第236話 禍蛇
長いような、短いような。
楽しいような、辛いような。
そんな不思議な夢を見ていた。
詳しい内容はわからない。瞼が開いた瞬間、その記憶が泡のように弾けてしまったからだ。
目覚めた修馬の目の前には、クラスメイトたちの顔が並んでいる。皆、ほっとしたようにため息をついているが、いずれも表情は硬い。
「良かった、生きていてくれて……」
渡邉はそう言って一粒涙を零した。自分のために涙を流してくれるクラスメイトがいるなんて、ほんの一か月前までなら考えられないことだった。それだけでもありがたいことなのだが、それを喜んでいられるような状況でないことは理解している。
「渡邉くん、ここは……?」
横たわったままそう聞くと、渡邉はここが善光寺の境内であることを教えてくれた。そう。修馬たちは善光寺の上空で禍蛇に空から叩き落され、そして現在に至るのだ。
体のあちこちが痛むのを耐えつつ、修馬は体を起こす。
破壊されてしまった本堂、泣いているクラスメイト、赤く燃える長野の町、夜空に薄っすらと浮かぶ一筋の光。これは当然夢でない。目に映る景色は、紛れもない現実なのだ。
禍蛇との戦いはまだ終わっていない。
しかしここにきて、修馬の脳裏には禍蛇への恐怖心が蘇ってきていた。あの化け物と再び向き合わなければならないという恐怖に。
「おい修馬、何時まで寝てんだよ。すぐに反撃するぞ!」
そんな感情を無視するように横から大声でそう言ってきたのは、他でもない伊集院だ。この男も禍蛇に地面に叩き落されたはずなのに、気持ちが折れてはいないらしい。
だがサッシャはどうしただろう?
辺りを見回すもその姿は確認できない。彼のことなので死んではいないだろうが、どこかに消えてしまっているようだ。
「い、いや、伊集院くん。あんな化け物に勝てるはずないよ。結界だって、もう破壊されちゃった。ぼ、僕たちも広瀬くんを担いで、今すぐにここから逃げよう!」
委員長が声を震わせてそう主張する。
それに同調したクラスメイトたちも皆、口々に同じようなことを言ったが、伊集院はその提案をきっぱりと拒絶した。
「お前たちは長野から離れてくれて構わないが、俺と修馬は駄目だ。最後の最後まであの化け物と戦う!」
真剣な表情でそう語る伊集院。彼は完全に腹をくくっているようだ。
「今の広瀬に何ができるって言うんだよ。体がぶるぶる震えちまってるじゃねぇか! 大体、伊集院みたいに飛ぶこともできねぇんだろ? これはもう、一介の高校生にどうにかできる問題じゃない。後はもう自衛隊に任せて、ここから逃げよう!」
渡邉のその言葉を聞いたことで、修馬は己が震えてしまっていることに気づいた。魔王ギーとの戦いで恐怖心はだいぶ鍛えられたはずなのだが、それでも禍蛇と戦うことを想像すると、震えが止まらなくなる。
「うるせーっ!!! あの禍蛇を倒せんのは、自衛隊でもNATO軍でもねぇ! この世で広瀬修馬、ただ1人だけなんだよっ!!」
鬼気迫る表情で伊集院は叫んだ。
禍蛇を討伐するには、こちらの世界にある『天之羽々斬』と異世界にある『アグネアの槍』が必要になってくる。そしてその2つの武器を持つことができるのは、武器召喚術が使える修馬だけなのだ。それは他の誰にも代わることはできない。
伊集院の言葉に失ったクラスメイトたちが、誰かに助けを求めるように目を泳がせる。しかしこんな状況で助けてくれるものなどどこにもいやしない。
ただ何人かの生徒が崩れかけた本堂の方に目を向けると、そちらを見たまま何故か視線が固まった。それが気になったのか、他の生徒たちも皆次々に本堂の入り口に視線を動かす。
「大河内先生……」
屋根のひしゃげた本堂の中から、1人の男性が現れる。それは学年主任の大河内博信であった。
クラスメイトが見守る中、大河内はゆっくりとこちらに歩み寄り、そして地べたに座る修馬の傍らに立ち尽くした。
「皆、すまん。俺には何もわからない。今起きていることが現実なのかどうかも。……これが人道的に正しいのか? 教師として間違っていないか? まるで考えはまとまらないが、それでも俺はこの言葉を言わずにはいられないんだ……」
両膝を地面に着いた大河内は、修馬と視線を合わせるとその両肩を大きな手でぎゅっと握りしめた。
「広瀬修馬! お前の底力を見せてみろっ!!」
両肩を掴まれた修馬は、強く目を見開いた。俺にはまだ、底力が残っているのか?
己の手のひらを見つめる修馬。その手を握り、力を貸してくれたサッシャはもういない。果たして自分の力だけで本当に勝てるのか……?
シューマよ、己の持つ力を信じるのだ。
その時、修馬の耳に何者かの声が蘇った。それは天魔族の城で聞いた、魔王ギーの言葉。
そして彼はこうも言っていた。信じることは、きっとお前たちの力になると。
それは単なる言葉に過ぎないのだが、何故かその時、修馬の体から震えが綺麗に消え去った。
そして深く息をつき、返した手のひらをぎゅっと握りしめる。右の手首に描かれた赤い印が、微かに疼いた。それは以前ココが刻んでくれた神様との繋がりを厚くする刻印。
修馬の持つ自分の力とは、ココやタケミナカタ、そしてサッシャやハイン、伊織さんなどの皆が鍛えてくれ積み上げてきたものに違いないのだ。己の力とはいえ、1人の力ではない。
静かに立ち上がった修馬は、夜の空を見上げ悠然と泳ぐ禍蛇を睨みつける。
禍蛇に勝てなきゃ、どうせ皆死んでしまうんだ。こうなったら俺が持っている全てのものを、ひとつ残らずあいつにくれてやる。
「伊集院! 悪いけど、もう1回飛んでくれるか?」
「おせーんだよ、タコ助っ! こっちはとっくの昔に準備万端だよ!」
そう言って不敵に笑う伊集院。禍蛇に必ず勝利する。彼もそう信じているに違いない。
「……ほ、本当に戦うつもりなのか? 自衛隊が倒せなかったとしても、米軍が何とかしてくれるだろ?」
今にも泣きだしそうな顔で止めに入る渡邉。そんな彼を、修馬と伊集院は迷いのない目で真っすぐに見つめた。
「禍蛇は、俺と伊集院が必ず倒す。だから渡邉くんたちも信じてくれ。俺たちの勝利を」
修馬は伊集院の背中に乗った。地面に落ちている枯れ葉が、魔法の力で渦巻き状に舞い上がる。
「なあ、渡邉。悪いけど、アメリカの大統領にこう伝えといてくれるか?」
背中から魔法の翼を生やし、飛び出す準備を整える伊集院。だがもはやそれを見たくらいでは、同級生たちも驚きはしない。
渡邉が気の抜けてしまったような顔で「何を?」と返すと、伊集院は左手の親指を立ててこう言った。
「あんたらの提案は、ノーサンキューだってよ!」
「えっ、何それ!? どういうことだよ?」
理解の追い付かない渡邉はそのままに、修馬を背に乗せた伊集院は翼を広げ勢いよく空に舞い上がった。
夜の闇に浮かぶ禍蛇は破壊された結界を抜け出し、善光寺から北西に向かって進んでいる。それは戸隠神社がある方角。多くの市民が避難している場所だ。これ以上の被害は、絶対に起こさせてはならない。
「次で必ず仕留めるぞ」
修馬が呟くと、背後から2機の戦闘ヘリがこちらに近づいてきた。夜空に回転翼の爆音がヒステリックに鳴り響いている。
「……そうして貰えると助かるな。俺のオドはもうすぐ尽きる。こうして飛べるのは、これが最後だと思ってくれ」
強気な振りをしていた伊集院だが、体力、魔力共に限界に近いようだ。勿論修馬にしても、それは同じ。次に放つアグネアの槍と天之羽々斬に、自分の持つ全てを賭ける。
2機の戦闘ヘリは、修馬たちの両脇から一定の距離を置いて飛行し始める。それは2人を護衛しているかのようだった。
「なあ、伊集院。お前は闇魔法に耐性があるよな?」
修馬がそう尋ねると、伊集院は空を飛びながら「あ!?」声を上げた。
「さっきのサッシャみたいに、アグネアの槍の手伝いをしろってことか? 俺は闇耐性はあるけど、『闇堕ちの杖』が無ければ闇魔法は使えないんだ。悪いがあいつみたいには力は貸せないぞ」
修馬の意図を読み取った伊集院はすぐにそう否定する。だがそれは修馬も知っていることだ。
「なら、こうすればどうだ?」
修馬は左手に闇堕ちの杖を召喚してみせた。
闇の気配に気づいた伊集院は小さく振り返ると、背後に向かって手を伸ばし修馬の持つ杖を握った。彼の体はまるで息を吹き返すかのように大きく脈打つ。
「成程。これなら俺も力を貸せるぜ。何ならサッシャよりも強力な力が発揮できると思うぜ。くへへへへへへへ」
キャラが変わってしまったように不気味に笑う伊集院。
しかし一方の修馬は、闇属性の杖が体質に合わずに右手で口元を押さえていた。気分が悪くて、胃の中の物が逆流してくる。
酸っぱい胃液を無理やり飲み下し、充血した目で禍蛇を睨みつける。
「……それじゃあ、力を貸してくれ伊集院」
「ああ。いつでも準備オーケーだ!」
現在の修馬たちの位置は、麓から一番近い場所にある戸隠神社宝光社付近。そして禍蛇が飛ぶのは、恐らく戸隠神社奥社の上空。距離にしておよそ5000メートル。アグネアの槍を当てるには、もう少し近づく必要がある。
戦闘ヘリを左右に引き連れ、北北西を進路を進める2人。
明かりひとつ見えぬ山の上空を飛んで行くと、突然、ゆっくりと北上していた禍蛇が急旋回して、こちらに向かって突っ込んできた。
あっという間にその距離は縮まっていく。
両脇の戦闘ヘリは、息を合わせるようにロケット弾を放った。だが禍蛇は前進は一切止まらない。
「近代兵器が通用しないなら、喰らわせてやろうぜ。俺たちの技を!」
伊集院が言うと、闇堕ちの杖が紫色のオーラを漂わせ始めた。ここが正念場だ。
「ああ、こいつで決める……。出でよ、アグネアの槍『黒芒』!!」
2人の伸ばした手のひらから、どす黒く巨大な黒い帯が吐き出された。
直径10メートルはあろうかという太い帯に吞み込まれた禍蛇は、外皮が弾け飛び漆黒の肉体が露わになった。
「よしっ!!」
ここまでは上手くいった。
しかし問題はここからだ。天之羽々斬の刃が通らなくては、先程の二の舞になってしまう。
闇堕ちの杖を投げ捨てた修馬は、体中の酸素を入れ替えるように何度も深呼吸した。
「修馬、行けるか?」
闇堕ちの杖が無くなったことで力を失った伊集院が、疲弊した様子でそうに聞いてくる。
だが修馬はこの戦いの勝利を信じて疑わなかった。それはこの戦いにおいて、とても重要なことを思い出していたからだ。
外皮を失った禍蛇が、夜空を飛びのたうち回っている。2機の戦闘ヘリが機銃掃射を浴びせているが、あれによるダメージは期待出来ないだろう。
「なぁ、伊集院。このまま禍蛇の口の中に突っ込んでくれないか?」
修馬がそう頼むと、伊集院はこんな状況にありながら「……はぁ!?」と素っ頓狂な声を上げた。
「俺、この戦いの中でタケミナカタが言っていたことを、思い出したんだ。禍蛇の倒し方はアグネアの槍で光の外皮を剥ぎ取り、そして闇の体が現れたら天之羽々斬で内部から真っ二つに断ち切る。それが禍蛇を討つ唯一の方法だと」
そこまで聞くと伊集院も理解したようで、わなわなと口を震わせ振り返った。
「内部ってまさか、口の中から入って体内から禍蛇を斬り捨てるってのか……?」
「……うん。つまりそういうことだと思うんだ」
修馬が素直にそれを認めると、伊集院は空を飛びながらも両手で頭を抱え激しく振り乱した。
「最悪だ!! 最悪の状況で、最低な提案をするパートナーだ! 何ハラスメントだよ、それ? 夫婦だったら確実に離婚案件だぞ!?」
「ほんとごめん。もう友達やめてくれても、後でぶん殴ってくれてもいいから、最後にこれだけ頼む……」
伊集院の背中に乗りながら深く頭を下げる修馬。
だが肝心の伊集院にその姿が見えていないのだから、その座礼はあまり意味を成していないのかもしれない。
「友ヤメってか? 友達だったらすぐにでもやめてやるんだが、ちょっと考えてみろ。俺と修馬は本当に友達なのか?」
戸隠山上空で流れる微妙な空気。修馬は頭を上げると、額から流れる汗を手で拭き取った。
「……違ったっけ?」
「そりゃあ、そうだろ。俺と修馬は、友達じゃなくて幼馴染だ! 友達だったらやめてやることができたかもしれねぇけど、幼馴染をやめるって意味がわかんねぇだろ!」
伊集院はそう言うと、両脇の戦闘ヘリに向かって真っすぐに腕を伸ばした。
何かを察した戦闘ヘリが銃撃を止める。掃射を受けていた禍蛇は、怒りを表すように大きく口を広げ「キーンッ」と甲高い声で鳴いた。
「はぁ……。お前と幼馴染になったのが、運の尽きってやつだ。仕方ねぇ、乗ってやるよ。そのイカれた提案!」
覚悟を決めた伊集院は、真正面にいる禍蛇と向き合った。ただ彼の体の震えは、背に乗る修馬に確実に伝わっている。
「……ありがとう、伊集院」
「礼なら禍蛇倒した後でたっぷり聞いてやるよ。別に玉砕狙いってわけじゃないんだろ?」
「勿論だ。お前と心中するつもりはない」
「ははは、そこは意見が合ったな。流石は幼馴染。だったらとっとと行くぞ! 早くしないと光の外皮が復活しちまう!」
修馬を乗せた伊集院は、正面に向かって一気に空を駆けた。
それに合わせるように、禍蛇もおぞましい声を響かせこちらに突っ込んでくる。恐怖に呑まれるな。己に打ち勝て。
守屋伊織の高祖父、初代守屋光宗はこう言っていたらしい。
剣術使いは、生きるために死を賭して戦うという矛盾を背負わなければならないと。
伊集院と心中する気は更々ないが、身命を賭してでも目の前の化け物は確実に討ち倒す。
夜の闇の中を、巨大な黒い大蛇が大きく口を開けて迫ってくる。
修馬と伊集院は不快な瘴気に耐えながら、その口の中に向かって一直線に突っ込んでいった。
もしも地上からこの様子を見ている人が居たのなら、修馬たちは食べられてしまったかのように見えただろう。
だが修馬も伊集院も死んではいない。
生きるために、禍蛇の喉の奥底で大きく声を張り上げた。
「建御名方神よ、
広瀬修馬の名の元に、災いもたらす蟒蛇を討ち倒し給え……。
出でよ、五代守屋光宗『天之羽々斬』!!」
禍蛇の腹部が、不自然に膨張する。
そしてひび割れた体の隙間から眩い光が漏れると、口を大きく開け激しい鳴き声を上げた。
夏の終わりの雷鳴にも似た断末魔が、夜の戸隠山に虚しく響く。
禍蛇は形状を維持できなくなったのかのように全身を膨らませると、溢れる光と共に弾け飛び、漆黒に近い夜の空にきらきらと霧散した。