第5話 始まりの終業式
顔に違和感を覚え、俺は目を覚ました。頬に唾液が付着している。俗にいうよだれというやつだ。手を伸ばし枕の上にあるティッシュペーパーを2枚引き抜く。いつもの場所にあるティッシュ。汗で少しだけ湿ったシーツ。普段通りの部屋の景色。
奇妙な夢だったためか、目が覚めた今でもやけに鮮明に記憶が残っている。ヴィヴィアンティーヌ家が治めるアルフォンテ王国と、その隣国のグローディウス帝国。襲ってきた糸目の騎士の名は忘れてしまったものの、夢に出てきた固有名詞をここまではっきりと覚えていることも珍しい。昨日読んだネット小説に出てきた単語でもなかったはず。
ベッドから体を起こした修馬は、壁に掛けられたカレンダーに目を移した。7月24日。今日は確か終業式の日だ。気付けば俺は、1か月間も高校に行かず家の中に引きこもっていたらしい。
「今日はさすがに登校しないとまずいよな」
ボソボソと独り言を呟きながらベッドを降りる。暑さと眠気で気だるい体をほぐすため、軽くストレッチをした。両腕を上に伸ばした後、今度は逆に前屈をする。元々体は柔らかい方なので手のひらがぴったりとフローリングに貼りついた。
しかし変な夢だったなぁ。
改めて修馬は思い出してみる。敵と戦おうと思った直後、突然手の中に現れる水の剣。そういえば金髪の女戦士に襲われた時も、気付けば手の中に大きな剣が握られていた。
今一度、両腕を大きく上に伸ばした修馬は、突然何かに取り憑かれたように目を大きく見開いた。
「出でよ! エクスカリバーッ!!」
修馬のその掛け声と共に、部屋の扉がガラリと開く。驚いて視線を向けると、同じように目を見開いた母親がそこに立っていた。
「何、急に大きな声出して?」
至極もっともな母の言葉。彼女は憐れんだ目つきでこちらの顔を眺めている。
「そっちこそ急に何だよ! 入る時はノックしろって言ってるだろっ!!」
こちらも正論で抗議するが、言えば言うほどみじめな気持ちになってしまうのは何故だろう?
母親はそんな気持ちを察したのか、話題を変えるように窓の外を指差した。
「今日は学校に行くの? 祐くんが迎えに来てるわよ」
「えっ、祐!?」
意外な名前を聞き眉を上げる修馬。それは幼稚園から一緒の幼馴染の名前だったが、中学以降は一緒にいるグループも変わってしまってそいつとはほぼ交流はしていなかった。
にわかに信じられない気持ちで窓に歩み寄り、外に目を向ける。修馬の部屋は2階にありその窓から玄関が見えるのだが、門から玄関までの短いアプローチに、やたらと毛先を遊ばせた開襟シャツの男が立っていた。あの鼻につく感じは間違いようがない。幼馴染の伊集院祐だ。
茶髪の前髪をいじり首を少し上げた伊集院はこちらに気付くと、左の目尻を指で挟むようなピースサインを作りこちらに合図を送ってきた。彼にとっては挨拶のつもりだろうが、こっちにしてみれば何かの冗談にしか見えない。
窓を開け放った修馬は、表に首を出して声を上げた。
「お前、何してんだよっ!?」
しかし伊集院は、返事をせずに黒いリストバンドを付けた左手首をトントンと指で叩いた。何を伝えたいのかわからなかったが、どうも早く出てこいと言っているらしい。
「暑いのに、ごめんね祐くん。すぐに準備させるから!」
修馬の後ろから顔を出した母親が大きく声を上げる。おい、勝手に約束するな。
仕方なく急いで制服に着替えた修馬は、寝癖も直さずにそのまま玄関を出た。家の前にはクチャクチャと口の中で音を立てている伊集院がいる。
何故こいつはここにいるのだろう? まあ、担任の望月先生に学校に連れてこいとか何とか言われて、仕方なく来たのだろうが、何だかにやにやしていて気持ち悪い。そもそも小学校の時は俺と同じイケてないグループに所属してくせに、中学デビューでイケてるグループ入りしてるっていうのが更に気持ち悪い。何だよ、そのごついウォレットチェーンは? お前の空っぽの財布なんて誰も盗まねえんだよ!
「よう、シューマイ!」
「シューマイ言うな。修馬だ」
伊集院の挨拶にそう突っ込むと、それと同時に修馬のお腹がグーと音を立てた。食べ物の名前を聞いただけで反応してしまう健康的な胃袋が、今はただ怨めしい。
「何だ、腹減ってんのか?」
門を出て歩きだした伊集院は、粒状のガムを1つ渡してきた。素直にそれを受け取った修馬は、包装紙を剥がし口の中に頬り込んだ。
「俺は朝飯をしっかり食べるタイプなんだよ」
「ああ、そう言えばシューマイのかあちゃんは料理が上手かったな」
伊集院はガムを噛んでいる状態で、更に追加でもう1つガムを口の中に入れた。こいつは授業中だろうが何だろうが、いつでもガムを噛んでいるクチャクチャ糞野郎なのだ。鍛えられた噛む力は、今やカバをも凌ぐものに成長しているかもしれない。
「そんな旨いか? 焼き魚とかきんぴらとか、そんな感じだぞ」
「それがいいんじゃん。俺んちは、毎朝菓子パンだからな。正直、シューマイんちが羨ましいよ」
伊集院は相変わらず小学校の頃の呼び名で呼んでくる。だが修馬は少し気恥ずかしいため、下の名前で呼ぶことなどできなかった。
「伊集院ちはパンか。いいじゃん。俺はパンも好きだよ」
修馬は夢の中で食べたサンドイッチを思い出す。リアルに食べたわけではないのに、胃の奥でその味がはっきりと再現された。再び鳴る修馬のお腹。育ち盛りの胃袋は、ガム程度で誤魔化せるはずもない。
「菓子パンも旨いけど、飽きんだよなぁ」
伊集院はそう言って、鞄を持ったまま頭の後ろで両手を組んだ。左手首に付けられた黒いリストバンドが修馬の目に映る。
「何その、リストバンド? 流行ってんの?」
そう聞くと伊集院は、何か考えるような顔をして組んでいた手を外し、そして己の左手を見た。
「いや、これはそんなんじゃねぇよ。あー、それよりもシューマイんちの玉子焼きが食いてぇなー」
大きな声でそう呟く伊集院。こいつもしかして、本当に俺んちの飯が食いたくて家まで来たのだろうか?
「お前、望月先生に言われて俺んち来たんじゃねぇの?」
「あ? 当たり前だろ。モッチーも色々大変だから、この俺がわざわざ出張って来たわけよ」
伊集院は得意気に笑みを浮かべたが、何故かすぐに真顔に戻った。
「そういえば、知ってるか? この間学校で女が飛び降り自殺したんだ」
「はぁ、自殺!? 嘘だろ?」
「いや、マジだから」
間髪いれず本当だと主張する伊集院。そもそも、そんな嘘をついてもしょうがないので、これは本当のことなのだろう。
しかし狭い町だ。報道規制があったとしても、そんな事件があればすぐに話が広がりそうなものだが、学校で自殺なんて話は親からも聞かされていない。それとも敢えて言わなかったのだろうか?
「まあ、自殺っつっても未遂で済んだみたいだけどな」
伊集院は空を見つめながらそう言った。上空は厚い雨雲で覆われてしまっている。天気は悪いが、蒸し蒸しとして体感気温は非常に高い。
「未遂か。てことは、死んではいないのか?」
「さあ、死んだのかな? それとも死んでないのかな?」
曖昧に返事を濁す伊集院。何故彼はそれがわからないのだろう?
「おい、ふざけんなよ。わかんないって何だよ!」
少し突っかかると、伊集院はめんどくさそうに顔を歪めた。
「しょうがねぇだろ。不可解な事件が起きたんだ」
「不可解?」
「これは噂で聞いただけだから、本当かどうかわからないけど……」
そう前置きして伊集院は話し出した。どうもその飛び降り自殺した女は意識不明の重体だったのだが、その翌日に搬送された病院から姿を消してしまったらしい。
これは事件だ。学校で自殺する女と、謎の神隠しがセットになっているという、学園サスペンスミステリー。しかもその女は、どうもうちの高校の生徒ではないらしい。中高校生くらいの若い女だったが、県内に該当する人物は今のところ見つかっていないということだ。
平和な地方都市は今、かつてない混乱が巻き起こっている。と言っても過言ではなさそうなのだが、初夏の通学路にはスカート丈の短い女生徒たちが、いつものように談笑しながら学校に向けて歩いている。普段通りの、のどかな風景。
「そんな事件が起きてんのに、学校閉鎖とかになってないのか?」
修馬が小声で聞いたが、伊集院はどこか怒ったように大きく声を上げた。
「なってねぇよ。飛び降りた女の第一発見者はモッチーなんだけど、今ではモッチーが幻覚でも見てたんじゃないかって言われてんだよ。まあ、その説が正しいとすると、救急隊員も医者も看護師も同じ幻覚を見てたってことになるけどな」
それは集団催眠という状態だろうか? こっくりさんを行う人が、動きだす10円玉を見て霊が来たのだと思い込み、全員が催眠に落ちていく。それと同じようなことがもっと大規模で起き、皆が自殺した人がいると信じてしまう。さすがにそれはありえないように思える。
「それで望月先生は大変なのか……」
そんなことを呟きながら、修馬は担任の女教師、望月さやかのことを思い出す。絹のように光沢のあるつるんとした肌、キューティクルの整った長い髪、ぷっくりとした唇、そして教師とは思えない程の極度のドジっ子属性。
「そうそう。今も警察とかに呼ばれて大変なんだよ。あんまモッチーに迷惑掛けんじゃねぇぞ」
そう言ってくる伊集院の顔が、何故だか少し赤い。こいつ、もしかすると望月先生のこと好きなのかもしれないな。
「望月先生って、痩せてるくせにおっぱいでかいよな」
「お前、マジでクソだなっ! モッチーのこと、どういう目線で見てんだよっ!!」
食い気味にキレる伊集院。彼はその後、一切喋らなくなってしまった。よっぽど望月先生のことが好きなのだなと、今更ながらに理解する修馬。少しだけ反省。
家から歩いておおよそ10分。狭い生活道路を真っすぐに進んでいくと、ようやく我々が通っている学校の正門に突き当たった。
長野県信濃吉田高等学校。植えられた木のせいで隠れてしまっているが、正門の門柱にはそう彫られた名板が掲げられている。
「よし、これでお役御免。あとは勝手に教室でも保健室でも好きなとこに行ってくれ!」
正門を通り抜けると、伊集院は清々しい顔でそう宣言した。彼の仕事は、ここで終了のようだ。まあ、俺と一緒に教室に入っていったら、いつも一緒にいるイケてるグループのメンバーに絶対からかわれるだろうから仕方ない。伊集院のことなどどうでもいいが、そんなことでいじられてるのを見たらこっちも傷ついてしまう。
先にスタスタと歩いていく伊集院と距離を置くため、修馬は少し立ち止まり校舎を見上げた。屋上に1人佇んでいる眼鏡をかけたポニーテールの女生徒がその目に映る。
校舎の屋上に女?
すぐに自殺未遂の女のことを思い出した修馬は、背筋がぞっとして思わず目を反らした。こんな昼間に幽霊なんて出ないだろうが、まさか……。
再び屋上に目を向けると、そこにはもう誰もいなかった。
……解せない。これも集団催眠の効果なのだろうか?
修馬は上に視線を向けぬよううつ向きながら、そそくさと校舎の中に入っていった。