第230話 ルーフトップボーイ
現在の時刻は午前10時23分。禍蛇が現れるとされる日没の時刻は、午後6時36分。それは今から約8時間後のこと。
この時間をどう有効に使えばいいかと考えを巡らせたが、今更準備することなど結局何もなかった。異世界での旅と現実世界のひと月で、その手筈は整っている。
食事が到着するのを待っている間、修馬は5階建てである病院の屋上にやってきていた。
ここから長野の市街地までは4kmほど距離が離れているが、長野駅周辺からは黒煙が上がっているのが見えた。こんな状況であるので、消火活動もままならないらしい。
遠くの町で昇る、一本の黒い煙。その様子を眺めていると、脳裏に禍蛇の姿が蘇ってきた。
真夏の日差しを浴びているはずなのに、不思議と体が震えてきてしまう。『天之羽々斬』と『アグネアの槍』。禍蛇を討つための2つの武器は揃えはしたが、果たして自分たちの手であの化け物を倒すことなど本当にできるのだろうか?
南の方角から生暖かい風が流れてくる。
その風を浴びながら屋上の鉄柵に寄りかかっていると、何者かに左肩をちょんちょんと突かれた。
飯の調達にしては早いなと思いつつ振り返る。そこには不遜な態度で立っているタケミナカタがいた。
「いよいよじゃな、小僧。調子の方はどうだ?」
「勿論、絶好調だよ……」
前々日、美術館の屋根から落ちて体を打ち付けたことで、実は体のあちこちに打撲を負っている。動く度に痛みが走るが、ここまできたらどうしようもない。
「やれやれ。虚勢を張るのが下手な男じゃな」
タケミナカタはため息交じりにそう言うと、修馬の真似をするように鉄柵にもたれかかり、そのままだらりと腕を垂らした。入院中に隠れて煙草を吸いに来たチンピラみたいに見えなくもないが、これでれっきとした神様なのだからこの世は実に恐ろしい。
「なあ、タケミナカタ」
「何だ? 面倒な質問なら答えぬぞ」
耳をほじりながらタケミナカタは言う。
修馬は玉藻前と戦った時から、ずっと気になっていることがあった。それはとても単純な質問だが、ある意味面倒な質問なのかもしれない。
「……禍蛇って、何なんだ?」
玉藻前が文明を破壊し人間に対し攻撃を仕掛けたのは、単純に人間を忌み嫌っているからだ。動機はともかく、理屈としてはわかりやすい。しかし禍蛇はどうなのだろう?
弱く愚かな人間が、この世界の支配者のように振舞っているのは気に入らない。それが玉藻前の主張だったが、禍蛇は如何なる理由があって、人間を滅ぼそうとしているのか?
むっつりと口をへの字に閉じるタケミナカタ。そして下唇を突き出すと、戯れるような顔をこちらに向けた。
「さてなぁ。祟り神とも荒振神とも違うようだが、何かが神格化した存在には違いあるまい。詳しいことは儂にもわからぬが、あれを放っておけばいずれ人間の住む世界は滅亡するであろう」
どこか突き放すような言い方をするタケミナカタ。この世が滅亡する恐れがあるのに、どうしてこうも他人事なのだろう。今更こんなことを言ってもしょうがないのだが、タケミナカタや他の神様たちが直接手を下した方が話が早いと思う。
寄りかかっていた鉄柵から体を起こすと、タケミナカタは伸びをしながら大きな口で欠伸をした。
「なあ、小僧よ。儂らはそういう存在ではないのだ」
「……どういうこと?」
まるで心の内を読んだかのようなタケミナカタの言葉に、修馬は軽く狼狽し黒目が左右に揺れ動く。
「人を滅ぼそうとしているものを、人の手で討つから意味があるのではないか」
タケミナカタはそれだけ言い、その場から泡の如く消え去ってしまった。
「お、おい……。タケミナカタ?」
その名を呼んでも、当然のように返事はない。
諦めた修馬が鉄柵にもたれかかると、今度は右の肩をちょんちょんと突かれた。
「いや、後ろに居たっ……。い、痛い」
「ふふふ。引っかかったね」
勢いよく振り返ると、頬に人差し指が突き刺さった。これは随分と古典的ないたずら。引っかかったのは、恐らく小学生の頃以来だ。
「友理那か……、いつの間に?」
「えーと。タケミナカタが変顔している時からかな」
そこにいたのは友理那。
彼女はそう言うと日傘を広げ、手のひらでぱたぱたと首元を扇いだ。異世界の人間にとって、日本の暑さは堪えるのだろう。
「疲れてるんじゃないの? ちゃんと寝た?」
伊集院の話によると、友理那と守屋家の人たちは禍蛇を閉じ込める結界を守るため夜通しで術を使い続けていたということだった。夜明けの時刻から考えて、まだそれほど眠れていないはずだ。
「睡眠は少しだけね。体はくたくたなのに、頭だけははっきり冴えちゃってて」
友理那は一度俯き、そして顔を上げた。
そんな彼女の気持ちもわからなくはない。今夜の決戦は、今まで戦った魔物や妖怪とは比べ物にならないものだろう。少しでも気持ちの整理がつくなら、しばらくは話し相手にでもなろう。疲れているのだから、心が落ち着けば自然と眠気もやってくるはず。
「ありがとう、友理那。俺たちが眠っている間、結界を造って守ってくれてたんでしょ」
まずは礼を言う修馬。そしてその市街地に張った結界について色々と話した。
聞けばその結界は、アルフォンテ王国に伝わる防護魔法をベースに友理那と珠緒で造り出したもので、北は善光寺から南は長野駅の広範囲に描いた六芒星形の結界なのだそうだ。
「結界にはそれを囲むように6つの星があって、そこにそれぞれ術者がついている。そしてその星の1つでも欠けることがあれば、結界は崩れ去ってしまう」
その結界を維持するには6人の術者が必要なのだという。しかし、それを担っているのは誰だろう? 友理那に珠緒に伊織さん。後は……。
「もしかして、葵ちゃんと茜ちゃんも手伝ってるの?」
「うん。葵ちゃんは玉藻前との戦いで肋骨にひびが入ってしまっているから安静にして欲しいんだけど、どうしても手伝いたいということだったから、茜ちゃんと共に『三の星』の守護をお願いしたの」
「2人一緒か……。なら大丈夫かな」
まだ幼い姉妹ながら、葵は強力な雷術の使い手だし、茜はあの玉藻前を氷漬けにした術者だ。怪我を負ってはいるものの非常事態なので、頑張って貰うしかないだろう。
そして残りの2つの星は、戸隠神社の宮司と善光寺の僧侶が務めてくれているのだそうだ。信仰するものこそ違いがあるが、友理那曰く、この術で大切なのは思いを一つにするということ。この国を守りたいという気持ちは皆変わらないだろう。クラスメイトの皆も渡邉と委員長の呼びかけで、結界の守護を手伝ってくれているとのことだ。
青い空を見つめ、友理那はまた手のひらをはためかせた。シャンプーの華やかな香りが、微かに宙に舞う。女の子が使うと、どうしてシャンプーはこんな良い匂いになるのだろう?
「流石に暑いよね。日陰に移動しようか?」
気を使いそう言うも、友理那は首を横に振り「大丈夫。それより修馬、あれが見える?」と言って、正面に見える西の空を指差した。
しかしそこには何もない。ただ青い空と白い雲が見えるだけだ。
「何かあるの?」
「実体化はしていないけど、筋状に伸びている雲の近くに禍蛇がいる。禍蛇は今も空を泳いでいるの」
衝撃的なことを平然と言う友理那。修馬は驚きのあまり目を広げ、まじまじと空を注視した。
すると空に浮かぶ雲に一筋の歪みが滲んだ。更にそれを目で追っていくと、薄っすらと透明な何かがうねりながら空を舞う姿がじんわりと浮かんでくる。
「あ、あれか……。昼間も存在はしているんだな。結界は大丈夫なの?」
広い空を悠然と泳ぐ禍蛇。半透明のその姿は、いつか見たディバインの思念体に酷似している。
「実体化していない今はこちらの攻撃が通用しないものの、禍蛇自体の力も弱体化しているから、術者無しでも結界内に留まっていられるはず」
共にそれを見守る友理那の言葉に、修馬は安心して息をつく。確かに一昨日の夜に見た時のような圧倒的な戦慄は、今の禍蛇からは感じられない。
だが続けて言った友理那の言葉に、修馬の思考は一瞬だけ止まってしまった。
「今の禍蛇は、ディバインが内部から制御してくれている状態だから」
「……ディバインが内部からって、どういうこと?」
振り返り修馬が聞くと、友理那も真っすぐな目で顔を見合わせ言った。
「ディバインは元々、龍神オミノスの化身なの」
「へ?」
素っ頓狂な声が漏れる修馬に対し、友理那はどこか申し訳なさそうに小さく頷く。
彼女の話によると、龍神オミノスはかつての勇者によって倒された際に、2つの体に分かれたそうなのだ。1つはそのまま魔霞み山に封印され、そしてもう1つは地上に残った。それがディバイン。
そしてこちらの世界に禍蛇として降臨した時、かつて2つに分けられたものがひとつとなった。ディバインが巨大化していたのは、こちらの世界で禍蛇の力が強くなっていったからなのだそうだ。
「あのディバインが……、オミノス、禍蛇の化身?」
「そう。自制心を持たない禍蛇の行動を掌握するために、彼女は、ディバインは禍蛇と再び一つになることを決めた。もっとも、掌握できるのは力が弱まっている日中の間だけの話だけど」
「じゃ、じゃあ、禍蛇を倒すということは……」
禍蛇を討つということはつまり、それと同化したディバインも一緒に討たなければいけないということになるのだろうか? ためらいの気持ちが、修馬の心に滲み出てくる。
「私はずっと考えていた。修馬たちが異世界に転移した理由がアグネアの槍を手に入れることなら、私が黄昏の世界に転移してきた理由は何なのだろうかと。……そして気づいたの。私の役割は、ディバインをこちらの世界に連れてくること。彼女にはオミノスがこちらの世界に降臨する未来が見えていたのかもしれない」
晴れた空に遠雷のような音が微かに響く。
これは禍蛇の鳴き声なのか、はたまたディバインのものなのか。
「ディバインは自らの意志で禍蛇と同化したのか。俺たちと戦うことになるというのに」
修馬の質問に対し、友理那ははっきり「うん」と頷いた。
「青い空を見上げた時、時々思い出してくれればいい。美しく気高い竜の神が、この世にはいたということを……。これがディバインが私に最後に言った言葉。きっと彼女は、私たちに引導を渡して貰いたいと思っているはず」
「そうか……」
そして修馬と友理那は、真っ青な夏の空を眺めた。薄っすらと空を泳ぐ半透明の禍蛇。数時間の後に俺たちはあの禍蛇と戦わねばならない。それは果たして神々の意志なのだろうか?
暫し空を見つめていると、南から一陣の風が吹き抜けた。深く息をついた友理那は、踵を返し屋上の鉄柵に背を向ける。
「私、少し休ませて貰うね」
「うん」
肩を落とし、疲れている様子で階段室へと向かっていく友理那。そんな彼女に、修馬は「ねぇ」と後ろから声をかけた。
「こんな時に言うことではないのかもしれないけど……、俺、たぶん君のことが好きだった」
風が止み、静寂の時が流れる。
果たして何故今、このタイミングでこんなことを言ってしまったのだろう? 眠れない心を落ち着かせるために話し相手になっていたのに、こんなことを言ってしまっては逆効果でしかないというのに。
一度立ち止まった後、ゆっくり振り返った友理那は、真剣ながらもどこか困ったような眼差しでこちらを見つめてきた。
「ありがとう。私も修馬のことが好きだった……、と思うよ」
この時、お互いにお互いのことを過去形で好きだと伝えた。何故現在進行形で言わなかったのかは、修馬自身もよくわからない。ただ今の思いを明確に伝えるならば、好きだったという言葉が一番妥当だったのだ。
そして目を細めた友理那は、優しく微笑みかける。
「それじゃ、また今夜」
真っすぐに重なっていた2人の視線が、不意に外れる。
何か大切なものを失ってしまうような感覚に陥った修馬だったが、それ以上、彼女のことを引き留めておくことはできなかった。
「……おやすみ。また、今夜」
友理那が屋上から立ち去ったその後で、修馬は口を小さく開けそう呟いた。