は屋上に行くには今しかないと思い席を立ちあがった。引いた椅子が大きく音を立てたせいで、全員の視線がこちらに集まってしまったが特に気にせずに教室を出ていく。
しかし廊下を歩いていく途中で修馬は気付いた。あのタイミングで教室を出ていったら、本気で望月先生が来ないから帰ってしまったのではないかと思われてしまうことに。
だが今更、ざわついている教室に戻ることはできない。修馬はそのまま廊下を歩き階段に辿り着くと、小走りでステップを駆け上がった。
屋上に続く階段室に辿り着くと、外された南京錠が扉にぶら下がっているのを確認した。やはり何者かが扉を開放しているようだ。
ドアノブに手をかけ、極力静かに扉を開ける。だがこちらの思いとは裏腹に、蝶つがいがギーッという重い金属音を鳴らしまくった。全くもって空気の読めないボロ扉だ。
気を取り直し、屋上に歩み出る修馬。するとフェンス際に立つ、1人の女が目に映った。黒縁眼鏡を掛けたポニーテールの女。勿論それは、先程見た女生徒に違いなかった。
しかし彼女が居たのは良かったのだが、一体何を話せばいいのだろう? 扉が大きな音を立てたため、女生徒も始めはこちらを見ていたのだが、しばらくすると視線を外し周りを囲うフェンスにもたれかかった。
「屋上の鍵、開けたのって君?」
修馬は問いかける。だが、女生徒は聞いているのかいないのか、斜め上を見つめながらどす黒い雲を指差した。
「見て。龍が蠢いているみたい……」
「りゅ、龍?」
合わせて空を見上げると、校舎の上空に太い帯状の暗雲がとぐろを巻くように渦を描いていた。何とも禍々しい夏の雲行き。
「一雨降りそうな天気だね」
「雨?」
女生徒は少し小馬鹿にするような高い声でそう言うと、再びこちらに視線を向けた。
「はじめましてじゃないみたい。どこかで会ってる?」
女生徒が言ってくる思いがけない言葉。眼鏡の奥に佇む彼女の瞳を見ていたら、修馬は魂を掴まれてしまったかのような感覚に陥った。動揺しながらも、必死で己の記憶を巻き戻す修馬。だがまるで心当たりはない。
「お、俺、2年の広瀬だけど、あんたの名前は?」
「広瀬くん。ああ」
女生徒はこちらの質問には答えず自分だけ納得する。何かを思い出したような反応。
「ごめん。俺、覚えてないや。誰だっけ?」
忘れていて申し訳ない気持ちと、相手側だけがこちらを理解しているという気持ち悪さを抱え、そう尋ねたのだが、女生徒はうっすらと淡く微笑み、眼鏡のブリッジを手で押さえた。
「私は2週間前にこの学校に転校してきた、2年の鈴木友梨那。よろしくね広瀬修馬くん」
「……転校生?」
終業式の2週間前に転校という不自然さも気になるが、それより何より修馬は家に引きこもっていたため、ここひと月、学校に登校していなかったのだ。どこで会ったというのだろう?
屋上に吹く風が、次第に強くなってきた。前に立つ女生徒のポニーテールがひらひらと揺れ動く。
やはりこの女、何かが変だ。実体ははっきりしているので幽霊の類ではないのだろうが、現実の人間とも思い難い。
「ところであなた、肩に何を乗せてるの?」
いきなり女生徒が言ってくる。何も考えずに振り返ると、己の右肩にソフトボールくらいの黒い塊が乗っていることに気付いた。
「うわっ! 何だ、この黒いのっ!?」
修馬はびくりと肩を動かすが、その黒い塊はそこを動かず、まるで呼吸でもするかのように膨らんだり縮んだりしている。
「見たことない魔物だけど……」
目の前の女生徒が妙なことを言う。魔物など普通見たことないものだろう。それこそ夢の中以外では。
とりあえずどうすればいいのかわからない修馬は、首を左に曲げその黒い塊の様子を窺っている。手で払い除けてしまいたいが、素手で触れてしまうのははっきり言って嫌だ。
そんな時、女生徒は更にいかれたことを言ってきた。
「ちょっと、触ってみてもいい?」
「う、嘘でしょっ!?」
そう思ったが、彼女の想いは本物だった。白く細い手がゆっくりと肩に近づいてくる。そして微かに指先が触れた瞬間、その黒い塊に2つの目と横に細長い口が現れた。視線がぶつかる修馬と黒い塊。魔物はしっかりとこの世にいたのだ。
叫び声も出ない修馬。すると黒い塊は口を大きく開き、修馬の頭部に噛みつこうとしてきた。
「ぎゃあああああああああっ!!」
そこでようやく出てきた叫び声。意識が暗転した修馬は、屋上に来てしまった己の好奇心を呪いつつ、その場に卒倒してしまった。
―――第3章に続く。