第59話 戸隠神社
その日、現実世界で朝早く目覚めた修馬は、路線バスに乗り戸隠神社に向かっていた。
五色のストライプがデザインされているそのバスは、朝の早い時間帯にも関わらず比較的混雑していた。皆、戸隠神社の参拝客のようだ。年配の乗客が多い中、若い女性の姿も何人か確認できる。タケミナカタは人々の信仰心の低下を嘆いていたが、信仰心はともかく神社にお参りする人口は今でも少なくはないようだ。
バスは緑の濃い山道を、ただひたすらと登っていく。
俺が戸隠に行くのは一体いつ振りだろう? 恐らく小学校の遠足以来かもしれない。あの時のことは少し覚えている。俺はもう高学年だったが、恥ずかしながら山歩きの途中で迷子になってしまったのだ。
見つかった時は心配されたが、後で皆に散々馬鹿にされてしまったので、個人的には思い出したくない忌まわしき過去だ。
自己分析では石橋を叩いて渡るような性格だと思っていたのだが、何故あの時は1人で山の奥地に入っていってしまったのだろう?
薄らと記憶の中に残る暗い森の中の景色が、異世界で体験した海水に呑み込まれた時の記憶と重なり、何だか息が苦しくなる。
耳の奥に響く水が流れる音と、遠くからおぼろげに聞こえるピアノの音色。船内の舞踏場を呑みこむ程の海水で体の自由が利かなくなり、俺はそのまま意識を失ってしまったのだ。
あの時俺は、沈みゆく船の中で溺死してしまったのだろう。だが悪い夢から我に返るかのように、俺はこちらの世界ではっきりと目を覚ました。
現実ではなくて良かったが、異世界の出来事は夢の話ではない。まだ向こうでやり残したことがあったのだが、もうゲームオーバーなのだろうか? 異世界での死が、こちらの世界では何の影響も反映されないのだろうか?
そして体を起こした俺は、自分の頬を抓ったり、テレビを点けてみたりして、ここが現実であるというリアリティを確認しながら、ベッドの上でこれからのことに思いを巡らせていた。
とりあえず、友梨那に会わなくてはいけないのだが、彼女は今どこにいるのだろう? 昨日一悶着あったばかりの学校にはさすがにいないだろうが、そこ以外となるとどこにいるのかさっぱり見当がつかない。
他に友梨那の居場所、もしくは友梨那の家を知っている人物……。そこで思い浮かんだのは守屋の顔だった。
彼女の家は元々神職の家系で、一昨日学校からの帰り道、最近出るようになった魔物や、降臨してきたタケミナカタのことを調べるために父の実家がある戸隠に行くと言っていた。
戸隠に行けば守屋に会えるし、身の回りで起きている異変についても調べることが出来るかもしれない。そう考えると居ても立ってもいられなくなる。
そんなわけで今俺は、この混雑する路線バスに乗車し戸隠に向かっているのだ。
そうして曲がりくねった道を通り過ぎると、1時間を少し過ぎたところで目的地である戸隠中社のバス停に到着した。
ちなみに戸隠神社とは戸隠山の周辺にある宝光社、火之御子社、中社、奥社、九頭龍社、の5社からなる神社の総称でもあり、現在降り立った中社がその中でも最も大きな社殿を持つ中心的な所だ。
しかし勢いでここまで来てはみたものの、よく考えると戸隠神社は相当に範囲が広い。うまく、守屋と会うことが出来ればいいのだが……。
木製の大きな鳥居を潜り、木々に挟まれた石段を見上げる。出掛ける時は晴れていたのだが、今はどす黒い雲が空を覆っている。山の天気は変わりやすいようだ。
傘を持ってくればよかったと後悔しつつ、木陰に覆われた石段を歩いていく。折角だからお参りでもしていこうと急勾配な階段を上る修馬。そして対になった狛犬の間を通り抜けると、突然そこから空気感が変わった。
夏なのに凛と引き締まる独特の雰囲気。身震いした修馬は、背筋を伸ばし前を真っすぐに見据えた。正面には寡黙な紳士を思わせる社が、濃い緑の森を背に鎮座している。
幼い頃に来た時と今とでは、まるで別な所に来たかのように違う印象が感じられる。自分も少しは大人になったということかもしれない。
修馬は賽銭でも入れようと財布の中を探っていると、不意に横から「気持ちで充分だからな」という声が聞こえていた。
「おおっ、タケミナカタか。びっくりするから、急に人型で出てくんなよ」
横にはヒッピーバンドを頭に巻いた人型のタケミナカタがいた。背丈が無駄に大きいから、急に視界に入ってくると驚いてしまう。
「ここは神域。力の溢れる場所ではあるが、良くない気も流れておるな」
「良くない気……」
修馬とタケミナカタの視線がぶつかる。するとタケミナカタは目を細め、そして灰色の雲に覆われている空を見上げた。
「どうやら、ひと雨降りそうじゃな」
「これから人捜ししようって言うのに、幸先悪いこと言うなよ」
小銭を賽銭箱の中に投げ入れ、二度柏手を打つ。神様に敢えて聞く。横にいるパーマヘアの男は本当に神なのですか?
社の奥に向かって頭を下げそして振り返ると、突然空から大粒の雨が落ちてきた。
「あーあ、タケミナカタが余計なこと言うから、本当に降ってきたじゃないか」
屋根の下に隠れつつ、空模様を窺う修馬。どす黒い雲が空一面に垂れ込んでいる。
「まるで、儂のせいで雨が降ってきたかのような言い草じゃな。雨が降らなければ、草木が潤ぬというのに……」
「いや、潤うとかいうレベルじゃないだろ……」
本殿の屋根に雨粒が叩きつける。
その雨は一気に降り方を強め、スコールのような土砂降りが敷地の玉石を揺らすほどに振ってきた。
「通り雨だといいけどな。少し様子を見るか……」
仕方なくそこで雨宿りし、霞む景色を暫し眺める。参拝客たちはすっかりどこかに行ってしまい、視界の届く範囲にはタケミナカタしかいなくなってしまった。
「何やら、生臭いな……」
タケミナカタは言う。確かに湿った土や植物の匂いが辺りに漂っている。雨の降り始めなどにする匂いだ。
しかしそんなことは特に気にもせずに、空から降る雨粒を呆然と見ていたのだが、その中にぼんやりと揺れる座布団のような物体が薄らと見えてきた。
「ほう。どうやらこの雨は、魔物の仕業だったようじゃな」
タケミナカタに言われ、何度も瞬きを繰り返す修馬。土砂降りの中仄かに現れたのは、巨大なエイの形をした半透明の化け物だった。