第237話 ありがとう
夜空に浮かぶ修馬の目に、無数に漂う光の粒が映りこんだ。
その光は粉々に砕かれた禍蛇の残骸。
禍蛇の体内に入り込んでいた修馬は、その体を木っ端微塵に粉砕し外に投げ出されていた。
俺、禍蛇を倒したんだよな?
皆を救うことができたんだよな?
スローモーションのように静かに流れる時の中、同様に宙を漂う伊集院の姿を発見した。
ゆっくりと高度を下げていく2人。自然と目が合うと、伊集院は力なく笑いそして眠るように瞼を閉じた。
その瞬間、魔法が解けたように重力が加わり、修馬と伊集院は空から勢いよく落下していく。
修馬には知る由もないが、今いる場所は高度500メートル。エンパイア・ステート・ビルディングが443.2メートルなので、それよりも高い高度である。
信じられない速度で落下していくのだが、何の抵抗もすることができないし、最早叫び声も出やしない。
禍蛇を討ち倒すことはできたが、流石にこの高さから落ちたのでは命はないだろう。
足掻くことを諦めた修馬は、重力に身を任せ手足の力を抜いた。伊集院と心中などしたくはないと思っていたのだが、結局こういう結果になってしまうらしい。
仰向けになっていた修馬の体が下方からの風を受け反転し、正面に地上が見えてきた。真下にある森の中心に小さな湖が見えてくる。
真っ暗な夜空を映すその湖は、鏡池だろうか?
しかし上手くあそこに落ちたとしても、この高さからでは死は免れないと思われる。万が一助かったとしても、状況はあまり変わらない。だって俺は、カナヅチなのだから……。
命の終わりを悟り、修馬はそのまま意識を飛ばした。いつもなら異世界に転送されるタイミングだが、それももうありはしない。
その後修馬は、長い、長い夢を見た。
異世界に行っている間、見ることのできなかったひと月分の夢を見たのではないだろうか?
ココがいる、マリアンナがいる、友理那がいる。ついでに伊集院もいる。
アーシャとベックは競うように酒を飲んでいるし、サッシャとハインは敵だというのに相変わらず優しい。
幸福なまどろみに酔いながら、仲間たちととりとめのない会話を楽しむ。
かけがえのない大切な時間に思えるが、それが夢だというのならばいずれ覚める時がやって来る。明けない夜などないように、覚めない夢もありはしないのだ。
そして修馬は、重く張り付いた瞼を時間をかけてゆっくりと開いた。
全身びちゃびちゃの状態で地面に寝かされている。そこは勿論、三途の川などではない。恐らくここは、鏡池の湖畔。どういうわけなのか修馬は、あの高さから落下したにも関わらず死なずに済んだのだ。
「め、め、め、目を覚ました! ひ、広瀬くんが目を覚ましたよ!!」
いつになく高いテンションで委員長が叫ぶ。
何で生きているのだろう?
状況がわからない修馬は、横になったまま首を捻る。
隣にいる委員長はひびの入った大きな御神鏡を大事に抱えているのだが、ふとその鏡面に目を向けると、映り込んだ修馬の背後に1人の男が寝転がっていることに気づいた。その男は死んだ魚のような目で、恨めしそうに鏡を睨みつけている。
「おわっっっ!?」
驚いて反対に寝返りを打つ修馬。
そこにいたのは、ずぶ濡れで横たわる伊集院。ただ彼は、辛うじて瞬きをしていた。死んでいるような目をしているだけで、実際に死んではいないようだ。
「くっくっくっ。生きてやがったな、修馬。この後たっぷりと礼を言って貰うからな……」
今にも死にそうな顔で、こちらに謝意を求める伊集院。何という業の深い人間なのだろうか。
すると委員長の声に反応したのか、他のクラスメイトもその場に集まってきた。イケてるグループの渡邉、佐藤、齋藤の3人だ。
「広瀬! 生きててくれて本当に良かった!」
「修馬くん、俺は君を信じてたよ!」
「よっ! 救世主!!」
思い思いの労いの言葉をかけてくる3人。
それを聞き、修馬もようやく禍蛇を討ち倒したという実感が湧いてきた。深い安堵と共に、激戦による疲労が重く体に圧し掛かってくる。
そしてその後も続々とクラスメイトたちが鏡池に集まってきた。
聞くところによると、担任の望月先生がこの付近に落ちていく修馬と伊集院の姿を目撃したのだそうだ。そこから連絡がいき、わざわざこんな山の中まで皆で駆けつけてくれているらしい。
満身創痍の体をどうにか起こすと、また一台のSUV車が近くの道路に停まった。
そこから降りてきたのは、守屋珠緒。彼女は遊歩道を駆けてくると、人目をはばからず修馬の首に思い切り抱き着いた。突然の出来事に身動きが取れない修馬。
周りのクラスメイトの「ひゅーっ」という囃し立てる声に反応すると、珠緒は慌てて腕を解き、顔を真っ赤にして手を横に振った。
違う違うと釈明しているが、正直何の弁明にもなっていない。
「そ、それよりも、ありがとう……。渡邉くんたちが、広瀬くんのこと助けてくれたの?」
珠緒が話を反らすようにそう問いかけると、渡邉は何かを思い出したかのように口をぼんやりと開いた。
「いや、助けたのは俺らじゃないよ。外国人風の男の人が伊集院と広瀬のこと湖の中から引きずり出してくれたんだ」
「外国人、ふう?」
「うん、そう。あれぇ、さっきまで近くに居たんだけどなぁ。銀髪で超イケメンの人なんだけど……」
きょろきょろと辺りを確認する渡邉たち。
だが修馬はその僅かな情報だけでも、彼らの言っている人物を特定することができた。それは恐らくサッシャだろう。修馬と伊集院は顔を見合わせ、小さく頷く。
もう彼は異世界に帰ってしまったのかと思っていたが、最後に自分たちのことを助けてくれたのだ。一言礼を言いたいが、この場に居ないということは、恐らくもう会うことはない気がする。
「あの銀髪の人って、広瀬の友達?」
首を傾げて問いかける渡邉。
聞かれた修馬は、一度夜空を見上げ小さく口角を上げた。
「そうだね。ちょっとややこしい知り合いなんだけど、大切な仲間だよ」
多くの仲間たちが自分たちを助けてくれた。
そしてクラスメイトの皆が自分たちを信じてくれた。
色々な人たちの沢山の想いを重ねてきたことで、この結果があるように思える。森羅万象、全ての物に感謝したい。今はただ、そんな気持ちだ。
そして更にもう一台、マイクロバスが近くの道路に停まった。
そこから降りてくるのは、二の星を守ってくれていた生徒たちだ。これでクラスメイトは、ほぼ全員揃ったであろう。
ガヤガヤとこちらに集まってくる生徒たち。
そんな中、女子生徒の肩を借りゆっくりと歩いてくる1人の女性がいた。
「友理那……」
小さく呼びかける修馬。
そこにいたのは疲労困憊な様子の友理那であった。彼女はこちらと目が合うと、少々強張った顔で笑みを浮かべる。
ようやく彼女との約束も果たすことができたようだ。そしてマリアンナとの約束も。
ほっとした修馬は、友理那がやってくるのをその場で見守る。しかし彼女はクラスメイトの輪の手前で立ち止まると、眉を八の字にして困ったような顔を浮かべた。
鏡池の湖畔に、しばしの静寂が流れる。
どこかもの言いたげな表情の友理那。修馬たちはそんな彼女が口を開くのを待っていたのだが、その時突然クラスメイト全員のスマートフォンからピロリンという通知音が鳴り出した。
一瞬驚きはしたものの、その場でスマートフォンを持っていなかった修馬は皆の様子を伺う。
すると真っ先に渡邉が「モッチーからだ!」と反応を示した。
望月先生からクラスメイトに対するグループメッセージが着たようなのだが、それを確認した生徒たちが一斉に「えーっ!!!」と大声を上げる。
妙な胸騒ぎがする修馬。
横にいる珠緒がスマートフォンを見せてくれたので画面を確認するとそこには、
もちづき(先生)『迷子になってしまいました。。。(>_<)』
という短い文章が送られていた。
極度のドジっ子属性を持った教師ではあるのだが、最後の最後まで何をしているんだあの人は!?
「やべーぞ、モッチー先生が遭難した! 皆で助けに行くぞ!!」
男子生徒たちを中心にそのような声が上がる。男子における望月先生の人気は、相変わらず絶大だ。
「い、いや、待って。ここは二次遭難の恐れもあるから、じ、地元の消防団の方に任せた方が……」
委員長がそう言って諫めるも、モッチーファンの男子たちは一歩も引かない。
「大丈夫! こんな行楽地で遭難するのはモッチーくらいだって。ほら、委員長も行くぞ!」
「ああ、やめて渡邉くん! 襟を引っ張らないで! ぼ、僕は委員長として、広瀬くんと伊集院くんのことが心配だから……」
「だから気を遣えって、言ってるんだよ!」
「気を遣う? ど、どういうこと? 意味がわからないっ!?」
結局渡邉たちに引きずられ、森の中に消えていく委員長。
他の生徒たちも皆、示し合わせたかのようにその場から離れていった。
残されたのは修馬と伊集院と、珠緒と友理那の4人。
精魂尽きた修馬と伊集院は、当然のようにそこから動けない。その場に立ち尽くしていた友理那は、珠緒に手を差し出されるとそれを握り、そして言葉を呟き始めた。
普段の声とは少し異なり、ボサノヴァでも歌うかのような囁く声で友理那は言の葉を紡ぐ。
それはとても耳心地の良い声なのだが、何故なのか彼女の発する言葉が全く理解することができなかった。友理那が口にしている言葉は日本語でも英語でもない、全く聞き覚えの無い言語だったからだ。
「わからない……。友理那が何を言っているのか、全然わからないよ」
修馬はそう言うのだが、こちらの言葉も彼女には伝わらない様子だ。その大きな垂れ目からは、薄っすらと涙が浮かんでくる。
思えば、異世界で修馬の言葉が通じたのは、守護してくれているタケミナカタが言語を同時に変換していたからだと言っていた。
ならば友理那がこちらの世界で言葉が通じるのは、彼女を守護するディバインが同じように言語を変換してくれているからではないだろうか?
しかし禍蛇を討ち倒したことで、龍神オミノスの化身であるディバインもこの世から消え去り、言語が通じなくなってしまっている。つまりはそういうことなのかもしれない。
「タケミナカタ! 友理那の言葉を翻訳してくれっ!」
もしかすると異世界での時のように、これが最後の別れになってしまうかもしれない。
嫌な予感がした修馬が己の背後に向かって強い口調で声を上げると、右肩辺りから突然、ハンドボールサイズの黒い塊としてタケミナカタが出現した。
「どれ、儂もそろそろ時間のようじゃ。お主たちとの旅は中々面白かったぞ」
続けて伊集院の左肩からも、白い塊としてオモイノカネが現れる。
「テケテケテケッ! お陰様で、良い戦いを観させていただきました。久しぶりの葦原中国でしたが、長居は無用。これにて御免!」
そう言うと彼らは躊躇なくそこから飛び上がり、夜空の彼方へと飛んで行ってしまった。
「う、嘘でしょっ!!」
結局何の解決もせずに、あっさりと去っていってしまった神様たち。
涙目を浮かべた友理那は、力なくこちらを見つめている。だがこうなってしまっては、修馬たちにもどうすることもできない。
やるせない気持ちを抱えたまま、時間だけがただ虚しく過ぎていってしまう。
こんな時に言葉が通じなくなるなんて。
伝えたいことがいっぱいあるというのに……。
「しゅーま……」
なす術がない友梨那は、ただただその名を呼んだ。
そうだ。異世界と現実世界で言語が変わったとしても、名前が変わることは当然ない。
そしてそれを聞いた修馬は、変わることのない伝達手段が、名前以外にもう一つだけ存在することに気づいた。
「友梨那、ありがとう!」
そう言って、お腹の辺りを手で円を描く修馬。
これはマリアンナから教わった、感謝の気持ちを伝える異世界でのハンドサイン。それを目の当たりにした友梨那の瞳からは、大粒の涙がほろほろと零れ落ちた。
「いじゅ、ありがとぉ。たまお、ありがとぉ。しゅーま、ありがとぉ」
この『ありがとう』という言葉の意味を察した友理那は、修馬の言葉を真似しつつ、つたない発音で何度も何度もそう呟いた。そんな彼女の表情は、涙を流しながらも晴れやかなものに変化していく。
友理那にとっても、伝えたい気持ちは山のようにあっただろう。
だけど彼女と俺たちは、今伝えることができる唯一のこの言葉に、自分たちの想いの全てを集約させたのだ。
「ありがとぉ! ありがとぉ!」
徐々に体の色が薄くなっていく友梨那。
そして彼女は虹色に輝く光の輪郭を残し、その場から幻影のように姿を消してしまった。
ありがとう、友梨那……。そして、さようなら。
―――終章に続く。