第32話 異界の人間
艶やかなブラウンの肌が印象的なその女。気だるそうな面持ちで首を回した彼女は、至極静かに溶けるような吐息を漏らした。
「素敵なところね、ここは」
そして彼女に対し怒りを露わにするハイン。
「おい、クリスタ。これは一体何のまねだ? 龍の渦は最後でいいと、御屋形様も言ってくれていただろっ!」
どうやら2人は知った仲のようだ。しかしハインが彼女のことを魔物には違いないと言っていたのはどういうことなのか?
「我らが主は心優しき御方。黒髪の巫女を取り逃がしてしまうという大きな失態を犯した愚か者にも慈悲の心を忘れないのですから」
「誰が愚か者だよ! 黒髪の巫女はすぐに見つけ出してやる。大体お前らこそ自分の任務は終わってるのかよ!」
クリスタは耳の上に髪をかき上げ、上に空いた大きな穴を遠く見つめた。
「『黄昏の世界の住人』ならすでにヴィンフリート・パシュレ・ゲイラーが捕獲しました。『無垢なる嬰児』が還るのは時間の問題ですよ」
「……黄昏の世界の住人? 無垢なる嬰児?」
聞き覚えのある言葉を聞き、修馬は体の中で何かがぐるぐると廻るような思いがした。そしてその呟きに反応したクリスタがこちらに目を向け口を開く。
「おや? これは一体、どういうこと……?」
その困惑しているかのような口ぶりに、ハインもまた疑問系の言葉を口にする。
「何がだよ?」
「何故、ここにも黄昏の住人がいるというのかしら?」
クリスタはそう言うと、地を滑るようにして近づき修馬の喉元を素早く押さえつけた。
「ぐっ!!」
苦しさに声が漏れる修馬。しかし風の如く速度で跳んできたハインが回し蹴りを放ち、押さえつけるクリスタの手をすぐに跳ね除けてくれた。
「黄昏の世界の住人? シューマが……?」
クリスタは不愉快そうに眉をひそめ、蹴られた己の手を見つめた。
「感じないの? この男の体には異界の神が宿っている」
「異界の神?」
今は姿を現していないが、どうやらタケミナカタの存在に気付いたようだ。この女は一体何者なのだろうか?
「儂のことを認識できるとは大した娘だ。褒めてやろう」
そう言うと、修馬の右肩からピンポン玉サイズのタケミナカタが出現した。不敵に笑う、小さな黒玉。
「あの黒いのが神? 小さすぎやしないか?」
ハインの言葉に素早く反応したタケミナカタは隼の如く速度で飛んでいき、そのままハインの腹部に特攻していった。「おぉうっ!!」という声が喉の奥から漏れる。余計なことを言ったため痛恨の一撃を喰らってしまうハイン。口は本当に災いの元だ。
「姿は小さくてもさすがは神ということですか……。ですがこちらも容赦はしません」
クリスタの褐色の肌に幾何学的な白い模様が浮かび上がり、背中から蝶のような翅が生え、頭部には触角のような長細い突起が2本、左右対称に生えてきた。このような人外への変化は、以前も目にしたことがある。サッシャが邪号という隠し名を呼ばれた時だ。
「お、お前、まさか天魔族かっ!?」
修馬の問いに、クリスタは冷たい視線を向け言葉を返した。
「勿論。私は天魔族、『四枷』の一角、クリスタ・コルベ・フィッシャーマンよ」
背中に掲げていた槍のような武器を手にしたクリスタは、殺気を露わにして攻撃を仕掛けてきた。修馬は反射的に召喚した王宮騎士団の剣で、彼女の攻撃を防ぐ。
「黄昏の世界の人間は意外と強いのですね。ヴィンフリートが捕らえた人間も意外な能力に驚かされました」
「その捕らえた人間って誰のことだっ!!」
力づくで槍を弾く修馬。クリスタは一度空を飛び、上空から修馬のことを見下した。
「誰のこと? そうか、あなたはあの男と顔見知りの可能性があるのですね」
「……男? そいつは男なのか?」
修馬は捕らえられた黄昏の世界の住人と聞いた時、それが友梨那のことなのではないかと思ったのだが、そうではないらしい。他にもこの異世界に迷い込んだ人間がいるというのか?
「しかし、奴と顔見知りだからといって、生かしておく道理など存在しない」
クリスタは指をパチッと鳴らす。するとそれを合図に、地面の中からコウモリのような形状をした土塊が2匹、這い出てきた。
「うわっ! 何だ、このキモいの!?」
追い払おうと必死に剣を振る修馬。しかしそのコウモリ型の土塊は意思があるように、こちらの攻撃をひらひらとかわしてみせた。
「むむ、小僧、気をつけた方がいい。こやつら、刺激を受けると爆発するようじゃぞ!」
いつの間にか肩の上に戻ったタケミナカタがそう言ってくる。
「爆発っ!?」
修馬の手が瞬時に止まった。しかし、ではどうするのが正解なのか? コウモリ型の土塊の目が赤く点滅している。この世に受けた短い時を、ゆっくりと刻むかのように。
「それは自動追尾型の時限爆弾。狙った獲物の周りを常に旋回し、10分の後、大きな爆発を起こす。風穴は崩壊し、私たちは生き埋めになるわね」
無感情な顔でそう語るクリスタ。全員生き埋めになってまで、何故俺を殺す必要があるのか?
「皆、生き埋めになっても、お前は助かるんだろ。クリスタ!」
己の腹を押さえ、大声を放つハイン。
「当然ね。私は地中の中でも移動することができる。けど、あなたが死んだら我らが主はとても悲しむでしょうね。ハイン」
「ふんっ、舐めんじゃねぇぞ。俺はお前には殺されねぇし、絶対にシューマも殺させない!」
ハインは大声でそう宣言すると、今度は修馬の耳元でそっと囁いた。
「シューマ、身内のごたごたに巻きこんで悪かったな。そのコウモリ共はクリスタから一定距離離れると全ての効果を失う。俺はこの白竜の間でクリスタの足止めをするから、お前はここから右方向にある横穴を真っすぐに駆け抜けろ。そこから外に出られるはずだ」
ハインはその横穴を指差し、そっとランタンを手渡してきた。
「けど、ハインは?」
「心配しなくても奴の力では俺に勝てない。とりあえずお前が無事逃げてくれれば、少なくとも生き埋めにはならずに済むはずだ」
ハインは言う。そうだ、確かに俺がこの自動追尾する爆弾を無効化することができれば、全員生き埋めという最悪の事態からは逃れることができる。修馬はタケミナカタの顔をちらりと見やる。彼は目を瞑り、小さな体で大きく頷いてみせた。やはりそれが最善なのか?
逃げることを選択した修馬。先にある横穴に向かってがむしゃらに地面を駆けた。でこぼこの地面に足がもつれたが、不格好になっても構わずに前へ前へと走る。
「逃げることを選択したのね。しかし爆発まで後8分。黄昏の住人とはいえ、所詮は人間の足。果たしてどこまで逃げられるというのかしら」
嘲笑うクリスタに、ハインは対抗するようににやりと笑みを浮かべた。
「クリスタ、相手の力を見極められないのがお前の敗因だ。見せてやれ、シューマ。お前の能力を!」
走りながらもハインの言葉の意味を考える修馬。そうか、俺の持つ能力を使えばいいのか……。
修馬は手にしているランタンの金具をベルトに引っかけた後、両方の手の中に涼風の双剣を出現させた。切っ先から吹き出す風と共に横穴に突入する修馬。
「あ、あれはハインの双剣!? 自分の武器を人間に渡すって、あなた正気なのっ!?」
再び槍を手にしたクリスタが、横穴に向かって地面を滑る。しかし一足飛びに跳んできたハインが己の持つ涼風の双剣でクリスタの槍を押さえつけ、その足を止めさせた。
「馬鹿め。たとえ誰であろうと、俺がこの武器をくれてやるわけがないだろ。あれはシューマの物だ」
「戯言を……。我々の武器はこの世にたった1つ。黄昏の世界の住人がそれを持っているはずが……。まさか、黄昏の住人だからこんな奇っ怪なことが……?」
常に冷静だったクリスタの声に、若干の焦りのようなものを感じる。
「ふふふ、走り抜けろシューマ! そこを出れば『カタミラ』の町に辿り着くっ!」
狭い穴の中を全力で走る修馬の後方から、ハインの自信に満ちた声が微かに聞こえてきた。