第232話 魔除けの鏡
急速に広がっていく夜の闇の中で、発光する大蛇が水を得た魚の如く泳いでいく。
修馬を背に乗せた伊集院は、それを全速力で追いかけている。夜を迎えた上空の気温が低く、露出した肌に冷たさが風が染みた。
「どこへ行く気だ、あの蛇……?」
前を行く禍蛇を細めた目で睨みつつ、独り言のように呟く修馬。言葉を返さない伊集院の肩に手を触れると、彼は空を飛翔しながら微かに体を震わせていた。
うねりながら空を飛行する禍蛇が、金属音のような鳴き声を上げる。
その時、修馬は思い出した。伊集院は蛇が大の苦手だったということを。リーナ・サネッティ号で巨大な海蛇と遭遇した時は、腰を抜かしてしまって散々であった。
災厄にも例えられる禍蛇は誰もが恐れる化け物なのだろうが、伊集院にとってはそれ以上に最悪の相手なのかもしれない。
しかしそれでも体を震わせ、全身に鳥肌を立てながら、修馬の羽となり禍蛇に向かっていく伊集院。彼のためにも、禍蛇を倒す剣がなまくらであってはいけない。全身全霊を傾けて死力の限りを尽くす。
「す、裾花川を越えるぞ!!」
伊集院が声を上擦らせながら叫ぶ。
下方に見えるのは信濃川水系の一級河川、裾花川。もうすぐで結界の端まで到達すると思われる。一体、禍蛇はどこまで行くつもりなのか?
「結界の端にぶつかると術者に負担がかかる。攻撃を当てて、禍蛇の進行方向を変えさせるぞ」
飛びながら両手を合わせる伊集院。そして赤い炎が灯ると、手の中から巨大な火の玉を射出した。
火の玉は禍蛇の尻尾に当たり、キーンと切なげな鳴き声が響く。
しかし禍蛇は進路を変えない。蛇行したまま南西に向けて飛んでいく。
「駄目か!? だったら、もう一発……」
伊集院は再び手の中に炎を灯らせる。だがそれを放つ直前、辺りに大きな炸裂音が鳴り響き、空に大量の火花が散った。
「キーンッ!!」
と鳴きながら首を曲げ、大きく左に反れる禍蛇。
結局結界に衝突してしまったようだ。禍蛇は一度上空へ浮上すると、様子を伺うようにその場で旋回している。
修馬たちの下に位置するのは、四の星である『夏目が原公園』。見るとそこには、戸隠神社中社宮司の藤田の姿があった。他にも神職の装束を着た者が数名祈りを捧げている。
結界を守る人たちの近くで戦うというのは、あまり良い選択とは思えない。どうにかして禍蛇をここから移動させられないだろうか。
意を決した修馬は、上空を泳ぐ禍蛇を見上げ武器召喚術を使った。
「出でよ、アグネアの槍!!」
手の中に現れる一本の黒い槍。以前、異世界で見たときは太鼓のバチくらいの棒だったのだが、召喚してみると持ち手の先端から棒状の闇が1メートル程伸びており、一般的な槍の形状を保っていた。これがアグネアの槍の本来の姿なのか?
槍を握る手を前に掲げ、まじまじと見る修馬。ようやく武器らしい姿になってはくれたが、それでもこの槍であの化け物に対抗できるとは思えない。
「恐らくそれは、魔法槍なんだろうな」
伊集院が言う。
「魔法槍?」
「ああ。ようはサッシャの持つ流水の剣とかと一緒だよ。持ち手以外は魔法で構成されている武器。似たような感じで使ってみれば、その槍の能力を上手いこと引き出せるんじゃないか?」
「成程……」
伊集院の言葉に納得した修馬は、天に向かって槍を構えた。持ち手以外の部分からは、煤のような黒いオーラが溢れている。
流水の剣には『白線』という遠距離攻撃ができる形状がある。それに似たことができないか、とりあえずは試してみることにしよう。
「アグネアの槍よ、広瀬修馬の名のもとに真なる力を発揮せよっ!!」
空を突くように腕を前に出すと、槍の穂先から帯状の闇が天高く伸びていった。
そしてその闇の帯は、夜空を旋回する禍蛇の胴体に見事直撃する。発光する外皮は砕かれ、光る鱗が夜空に飛び散った。
空を飛びながら伊集院は振り返る。背に乗る修馬は、彼と目を合わせこくりと頷いた。
この攻撃は効いている。善光寺の老住職が言っていた黒芒に似た攻撃とは、間違いなくこれのことのようだ。
夜空にキーンッと、強い耳障りな音が鳴り響く。
禍蛇はねじれるように螺旋を描きながら上昇すると、そこから東の方角に向かって飛んでいった。
「逃がさねぇぞ、クソ蛇がっ!!」
修馬を背に乗せた伊集院は、すぐさまその後を追う。裾花川を越えた禍蛇は、再び市街地へ向けて泳いでいった。
「今度は五の星の方角に行くみたいだな。境界線での戦いは避けたい。修馬、追撃は可能か?」
「当たり前だ。絶対に結界は破らせない! 出でよ、アグネアの槍『黒線』!!」
背後から帯状の闇を放つ修馬。
それが禍蛇の尾に命中すると光の外皮を僅かに砕いた。しかし禍蛇の動きは止まらない。
効果は薄いかもしれないが、今はこれをするしか方法が無い。
境界線に近づかせないために『黒線』を乱発していく。当たるたびに外皮は砕かれその下からどす黒い体が露出されるのだが、しばらくすると光の鱗が修復され、また元の体に戻ってしまう。新陳代謝の速度が尋常ではないのだ。
術の連発で眩暈を覚えた修馬は、一度その手を休めた。
このままではジリ貧だ。次なる一手を考えなくてはならない。
アグネアの槍による攻撃を止めたためか、禍蛇は移動の速度を緩めると、市役所上空でとぐろを巻くようにして止まり怪しげに鎌首をもたげた。
奇妙な緊張感が漂う。
嫌な予感がしたのも束の間、禍蛇は口を大きく広げると地上に向かって『黒芒』を吐き出した。
甲高い音共に放たれる一筋の厄災。それは300メートル程先にある長野市消防団本部の駐車場に落ち爆音を轟かせた。
停めてある消防車が、玩具の車のように簡単に転がっていく。直撃を受けた地面は、クレーターのように半球状に削れてしまった。
「まずい! 五の星が狙われた!!」
直滑降で地上へ下りていく伊集院。彼の言う通り、長野市消防団本部の建物は五の星を担っているのだ。
重力で自然落下するよりも速い速度で下降し、消防局の建物の横にある訓練用の櫓の上に下り立つ。そこには結界の術者である珠緒と、クラスメイトでイケてるグループの渡邉たちがいた。
「い、伊集院、広瀬。大丈夫なのか?」
渡邉が震えた声で聞いてくる。
「俺らは大丈夫だけど、今、禍蛇が狙っているのはこの五の星だ。気をつけろ!!」
強い口調でそう警告する伊集院。だが気をつけろといっても、どうすることもできないだろう。逃げて貰ったほうがいいかもしれないが、もしかすると自分たちがいるこの場に留まってくれた方が守りやすいかもしれない。
珠緒の後ろで小さくなっているイケてるグループの3人。
そしてその時になって気づいたのだが、櫓の端に何かを抱え込むように背中を丸めて隠れているもう1人の人物がいることに気づいた。それはクラス委員長の米山だ。彼も先程の攻撃で、かなり怯えてしまっているのだろう。
再度空から甲高い音が鳴った。
「攻撃が来るぞっ!! 魔法障壁 LEVEL3!!」
伊集院の手のひらから円状のバリアが広がり、櫓の上を広く覆う。それと同時に禍蛇の放った『黒芒』がぶつかり、櫓全体に衝撃が走った。
地震でも起きたかのように、櫓が激しく揺れ動く。渡邉たちは倒れてしまっているようだが、珠緒は跪きながらも辛うじて術を継続していた。
「このままじゃまずい! ここは俺が守るから、修馬は迎撃を頼む!!」
「わかった!!」
櫓の手すりに飛び移った修馬は、涼風の双剣を使って空を滑空し隣の消防団の建物の上に着地する。そしてすぐにアグネアの槍から『黒線』を複数回放った。
修馬の攻撃により禍蛇の頭部が微かに削れるも、怯む様子は微塵もない。消耗しているのは明らかにこちらの方だ。
禍蛇は悠然と空を一周すると、櫓に向かって無数の細い『黒芒』を吐き出した。
五月雨のように次々を襲ってくる細い『黒芒』。伊集院の魔法障壁がどうにか防いでいるようだが、凄まじい攻撃にいつ破られてもおかしくないだろう。
禍蛇の攻撃を止めさせたい修馬。しかしその細い『黒芒』は修馬のいるところにも飛んできており、陰陽の盾を使って防ぐことで今は手いっぱいだ。
どうにか凌ぎながら反撃のタイミングを伺う。
するとその時、隣で何かが割れるような音が大きく響いた。
「うわっ!?」
背後に卒倒する伊集院。魔法障壁が遂に破られてしまったようだ。そして空にはもう一本の細い『黒芒』が、櫓に向かって襲いかかろうとしている。
「まずい!!」
陰陽の盾を捨てた修馬は、涼風の双剣を召喚し櫓へと飛翔する。しかしその速度では、とても間に合うことはできない。
無防備な状態で術を唱え続ける珠緒。修馬の目の前でクラスメイトたちが命の危機にさらされている。しかしどんなに腕を伸ばそうとも、『黒芒』の速度に追いつくことはできない。
櫓の上部で黒い光が弾けた。
とてつもない耳鳴りがして顔をしかめた修馬は、勢いそのままに櫓の上に転がり落ちてしまった。
一瞬の静寂の後、「キーンッ!!」という禍蛇の鳴き声が空に響く。
まずは己の無事を確認しゆっくりと夜空を見上げると、どういうわけか禍蛇の頭部の外皮が半分ほど砕けており、黒い頭がむき出しなっていた。
一体何が起きたのか?
櫓の上を見渡すと、クラスメイトたちは全員無事のようだった。そして術を継続して唱えている珠緒の前には、何か大きな額縁のようなものを抱えた委員長の姿もある。
「委員長……、それは?」
修馬が尋ねると、委員長は情けない表情を浮かべこちらに振り返った。
「こ、これはおじいちゃんが大切にしている、こ、骨董品の御神鏡。魔除けになると思って持ってきたんだけど……」
そう言うと、委員長は膝が崩れるようにしてその場にへたり込んだ。
どうやら委員長がその御神鏡とやらで『黒芒』を反射させ、その跳ね返しで禍蛇の頭部を砕いたようだ。
「マジかよ! ナイス、米山!!」
「やるな、米さん!!」
「よっ! 委員長!!」
皆各々の呼び方で称賛するも、委員長は自分の持つ鏡に目を向けるとがっくりとうな垂れ目に涙を浮かべた。
「け、けど、鏡、わ、割れちゃった……。お、おじいちゃんに、絶対怒られる」
その直径1メートルはあろうかという大きな御神鏡には、右上から左下にかけて大きなひびが入ってしまっていた。だが禍蛇の攻撃を受けて、それだけで済んだのだからむしろ幸運だと言えるだろう。
「大丈夫、大丈夫。ありがとうな米山。お前は命の恩人だよ。じいちゃんには、皆で謝ろうぜ!」
その渡邉の言葉に皆が頷いた。
委員長のおかげで結界自体もどうにか守ることができた。これを無駄にすることはできない。
空を見上げる修馬。頭部の外皮を砕かれた禍蛇は、鱗を修復しながら今度は北に移動している。
「ここはもう大丈夫。早く禍蛇を追いかけて、広瀬くん、伊集院くん!」
結界を守る術を使いながら珠緒が言った。
「よし。行けるか? 伊集院」
「当然だ」
座り込んでしまっていた伊集院も立ち上がり、修馬を背中に乗せる。
「俺たちは禍蛇を追うから、守屋のことよろしく頼む!!」
跳び上がり、翼を羽ばたかせる伊集院。禍蛇が次に向かっているのは、三の星の方角。修馬を乗せた伊集院は全力でそれを追いかけていった。